希望の舎―再生編ー

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職業に貴賤はある。だが絶対的なものではない件〈再掲〉

社会的威信の高い仕事は時代によって変わる。

今は「いい仕事」とされているものでも昔は賤しいとみなされていた仕事は幾らでもある。

職業に貴賤あり・なしとする議論は意味がないのかもしれない。

 

初出 2016/10/27

 

職業に貴賎は無い、という物言いは建前であり、偽善的なものの最たるものである。

あえていう必要もないが、職業には貴賤がある。今も昔も。

現在の社会において「貴」と見られる職業は報酬が高く、社会的威信の高い仕事である。例えば、高級官僚、医者、弁護士、有名企業の正社員、銀行員、大学教授等が上がってくる。

「賎」については、報酬が低くて、人の嫌がるような仕事が多い。社会的威信も低い。サラ金では貸さない職種があるそうだが、それとこの「賎」の仕事は重なると推測される。

 

理想を言えば、職業に貴賤なんかない方が良いに決まっている。人それぞれの希望や適性に応じた仕事を選んで、社会的威信や収入に差が無い社会が理想郷である。

しかし、現実はそうとはいかない。キューバでは労働者であれば職種に関係なく報酬がある程度一定らしいが、それはそれで問題が山積していると聞く。

 

ある仕事に従事しようとするときに、学習の期間(学歴)、資格制度の有無やその難易度によって仕事間格差、職種間格差が生じる。このことは機会の平等が担保されていれば、合理的な差別だと考えられているし、僕もそう思っている。

しかし、インドのカースト制、近世の日本の身分制の際に見られた一部の職業への賎視は別物である。不浄や穢れといった観念に基づく職業の貴賤観は現代に生きる僕たちが必ず克服しなければならない大きな課題である。

 

一方で職業の貴賤は絶対的なものではない。時代とともに変化する相対的なものである。

以前のエントリーで医者や芸能が近世以前には賎視された仕事だと書いたことがある。これはこの国だけではなくヨーロッパ諸国でも同様に見られたことである。

 

例えば、銀行員である。金融危機以降に若干社会的威信は低下したとはいえ未だに報酬も社会的地位も高い職業である。

この国では中世、室町時代の頃まではカネを扱う仕事は賎視されていた。賎視は言い過ぎだとしても、決して社会的な地位は高くなかった。モノを作らずに、カネからカネを生むような仕事は世間から忌避されていたのだ。これは中世ヨーロッパでも同様である。だから賎視されていたユダヤ人が金融業に進出せざるを得なかった事実がある。

資本主義の勃興により金融の役割が重要となり、金融に関わる仕事の賎視が消滅したのである。

 

中世のヨーロッパで金貸し以外に賎視されていた仕事に、刑吏、税金の徴収人、理髪師、外科医、煙突掃除人、風呂屋、歯科医等がある(もっと沢山あったが忘れてしまった)。現在と比べてどうだろうか。時代が変われば賎視される職業・仕事が変化する。要するに仕事に関する貴賤観なんていい加減なものなのである。

 

現実には世間ではその人の就いている職業によって見下したり馬鹿にする人が多くいる。

その行為を非難するだけでは何も解決しない。時には非難する行為が偽善的になりさえする。

職業差別するような人は放っておくしかない。

案外、そのような人は抑圧され、自分の思うように生きられない悲しい人なのかもしれない。

  

体育会系マネジメントなんてもういいかげん辞めたら、という件

僕はスポーツ観戦が大好きである。野球、ラグビー、アメフト、駅伝等々そのシーズンが到来するのを楽しみにしている。

しかし、体育会系的なノリは苦手である、というか嫌悪感を覚えるときがある。

 

この国の会社組織では体育会的なエートスを持ったところが多い。

経営者や上司の命令に完全に服従する、協調性を殊更に重んじる、やたらと先輩後輩の関係性にうるさいなどなどである。それと根性論や精神論が蔓延し、数多の不条理が存在する。

