希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

どこの会社で働いても、転職を繰り返してもそんなに変わらないという件

しばらくの期間ある会社に勤めていると、他の会社の方が良いのではないかという思いにとりつかれる。ブラック企業ではないまともな会社に勤めていても、自社のアラが見えるようになってくる。あるいはこの会社では自分は評価されていない、自分の能力が発揮できていないという思いも抱くことになる。特にまだまだ若い頃はその傾向がある。

 

確かに同業種の会社間においても待遇に差はあるし、社風の違いもある。業種が違えばそれらの差はもっと大きくなる。

新卒で入社した会社が自分にマッチする確率はそう高くはない。だから大卒の新卒で入社した社員が3年以内に3割の割合で離職するというデータがある。このことを問題視する向きもあるが、僕からすると7割の人たちが3年以上勤務し続けるということに驚きを感じる。とても高い確率の「宝くじ」ではないかと思う。

 

僕の全くの個人的な考えなのだけれども、どこの会社も似たり寄ったりでどこで勤めてもそんなに変わらないぞ、ということだ。

若い頃は青い鳥的なものを追い続ける行動を取るが、ある程度の年齢になれば青い鳥なんていないことが分かってくる。それゆえに30代を過ぎる頃になるとひとつの会社に落ち着く人たちが多くなるのである。

 

現行の資本主義体制下において会社に雇われて働く(労働者になる)ことは大枠で捉えれば会社に搾取され続けることになり、どのような会社であろうとそれは変わらない。会社によって待遇に差はあるだろうけれども、労働者である限り、大金持ちになることはできない。生活のゆとりに多少の差が出る程度のものである。労働者である限り、「生かさぬよう、殺さぬよう」に会社に搾り取られ、どうにかこうにか日々の生活を送ることができるような状態が続いていくことになる。会社を何度も変わっても、この状況に変わりはない。これは労働者の宿命である。

 

どの会社で働いても、転職を繰り返しても自分の置かれている状況が変わらないとしたならば、心身を擦り減らすまで働いても仕方がないという心境に至ることになる。会社としてはこのような心境に労働者を至らせないために様々な手を打ってくる。一昔前ならば愛社精神を涵養したり組織の一体感を作り出すことに心を砕き、昨今ならば仕事のやりがいや自己実現という幻想を振り撒く。会社による「搾取」という事実を隠蔽し、「賃労働」の本質を覆い隠し、会社のために働くことが善だとのイデオロギーを労働者に植え付けようとするのである。

 

労働者はどのような会社で働いても自分を取り巻く状況は変わらない。

ならば、抵抗の手段、対抗の手段、自衛手段をそれぞれ自分なりに備えなければならない。働きすぎて心身を壊したり、最悪の場合過労死・過労自殺に至るような事態を回避する必要がある。

対抗手段や自衛手段としてどのようなものがあるのかというと唯一の正解はない。ひとりひとりの置かれた状況によってそれらは変わってくる。

汎用性のあるスキルを身に付けること、副業をしてみること、8割程度の力で仕事をこなし最低限の評価を得続けること、などなどいろいろと考えられるが、いずれにしても柔軟な発想で物事を考え、これまでのガチガチの硬直した価値観を突き崩すことが大切なことである。

「ゆるい」労働観を身に付けて、仕事なんて人生のほんの一部に過ぎないと考える、良い意味でのいい加減さ・適当さが大切なのではないか、と僕は思っている。

グローバル人材なんてバカでかい会社にとって使い勝手の良い労働者に過ぎないという件

僕の出身大学はやたらと「グローバル」を売りにしている。僕が在学中もその傾向があったのだが、昨今は度が過ぎているように思えてならない。私立大学は何らかの売りがなければ生き残れないと言われている。グローバルを売りにするのは最適な戦略なのか、僕には分からないが、なんだかモヤモヤとするものがある。

 

官民財界そろって「グローバル人材」を養成・育成すべきだとの言説が幅を利かせている。一時期ほどではなくなったにせよ、猫も杓子もグローバル人材がどうのこうのと言い立てている。

