希望の舎―再生編ー

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「勉強ができる」ことは才能のひとつであるという件

僕は今でこそ勤労意欲の低いダメ人間であるけれども、小中学校のときは勉強がよくできる優等生だった。

でも、こんな過去の栄光なんて何の足しにもならない。仮に僕が昔は凄かったんだぞ、とか言って自慢すればただの「イタイ人」である。

勉強ができて、世間でええとこと言われる高校や大学に入ったとしても経済的成功や社会的威信を得られることにはならない、と僕は体現している。

 

僕は勉強ができることを自慢することはなんだか品のない行為だと思うし、勉強ができる人たちだけが社会的に成功する社会なんてクソだと思っている。ましてや勉強ができる人たちがそうでない人たちを見下す行為なんて最低で下劣なものだと思っている。

 

ところが、「元秀才」の僕としてはすっきりしないことがある。

勉強ができる人たち、できた人たちを殊更に貶める風潮がなんとなく蔓延しているような気がしてならないのだ。

例えばクイズ番組。中には豊富な知識を持つ人を賞賛するものもあるが、大抵は高学歴者や秀才とみなされた人たちに「こんな問題も答えられないのか」といった感じでバカにするような作りをしている。視聴者も勉強ができる人たちの頓珍漢な回答に溜飲を下げて、「やっぱり、勉強ができてもだめだよねー」なんて言い合いながら悦に入っている。

僕の身近なところでは、僕が講師をしている学習塾でも勉強ができて成績が良い子のことを他の生徒は快く思っていない節がある。極端な場合には勉強ができる子のことをバカにし、「勉強ができる、それがどうした」という感じで自分が勉強をしないことを正当化する。

このような風潮は決して良いことではない。

 

勉強ができることは才能のひとつである。運動ができるとか絵が上手く描けるとか歌が上手い、とかいったことと同質・等価のものである。

野球やサッカー等スポーツのために遠隔地の学校に行くことは批判されない(特待生制度や行き過ぎた場合のみ批判される)が、超難関校に越境入学することは批判される。

スポーツの練習に多くの時間を割いてもさして批判はされないが、長時間の勉強をすることは「可哀想」だとか「やりすぎ」だと批判される。

 

僕が小中学生の頃は勉強ができる子たちはある種のリスペクトを受けていたような気がする。勉強ができることを鼻にかけているような奴は嫌われていたが、そうではなくて他の子に勉強をそれとなく教えたり、学級委員を引き受けたりしてクラスのまとめ役をしたりする秀才は尊敬されていた。勉強ができる子は自分に与えられた役割があることを意識し、その役割に沿った行動を取っていた。

 

勉強ができる人たち、できた人たちをないがしろにすることはこの世の中の一部で蔓延する反知性主義的なものと相関性がある。

確かに勉強ができることが社会的な成功に直結するとは言えない。僕のようにダメ人間となり、社会のレールから外れたような生き方をしている人たちも一部に存在する。

しかしながら、社会の中枢を担う人たちの多くは「勉強ができた人たち」であることも事実である。

 

勉強ができる人たちを蔑ろにすること、勉強ができることを軽視することは社会全体の劣化につながる、と僕は思う。

あるいは少数派である「勉強ができる人たち」を多数派のそうでない人たちが蔑ろにすることは、多数派による少数派の排除という社会病理につながりかねない問題となる。

 

勉強ができることは才能のひとつであり、ある得意分野があるに過ぎない、と客観的に捉えるべきである。

確かに勉強ができる人たちがすべての既得権を握り、権力を掌握し、この社会をすべて動かす、という事態は避けなければならない。そんな社会には全く面白みもダイナミズムもない。

勉強ができることによって、「ちょっとだけおいしいところを得る」といった程度のことは認められても良い。

 

 

定時で退社するのは当たり前だという件〈再掲〉

僕はサラリーマン時代喜んで残業する同僚たちが理解できなかった。

そんなに職場に居残って何が楽しいのだろうと思っていた。

長時間労働によるメリットなんて皆無である。

定時退社が当たり前でないこの社会はどこか狂っている。

 

初出 2016/9/15

 