組織のマネジメントの方法として体育会系的エートスを注入すること自体はありだとは思う。この手のマネジメントが時として組織を発展させることが往々にしてある。また、体育会的なノリを好む人たちが多数存在することも事実である。

 

僕がスポーツそのものが好きなのにもかかわらず、学生時代に運動部や体育会に所属しなかったのは(短期間所属したことはあるが)根本的に体育会的なノリが嫌いだったからである。

 

長じて、会社に雇われて働くことがたまらなく嫌になったのはこの体育会的ノリを嫌悪するメンタリティを持っていたことが関係していると思う。

なぜちょっとだけ先に生まれた奴を先輩として敬わなければならないのか。ただの会社の役職に過ぎないだけなのに、上司にプライベートまで干渉されなければならないのか。先輩や上司ということだけで自分より特段優れているとは思えない奴らに従うことがたまらなく嫌だったのである。

それと仕事を遂行するうえでの合理的な創意工夫がイマイチ評価されず、やれやる気を出せだの、遅くまで残って仕事をしろだのといった不毛な精神論が跋扈しているのも大嫌いだった。

 

体育会系のマネジメントには長所と短所がある。

経済成長期には体育会系マネジメントがかなり有効だっただろう。イケイケドンドンの時は強く統制された組織が強みを発揮する。目標が明確な時には個の尊重よりも、個を殺しても全体の利益に奉仕するメンタリティを持った人たちの集合体の方が結果を残せるのである。

しかし、今はそんな時代ではない。

個人を尊重し、ひとりひとりが柔軟な発想をし、創造性を発揮しなければ生き残れない時代となっている。

 

僕の個人的な意見なのだが、今後は少々「ゆるい」組織の方が発展し結果が出せるのではないかと思っている。体育会的なガチガチな組織は先細りになるのではないかと考えている。尤もこれは僕の趣味嗜好も入っているので、全くの独断なのだけれども。

 

団体スポーツにおいてもチームワークの前提として個の能力を高めることが当然にチーム力を高めることになるという風潮になっている。チームワークありきではなく、個々の力を発揮する土壌がなければそのチームはだめなのである。チームプレーはもちろん大事ではあるが、個人の創造性や能力を発揮できないと、そのチームは強くなれないのである。

 

年功制ややたらと多い中間管理職(オッサンの既得権)が、チームプレイという名のもとに個を抑圧することがデフォルトとなっている会社・組織に未来はない。

もう体育会的なマネジメントを辞めて、それをベースとしたシステムそのものをリストラした方がよい。

 

 

今は「ビンボー自慢」すると白眼視されたり変人扱いされるという件

僕は当然のことながら(なぜ当然なのか分からないが)ビンボー人である。僕はビンボーであることを悲観視していないし自分を卑下したりもしていない。

カネを稼げる人が偉い人でありカネを多く持っている人が立派な人だというカネ万能主義イデオロギーからすると僕は全くのダメ人間である。

まあダメ人間であることは否定できないところなのだけれども、何だかスッキリしないような心持ではある。

 

僕は今友人が経営する塾で講師をしている。

その塾で僕が担当する生徒(中学生)たちと話をしていて、僕がかつて公務員をしていて仕事が面白くなくて辞めたということに対してネガティブな反応があった。安定した仕事を辞めることが考えられないという。また、僕が楽しんで自由を満喫しているお気楽ビンボーライフなんかも考えられないという。彼らはちゃんとした会社に就職して結婚していい生活を送りたいのだそうだ。それらは親の価値観が反映しているのかもしれない。あるいは彼らなりに考えて周囲の人たちを見てみてそのような価値観を正しいと捉えているのかもしれない。

僕は生徒たちが「真っ当な」考え方をしていることに感心した。その安定志向的なものを批判する気にはならない。ただ、人それぞれに様々な生き方・価値観があること、絶対的に正しい生き方なんてないことを伝えることができれば、との思いを抱いた。

 