大学生の就活においても、特に大企業に採用されたい学生は自分がいかにグローバル人材になり得るのかを面接でプレゼンする、という茶番劇が繰り広げられている。

 

国境をまたいで事業を展開している多国籍な会社では自社の利潤の極大化のために「グローバル人材」を欲している。辞令ひとつで世界のどこへでも赴き、「国際人」になれという甘言を弄して根無し草にする。ゆくゆくは「世界標準」の処遇を強いてくるのは間違いない。今でこそ先進国出身のグローバル人材の待遇をそこそこ良いものにしているが、人材の供給量が増えれば途上国レベルに引きずられた待遇になる可能性が高い。世界をまたにかけたグローバル人材がもたらす売上・利益は大きいものになるが、その処遇は下方へ押し下げる圧力がかかる。つまりグローバル企業は莫大な額の搾取をするようになる。そしてさらに会社自体は巨大化していく。

 

グローバル人材とは、極端な言い方をすれば世界規模で織りなされる「搾取」をされ放題の労働者に過ぎないのである。グローバル企業にとって使い勝手の良い労働者のことをグローバル人材というのである。

グローバル人材=優秀な選別された人材という幻想がまかり通っているのを良いことに、使い勝手の良い、使い捨ての労働者をグローバル企業は囲い込んでいるのである。

グローバル人材と目された「労働者」たちは自分たちをエリートだと思い違いをしてはならない。ただ、世界規模でドサ周りをする労働者に過ぎないのだ。

 

多国籍企業に採用され働く人たちは程度の差こそあれ自分のことを選ばれた者だとの錯覚を抱く。ローカル規模で働く普通の労働者のことを見下す輩もいる。最悪の場合は自分が「労働者」であるという意識すら持たない者もいる。

その歪んだエリート意識を持つことはグローバル企業にとっては願ったり叶ったりのことである。グローバル企業はイナゴの大群のようなものである。コストの低い国々を駆け回り、利益の極大化を図る。同胞の生活向上のための事業という概念はなく、社会的な役割を果たすという意識もない。ただ、儲かればよい、自分の会社が大きくなれば良い。その尖兵、いや「駒」としてグローバル人材を使っているだけなのである。

 

僕はグローバル人材とされる人たちを貶める意図はない。自分がグローバル人材になれなかったルサンチマンを晴らそうとしているわけでもない。

やたらと世の中で「グローバル人材」を礼賛する風潮に違和感を持っているだけなのだ。

グローバル人材を何か特別なものでより優れた働き方だとの幻想を撒き散らし、グローバル企業という怪物をより肥大化させるだけになってしまわないか、と危惧しているのだ。

グローバリズムはグローバリゼーションという流れの中で出てきたひとつのイデオロギーに過ぎず、絶対的なあるいは普遍的なものではない。グローバリズムを絶対のイデオロギーとする流れは危ういものがあり、「国民国家」の理念を融解させてしまう危険性を有している。

 

繰り返すが、グローバル人材は「労働者」に過ぎず、ゆくゆくは均質化され、しかも搾取の度合いが極大化された「労働者」に過ぎないのである。

グローバル人材というものにまとわりつく幻想を取り払い、その本質的なものから目を背けてはならない。

無理して「我慢」なんてすることはないという件

僕たちは幼少時から我慢することを我慢の大切さを教え込まれる。

我慢ができない子どもは忍耐力に欠ける子として問題児扱いされる。我慢ができずに自己主張する子どもは協調性に欠ける子としてこれもまた問題児とされてしまう。

学校教育では教師の言うことを何の疑いもなく聞き入れる子ども、我慢をして素直な子どもが良い子どもとされて、そのような子どもたちを量産しようとする。国家や会社に従順な労働者を大量生産するかのごとく。

 

働くようになるとなおさら我慢が強調される。

特に会社や役所等の組織に勤めると我慢合戦を強いられる。

バカな上司の指示に従うこと、意に反した転勤や単身赴任を受け入れること、長時間労働サービス残業、接待、長時間の無駄な会議等々数え上げればキリがないほどの「我慢」をしなければならない。

我慢をすることが当然とされ、我慢ができない人は出世ができないし、酷い場合にはその職場にいられなくなったりする。

 