この社会は時間厳守にうるさい。

電車のダイヤが少しでも遅れると大問題になる。駅でサラリーマンと思しき人が駅員に喰ってかかる光景を何度も目にした。

社会人の心得の第一として時間を守ることが当然のように言われる。時間にルーズな人は信用されない。

 

時間厳守にうるさいこの社会において例外がある。

それは会社である。社員の退勤時間をなあなあにしてルーズな会社が多いからである。定時に退社しようとすると上司や同僚から注意される会社がある。定時退社を繰り返していると「やる気」や「意欲」がない社員との烙印を押されるケースがある。

大方の労働者は勤務時間が労働契約で決められている。その契約通りに退勤時間を守ると非難を浴びる。

僕のサラリーマン(公務員)時代、僕は残業時間を削減して定時退社をするように心がけていた。当たり前の話だが、勤務時間中は集中して職務を遂行し無駄な時間外労働はなくそうとしていたのだ。当時の上司はこの僕の勤務態度が問題だとして、何度も残業をしろ(仕事を作ってまでも)と僕に強要した。僕が公務員を辞める大きな原因となった。

 

今は僕が受けたような理不尽な扱いは減ってきているのだろうか。

成果主義能力主義が会社の人事制度に取り入れられてから久しい。本当の成果主義では労働時間ではなく実績が評価されるはずである。しかしながら、未だに長時間労働サービス残業が蔓延しているところをみるとそうとも言い切れない。労働者の評価基準に意欲ややる気の情意面を重く見る風潮が残っている。やる気があることをアピールするために遅くまで会社に残って仕事をし、会社への忠誠心を見せるような「見せかけの勤勉」がまかり通っているのである。そんな会社では定時退社を繰り返すような社員はたとえ実績を上げていようとも能力が高くてもダメ社員のレッテルが貼られてしまうのである。

 

いつまでも会社に残っているような社員を評価する会社ではある種の社員にとっては歓迎すべきこととなる。家に帰っても居場所がない、仕事以外に情熱を注ぐものがない社員にとっては会社に居残ることによって残業代稼ぎができて時間潰しができる、仕事熱心な人間との評価を得ることができることになる。会社にぶらさがっている生産性の低い社員がぞくぞくと生まれてしまうことになる。さすがにまともな会社ではそのようなダラダラ仕事をする社員には低評価しか与えない人事システムを採用しているが、それが多数派かというとそうではない。

 

定時退社をする社員を白眼視したりするような会社はろくなものではない。また定時退社が当たり前となっていない風潮を受け入れているような社会はどこか歪んでいる。さして重要でもないことに時間厳守を強いて、労働契約の根幹である労働時間にルーズなこの社会は狂っている。

定時退社が当たり前で、残業はレアケースとなるような働き方がスタンダードにならないと労働者の疲弊は解消されない。こんな当然のことをわざわざ書かなければならない点にこの国の会社組織の病理が表れている。

社会的弱者に対するバッシングほど卑劣な行為はないという件

社会的に弱い立場に置かれた人たちに対しては配慮が必要であり、また人に値する生活を保障することは自明のことである。

貧困は自己責任という考え方は前時代の遺物である。

社会構造のひずみによって多くの弱者が生み出され、そのひずみを少しずつでも失くしていく営みを続けなければならない。「革命」や「大変革」「維新」といった大転換ではなく、漸進的な改革を着実に進めていく態度を保ち続けることが肝要なのである。右翼や左翼、保守・リベラル等のイデオロギーに関係なく。

 

社会的弱者に対するバッシングがひきも切らず起こり続けている。

典型的なものとしては生活保護受給者に対するバッシングである。ごく一部に過ぎない不正受給を殊更に取り上げ、さも不正受給が横行しているような印象を与えようとする。生活保護受給者が保護費をちょっとだけ遊興費に充てたりすると、けしからんと憤る。果ては生活保護受給者は「人間のクズ」だの「人生の落伍者」だのとのレッテル貼りをする。

弱者を叩くことによって留飲を下げ、優越感を抱き、自分の不満を解消するような人たちが少なくない数存在することに僕は暗澹たる思いがする。

 