このエントリーのタイトルに「ビンボー自慢」と書いたけれども、僕は殊更にビンボー自慢はしたくはない。カネはあるに越したことはない。

「衣食足りて礼節を知る」という成句はある面の真実をついていると思う。

ただ、カネ万能主義的なイデオロギーには拒否感を抱いている。カネが万能という価値観の一元化にどうしても馴染めないのである。

この「価値観の一元化」には多大な危険が伴う。例えばカネが万能という価値観ではなく、国家や会社に命を捧げることが正しいという価値観に一元化されたら、と考えると背筋が凍る思いがする。

これはただのヨタ話ではない。

現実にありうることなのである。

 

話題を塾の生徒たちとのやりとりに戻そう。

彼らのうちの一人が「先生の人生、もう終わってるやん」と問題発言をかましたのである。僕は怒りもせず、そんなことはない、僕の人生はこれからだ、とやんわりと否定した。

若い彼らからすると世間で「真っ当」とされるレールから外れた生き方をするともう終わりだと感じられるのだ。また、僕のような生き方を選択している大人に出会っていないのである。当たり前と言えば当たり前の話である。

救いがあるのは、彼らが僕を侮ったりしていないことが感じられたことである(ちょっとナメられてはいるけれども)。僕のようなちょっと変わった生き方をしていて、世間の真っ当な大人たちと異なった価値観を有する者に興味を抱いてあれこれとツッコミを入れることに楽しさを感じているのである。

僕が彼らに与えることができるもの、それはこんな僕みたいな奴でも何とか生き延びることができるということを身をもって示すことである。人生色々あって、それでも何とかなるという事実を知ってくれれば、それで十分である。

 

僕は自分のビンボーお気楽生活を満喫していることを控えめに表明しているが、もう少しだけ声高々に「ビンボー自慢」ができるようになればいいのになあ、と思っている。

ビンボー人が全く自分を卑下せずに「ビンボー自慢」が抵抗なくできるような世の中の方が「健全」で「真っ当」なような気がする。

 

会社が自分の世界のすべてだと思い込むことは危険であるという件

僕たちは生まれてからずっと自分が置かれた環境に適応することを求められる。

幼稚園や保育所、学校でもそれぞれルールがあり、先生や他の生徒との関係を築かなければならない。働き始めてからは尚更に会社等の組織に「適応」しなければならない。

 

一部の人たちは組織になかなか馴染めないでいる。

僕は程度は軽いが社会不適合者である。まあ、程度が軽いと思っているのは僕だけかもしれない。

個人対個人の人間関係では悩んだことは殆どないが、組織の中での立ち位置をなかなか見出せなかった。会社という組織の持つ特有の空気やルールに馴染むことができなかった。

 

一方で組織に過剰ともいえるほどの適応をする人たちがいる。良く言えば忠誠心が高い人たち、悪い表現を用いれば「社畜」や「会社人間」となる。

一見、組織に適応することは良いことである。

協調性をもって周囲の人たちとうまく付き合い、仕事をこなす人たちはこの社会では真っ当とされる人たちである。

 

今から振り返って考えてみると、僕たちは学校で特に小中学校で社会に適応できる人間となるための「教育」らしきものを受け続けてきた。

勉強ができるだけではダメであって、掃除をきちんとすることや給食を残さずに食べること、班活動をしっかりとすること、クラスの委員としての責任を果たすことなど様々な社会適応者になるための訓練を受けてきた。

僕は不登校の経験があるのだけれども、無意識のうちに学校があるいは先生が強いてきた社会適応者になるための様々なものに対して拒否反応を示していたのだと、今にして思う。

 

組織に適応しさえすればO.Kというわけではない。何事にも限度というものがあり、ほどほどでなければならない。

中には組織に過剰に適応する人たちがいる。前述の通り、会社という組織であれば社畜となる。

ある組織に過剰に適応するとその組織特有の掟を普遍的なルールとしてしまい、一般社会と齟齬を生じることになる。また、組織の中での正しいとされる価値観に盲従してしまう。

会社の不正行為(不正会計や汚職等)はその会社に過剰に適応した者たちがなすのである。

 