経営者あるいはもっと大きくとらえて国家は我慢は美徳だというイデオロギーを垂れ流す。

我慢ができる人たち、我慢を我慢とも思わない人たちを「良民」とし、我慢ができない人たちを劣った人だとのレッテルを貼り排除する。

 

僕は当然ながら我慢ができない人のカテゴリーに属する人間である。我慢ができなくて公務員を辞めたし、もう必要以上の我慢なんてしたくないから勤め人になることを拒んでいる。

こんな僕でもある程度の我慢は当然だと思っている。僕はどちらかと言うと我慢強い方の人間である。忍耐力は人並み以上にある。

要は自分が納得できる範囲の我慢はするが、自分の価値観に反する我慢、人としての尊厳を奪うような我慢はしたくないだけだ。

 

これらのような主張をすると「社会人として失格」だの「子どものままで大人になっていない」といった説教を喰らう。世の「大人」たちは何でも我慢ありきで物事を考え、その考えを他者に押し付ける。この狭量さが嫌いなのである。

世の多くの人たちは我慢することによって自己保身を図っているだけに過ぎない。空気を読んで我慢してその場を取り繕っているだけなのだ。そして、その我慢合戦の積み重ねが様々な問題の解決を先送りにし、結果としてこの閉塞した今の状況を生み出したといっても過言ではない。

 

自分さえ我慢すれば波風が立たずにうまくいく、といったメンタリティは危うい。目の前にある問題に対峙せず、我慢してやり過ごすことばかりをしていれば結局はドツボに嵌ることになる。

世の中の進歩や発展は我慢をせずに自己主張を始めた人たちがその原動力になっているのである。

 

「我慢」が美徳という価値観に僕はこれからもずっと抗い続けていく。 

「シフトダウン」した働き方で新たな生き方が見えてくるという件〈再掲〉

僕たちは自分の生活を成り立たせるために働いている。

衣食住に必要な程度の稼ぎとプラスして自分の趣味に使えるほどの稼ぎがあれば十分なはずである。必要以上の消費欲に囚われているのではないか。刷り込まれた欲望を満たすための消費のために死ぬほど働く、なんて狂っている。

 

初出 2016/10/20

 

僕は何度もこのブログで雇われて働くことが苦痛だと言ってきた。

ならばとフリーランスで稼ぐために何らかのナリワイを持とうと試行錯誤を繰り返している。残念ながら未だに生活費をすべて賄えるほどのナリワイを確立できていない。

自分のナリワイを見つける試みは続けるけれども、先立つものは必要だ。だから、次善の策として嫌ではない仕事をパートタイムでする、ということでしのいでいる。くだらない仕事なんかで消耗しない働き方を選んでいる。

僕のような中年男には正社員で働く道は半ば閉ざされている。仮にあったとしても僕がやりたくない仕事ばかりだ。何より正社員という働き方に僕は全く魅力を感じていない。会社の奴隷になって馬車馬のように働くなんて御免被りたい。

 

僕は40代の初めころまでは人並みに上昇志向があり、成長志向があった。世間で言うところの真っ当な生き方・働き方にこだわっていた。また自分は真っ当な生き方をしてしかるべき人間だと思い込んでいた。決してダメ人間ではない、有能な人間だと勘違いをしていたのだ。

自分のことをダメな奴だと受け入れるのはなかなか難しい。しょうもないプライドが邪魔をする。世間の目も気になる。やはり人からはできる人間だと認識されたい欲がある。

 

僕は社労士事務所を廃業してからしばらくは正社員としての職を探し、何社か正社員として勤めた。しかしどこで働いても違和感にとらわれ、息苦しさを感じ長続きしなかった。

そこで発想の転換を図ることにした。必要とする生活費を切り下げて稼がなければならない額を低く設定することにしたのだ。そして働く時間を短くして負担を減らし、自由な時間を確保して「ゆるい」生き方を志向することにした。「シフトダウン」した働き方、生き方を目指すことにしたのだ。

 