社会的弱者だとカテゴライズされる人たちは殆どがこの社会の少数派に属している。

また、彼らはごく一部のケースを除いては政治的に劣位に置かれ、大きな声を上げることができない。

社会的弱者はふだんは目立たないようにしていて、バッシングに対する反撃を手控えている。反撃できるような基盤を持ち得ていない場合も多い。

特に生活保護受給者はうしろめたさを抱き、スティグマを刻み込まれていて息をひそめて生活している。

 

社会的弱者をバッシングする人たちは、彼らをいくら叩いても彼らから有効な反撃がないと確信しているから、執拗にバッシングをし続ける。

そのような輩は自分よりも強き者に対しては隷従し、対等なものに対しては何も言えないのである。人としての最低限の矜持を持たず、人として有していなければならない「やさしさ」や「思いやり」に欠けた人種なのである。

社会的弱者のような反撃することに対する自制が働いている集団を見つけて、それをバッシングすることはとても卑怯な行為である。端的に言えば、タチの悪い「弱い者いじめ」以外の何物でもない。

 

こんなことを言えば、「弱者権力」があるのではないか、という批判を口にする人たちがいる。確かに被差別部落在日コリアン等の力のある団体が存在し、それらの団体の利権漁りや組織の腐敗もあるだろう。これらの団体が有する問題点に対しては批判も必要だし、問題点をなくすように働きかけることも必要である。しかしながら、弱者バッシングとこれらの問題を混同してはならない。影響力のある弱者権力的な組織があることを理由に弱者バッシングを正当化してはならないのである。

そもそも弱者が連帯し、ある組織を立ち上げたのは生存が脅かされたからである。人としての尊厳を踏みにじられたからである。結果として弱者権力が生まれたからと言って、社会的弱者が手を取り合い、組織化し、自分たちの声を大きくすること自体を全否定してはならない。

 

この社会に生きる大多数の人たちはちょっとしたきっかけで社会的弱者に陥る可能性を秘めている。ごく一部のエスタブリッシュメントやそれに連なる人たちを除いて、殆どの人たちは社会的弱者予備軍だともいえる。

社会的弱者に対するバッシングはまわりまわって自分の首を絞めることになる、という想像力に欠けている。

社会的弱者へのバッシングは卑劣な行為だとの社会的コンセンサスが成り立つ社会が健全で生きやすい社会である。

他者の自由を奪うことは快楽につながるという件

僕は自由に生きること、自由であり続けることを大切にしている。完全なる自由など幻想にすぎないと分かってはいるけれども、限定はされていても自由であり続けたいのである。

 

人は人が大切にしているものを奪うことに快感を覚える、という側面がある。倫理的には良くないことだが、友人の恋人を奪ったり、不倫をしたりするとえも言えぬ快感を得ることがある。

 

僕の全くの個人的な意見なのだけれども(このブログは僕の全くの個人的な意見を発露する場である)、大きな価値を持つとされる自由を奪う行為はとてつもない快楽を得るものだと思っている。

人々を支配し統制することはその最たるものである。

支配ー被支配の関係は他者を隷属させることによって支配者は満足感を得るものであるが、他者の自由をはく奪し、その自由を自己のコントロール下に置くことに快楽を覚えるのである。この快楽は毒性の強い麻薬のようなものである。

 

これも全くの僕の独断なのだけれども、恋愛関係においても相手の自由をコントロールすること、あるいは相手の自由を奪っている状態になると心が燃え上がる。自分のために相手が自由であることを放棄しているさまが楽しくて仕方がないのだ。

建前上は「君のあるがままの姿でいてほしい」とかなんとか言ったりするが、本音では自分の支配下に置いて、自分のために縛られた状態であることを甘受している姿を見て悦に入るのである。

このような状態は対等な関係ではない。

しかしお互いに相手の自由を奪い束縛し合うことで愛情を確かめ合っている面もあることは否定できない。

親子関係においても同様のものがある。

子どものためだと称して必要以上に子どもを抑圧する親が結構な数存在する。ちょっと前に話題になった「毒親」がそうである。子どもが健やかにのびのびと育つことよりも親のエゴ、つまり子供を抑圧する(自由を奪い、支配下に置くこと)快感が上回ってしまうのである。

 