組織内での「いじめ」も組織に過剰に適応したがゆえに発生する側面もある。

組織のルールや掟を絶対的なものとして過剰適応した人が少しでも逸脱した人たちを許せなくなりりいじめが起こる。自分たちが盲従している掟に従わない者たちを放っておくと、自分の存在価値が否定されるとまで思い込むのだ。これは学校でも会社でも役所でも同じことである。

自分の生きる場所が学校や会社にしかないと思い込み、狭量さが先鋭化するのである。

 

ある組織に過度にコミットメントすることを避けるためには、自分でコントロールするより他に方法はない。

学校至上主義、会社至上主義的なメンタリティに容易に陥ってしまうことを常に意識しておかなければならない。

なにせ僕たちはこのメンタリティを持つように幼少時から「教育」されているのだから。

 

社会保障制度によって困っている人たちがみな救われるわけではないという件〈再掲〉

僕は自民党政権が推し進める社会保障費の削減には大反対である。

セーフティネットを拡充せずに新自由主義的な政策を採ると格差の拡大化・固定化が進み社会が不安定化する。

しかし、社会保障は人々の「心」や「意欲」の問題を解決はできない。

 

初出 2016/10/26

 

僕は人生に躓いた人を救うためにもセーフティネットの拡充は必要だと主張している。

人が生きていく途上で何らかのアクシデントに遭う可能性は高い。たとえ「普通」に生きていても、災害に遭ったり、会社が倒産したり、リストラされたり、病気になったりする。

そうしたアクシデントに遭って、生活に困ったときにセーフティネットがしっかりしていれば安心感が得られる。チャレンジや生き方を変えることもしやすくなる。

 

しかしながら、社会保障制度や支援策があるからといってすべての人が救われるわけではない。

たとえ社会保障制度の適用を受け、公的あるいは私的な支援制度を受けても、生活が破綻したままの人たちは少なからず存在する。

一例として30年ほど前に札幌市で起きた餓死事件が挙げられる。30代後半のシングルマザーが生活保護を切られて餓死したという事件である。メディアは福祉事務所の対応を問題視し、バッシングの嵐が起きた。しかし、後日丹念にこの事件を追ったルポによると事はそう単純なものではない。この餓死した母親は生活保護を受給していたし、就労支援を受けて安定した職に就き、母子手当も受給していた。生活が荒れた理由は男性関係によるものだった。相手の男性が刑事事件を起こし、有罪となったために生きる意欲をなくしたことが根本の原因にあったのだ。懸命に貧困と戦いながら質素に生きていた母子家庭の母親が、華やかな世界に足を踏み入れ、生活が破綻した。よく聞かれる話である。類似のケースは枚挙に暇がない。

 

このケースに限らず、ちょっとしたきっかけで生活に破綻を来たすケースは多い。社会保障の制度の適用を受け、一見生活が普通に成り立っているように見えても、その本人の内面までは制度ではフォローできない。人の持つ「心の闇」に対しては他者は無力なのである。たとえ生活を送れるようにお膳立てをしても、本人の生きる意欲が削がれている場合には手の施しようがないのである。

確かにある程度はカウンセリング的技法は有効かもしれない。けれども万能ではない。そもそも人を救うということ自体に限界がある。結局は本人の生きる意欲が湧き立たない限り、どんな手段も無力である。僕たちは他者に対して、意欲を取り戻す手助けができるに過ぎない。人が人を救済する、という考えは傲慢なのである。

 

公的な制度や支援は人を救うための第一歩に過ぎないと謙虚に捉えなければならない。生活保護を受けさせて、あるいは就労支援をして事が足りるというわけではない。

人が人を救済するという傲慢な考えは捨てて、その本人の生きる意欲を呼び覚ますきっかけを作ることが支援や援助のキモだとする考え方が大切なのだ。この程度の支援・援助ならば可能であると思う。

 

要は他者の抱える様々な問題、あるいは「心の闇」に対して、僕たちはあまりにも無力なのだと知ることが重要なのである。

その上で、他者と関わりあっていく。

「無力」が「微力」に変われば、先は見えてくる。 

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