シフトダウンしてから3、4年経つけれども、これが結構僕に合っていてなかなかに快適な日々を過ごしている。長年悩まされていたうつがほぼ全快した。読書量が飛躍的に増えた。このブログも続けることができている。

生活費を稼ぐための仕事にもそれほどこだわりがなくなった。福祉の仕事と単純作業の仕事を交代にしているけれども、職場に愛着もないしこだわりもないので飽きたらあるいは嫌になったら即職場を変える。複数のところから収入を得るように心がけているので、嫌な仕事や自分に合わない仕事を無理してすることもない。

今は友人の塾で講師(これは辞めない仕事)、児童養護施設の子供への学習支援(これは不定期・ボランティア的なもの)、ナリワイ的な仕事をメインにして、空いた時間に気が向いたらパートで介護福祉系の仕事をするか倉庫のピッキング等の単純作業に就いている。

 

今の僕の働き方はとても真っ当なものではない。収入額もたかがしれている。

しかし、僕はシフトダウンした「第二の人生」を楽しんでいる。

ゆるい生き方・働き方ではあるけれども、僕は成長を実感している。

自由な時間が増えたおかげでこの社会に起きている様々な問題について深く考えることができるようになった。今はできていないが、何らかの形で社会活動にコミットしたいと思っている。もっともっと良書と巡り合い、僕の血肉としたい。

僕はシフトダウンすることによって得られた新しい人生を満喫していきたい。

 

 

自立とは誰かに「助けて」と言えることであるという件

僕たちは常に他者から世間から「自立」することを強いられる。

一般的には生活費を自分で稼ぎ、誰からも援助を受けずに自力のみで生活を成り立たせている状況にあることを自立とみなされる。

世間では自立できていないと目される人たちを「ごくつぶし」だの「甘えている」だのと言い立てて責めたてる。

この国の支配層は人々に対して自立せよと急き立てる。一見自立していないように見える人たちを非国民扱いする。

 

人は自分ひとりの力のみで生きていけるわけではない。

常に誰かと関わり合い支え合いながらどうにかやっていけるのである。もし、己ひとりの力で生きていると思っている人がいたとすれば、その人は愚かだとしか言いようがない。

 

昨今の風潮として、「自立」の意味をかなり狭く捉えようとする傾向がある。ある人が自分の力だけでは生活を成り立たせることができないとき、親族からの援助を受けていたり公的な給付を受けていたりすると、即自立できていないと断罪されることになる。

一方、会社の奴隷となっているサラリーマンは自立していることになっている。サラリーマン根性に浸かり、会社組織に隷属するしかない人たちは自律的に生きていないにもかかわらず立派に「自立」しているとみなされる。

「自立」を経済的なものだけに狭くとらえる風潮が幅を利かせているのである。

 

自立を経済的なものだけに限定するとおかしなことになってくる。

障がい者高齢者、生活困窮者等は半人前の人となってしまう。また国家や隣人に寄生する厄介者とみなすようにさえなる。

元々人は共同体に属し、そこに自分の「居場所」を確保し、共同体の一員として自分の役割を果たし、何か困ることがあったときは共同体から救いの手を差し伸べられ、どうにかこうにか一人前の人間として生きてこられたのである。

しかし、新自由主義的な価値観の下、ひとりひとりは共同体から引きはがされて個人として自立して生きることを強いられるようになった。

俗な言い方をすれば、「お互いさま」として支え合うような生き方は否定され、自分の力のみでどうにかするのが正しい生き方であると刷り込まれ、多くの人たちは途方に暮れているのである。

 

今、ひとりひとりが個として自立することが絶対的に正しいという価値観を見直す時に来ているような気がしてならない。

本当の自立とは、自律的に生きつつも、困ったとき行き詰ったときに誰かに「助けて欲しい」と素直に言えることではないか、と僕は思う。そしてもし身近の誰かが困っているときにはこちらが手助けをする。「お互いさま」の精神でさらっと助け合うのである。

誰かの手を借りることを恥じたり、そのことが自立の妨げとなると感じるのはただ単に洗脳されているだけなのである。

狭い意味(誤った意味)での自立を強いることによって得をする者たちの意のままになってはならない。

 

 

 

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