僕は自由を大切にしているので、大抵は僕の自由を奪い、僕をコントロールしようとする様々な言動に対して抗うことになる。恋愛関係でもそうだし、その他の人間関係においてもそうである。

しかし、人は皆自由を希求し、自由を奪うものに対しては抵抗するとは限らない。ことはそう単純ではない。

「支配されたがる人たち」は後を絶たない。「分かりやすい言葉」で人々を扇動する「強いリーダー」に盲従し、自由を差し出すことなんて古今東西数多く見られる現象である。

恋愛関係において束縛されることに喜びを見出す人なんて星の数ほどいる。

 

他者の自由を奪うこと、自分の自由を奪われることは快楽につながる。

とてつもない力を持つ魔力なのである。

これは人の持つ業なのかもしれない。

人の持つ本質的な何かなのかもしれない。

この魔力に骨の髄まで侵されないということはとても困難なことである。

しかしながら、僕たちはこの恐ろしい魔力に抗うことを忘れてはならない。

 

ある人たちのことを「非国民」とレッテル貼りをすることの危険性、という件

戦時中、国家の意に沿わない言動をする人たちを「非国民」呼ばわりして攻撃の対象としていた。たちが悪いのは人を非国民として詰っていたのは一般大衆だったことだ。当時の「常識」に外れる人たちはすべて非国民だったのである。

この「非国民」という言葉は死語に近いものとなっている。しかし、人を非国民呼ばわりするようなメンタリティはなくなってはいない。例えば会社等の組織の論理に馴染めない人たちを排除し、社会人失格のレッテルを貼る行為は同根のものである。

 

さて、この国の誇るべき人物であるバカボンボン総理のアベが唱える「一億総活躍社会」というスローガンである。こんなに内容がスカスカの空疎なスローガンは噴飯ものである。でも、アベの頭の悪さを揶揄している場合ではない。実はこのスローガンがこの国の真っ当と言われる人たち、いわゆる多数派に意外とフィットしているのだ。

「生涯現役社会」だの「ひとりひとりが輝く社会」といった類のスローガンに同調する人たちと親和性が高いのである。

 

僕は人が良いので「一億総活躍社会」といった空疎なスローガンを臆面もなく言うアベちゃんが腹に一物を持っているとは考えない。おそらくアベちゃんは本気であるいは善意からこのスローガンを作り出したのだと思いたい。

このスローガンが時の経過と共に霧消すれば問題はない。ああ、あの頃なんか言うてたな、といった感じで人々の記憶から消えてしまえばいい。

ただ、「一億総活躍社会」というスローガンが少しでも実効性があるものになったとしたら、少々厄介になる。

 

厄介になると言っても、多数派にとってではない。僕のような少数派、会社に馴染めず、世間から少しでも離れたいと思っている人間にとっては厄介になるのではと怖れているのだ。

つまり「活躍」しない、あるいはしようとはしない人たちを「非国民」扱いしやしないかということである。

僕の考えすぎなのかもしれない。

しかし、この国の多くの人たちは「空気」に流されやすい性質を持っている。もっともらしいスローガンに盲目的に隷従する性質を持っている。このことは過去の歴史が物語っている。

 

ただでさえ、世間ではとても同調圧力が強い。

正しいかどうかは二の次で、「みんな」が決めたこと「みんな」が思っていることに従わないと異端視される社会である。

「みんな」が自分たちの価値観を疑うこともなく、その価値観から外れた人たちを非国民としてバッシングすることは「みんな」にしてみれば容易いことなのだ。

 

それらのことは「一億総活躍社会」というスローガンへの対応だけに限った話ではない。

政府(権力者・支配層)が推し進める政策等に異を唱える人たちに対する執拗なバッシングは後を絶たない。最近は特にその傾向が強い。

異論が封殺されるような社会は歪な社会であり、とても不健全な社会である。

「非国民」であるとして人にレッテルを貼る行為は、異論を封殺する最も卑劣な行為である。また、人を思考停止に至らしめる危険な行為である。

 

「非国民」とは一体誰のことなのか。

安易に他者に対して「非国民」のレッテルを貼る行為は自分の首を絞めることになることを忘れてはならない。エスタブリッシュメントの手のひらで踊らされていることを忘れてはならない。

 

 

 

 

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