希望の舎―再生編ー

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サラリーマンという働き方が「まとも」だという考え方を捨てようという件〈再掲〉

会社に雇われるという働き方が多数派となったのは高度経済成長期以降であって、歴史は浅い。

サラリーマン、正社員として働くのがまともだと、勝手に僕たちは思い込んでいるだけなのである。

 

初出 2016/9/13

 

会社や役所という組織に雇われて働く人たちが大多数になっている社会ではその価値観がサラリーマン仕様になるのも仕方がない。

学校を卒業してブランクがなくどこかの会社に雇われて働く、特に正社員として働くことが真っ当な社会人だとされている。やれ多様化だの個性化だのといった掛け声がなされても、この硬直した考え方は未だに幅を利かせている。

 

僕は雇われて働くという生き方を否定したいわけではない。現実問題として、殆どの人たちは何らかの形で組織に雇われる働き方を選ばざるを得ない。起業したり、フリーランスとして仕事をするのはなかなかにハードルが高く感じられる。

雇われて働くということは例外なく会社に「搾取」されているという事実に向かい合わなければならない。資本主義体制下では搾取自体は悪でも何でもない。労働者でいる限り、生活を営むのに必要な程度にしか稼げない、という現実を受け入れるしかないということだ。

 

僕は雇われて働くことの一番の弊害は組織の論理に絡み取られること、分かりやすく言えばサラリーマン根性にどっぷりとつかってしまうことだと思っている。サラリーマンを辞めたのにサラリーマン根性から抜けられない人たちも多くいて中には悲惨な状況に陥ったりする人もいる。

僕の友人A氏のエピソードを。

A氏は大手の銀行を辞めて独立起業を模索していた。ある時某県の就農セミナーに参加した。そのセミナーには実際に就農した人たちが講師として参加していた。その講師たちが「ボーナスがない」「給料をもらうことがうらやましい」等のボヤキを連発していたとのこと。この元サラリーマン就農者の話を聞いてA氏はやる気をそがれ、就農を辞めてしまった。

この元サラリーマン就農者の嘆きも理解できないわけではない。ずっと給料をもらってきた身からいきなり自分で稼がなければならない身になって辛かったのだろう。自営を始めたのにサラリーマン根性から脱することができないと、目も当てられない状況に陥ることが多々ある。僕も何人もこのような類の人たちと出会い、相談を受けたこともあるのだが、生憎と解決することは不可能だった。

 

サラリーマンを長く続けていると、サラリーマン的価値観に染まってしまい、なかなかその呪縛から逃れることができない。いわゆる組織人として優秀だった人たちにその傾向がみられる。サラリーマンとしては模範的で優秀な人たちが独立して成功するとは限らない。

サラリーマン、特に正社員という働き方がまともだと思い込んでいる人たちはフリーランスとして独立しても起業しても失敗する確率が高い。僕の全くの個人的な意見だけれども。

 

サラリーマンという働き方が真っ当だという考え方は幻想に過ぎない、と醒めた見方をしないといけないような気がしてならない。

たまたまこの国が経済成長を果たし、資本主義体制が成熟したから雇われて働くという人たちが多数派を形成しただけのことなのだ。国家や経営者連中の思いのままになっているだけなのだ。サラリーマンという働き方がまともだとされるのは、一過性のものに過ぎないのかもしれない。今は異端視され色物扱いされるような稼ぎ方、例えばせどりやネットビジネス等々によって生計を成り立たせている人たちを下に見るような風潮は近い将来に消滅している可能性がある。

 

どのような稼ぎ方をしても反社会的なものでない限り個人の全くの自由である。

サラリーマン、雇われて働くということだけがまともだという狭い偏った価値観が世間に蔓延っている限り、生き方の多様性が奪われ、生きづらさを感じる人たちを多く生み出す状況が続くことになる。

どんな形であれ、自分の食い扶持を稼いでいれば、その人は「まとも」なのである。

 

 

  

「家族団らん」が当たり前だと思っていた件

僕は高校を卒業するまで両親と暮らしていた。

数年前に父の死をきっかけとして実家に戻るまで20年以上ひとり暮らしを続けていたことになる。

両親とともに暮らしていた頃の記憶はかなり薄れてきているのだけれども、家族団らんの雰囲気は未だに覚えている。

父は必ず晩酌をしていて、そんなに僕と会話を交わすことはなかったけど、父が常に夕食の席にいるというだけで安心感のようなものがあったことを覚えている。

 

父は大体6時過ぎに仕事から帰ってきていた。年に1,2回、決算期のときにちょっとだけ遅くなることはあったが、残業は全くせずに早い時間に帰宅していた。

だから、僕は夕食の家族団らんは当たり前のことだと思っていた。どの家もうちと同じだと思っていたのだ。

高校生の時に仲の良かったガールフレンドが自分の父親はいつも深夜に帰宅するという話をしてとても驚いたことがある。たぶんガールフレンドのお父さんは大企業に勤めていたのだと推察される。友人連中に聞いてみると、大抵はガールフレンドのお父さんと似たり寄ったりで帰宅は遅いということだった。世のお父さんたちの多くは僕のところとは違って、「企業戦士」として夜遅くまで働き詰めに働いていることをそのときに知ったのである。

 

僕の父はいくつもの職を転々としたらしいが、僕が物心つく頃は中小企業の財務・経理責任者の仕事をしていて安定した状況だった。

僕が中学生のときに父の勤めていた会社が倒産したが、すぐに同じ職種で別の会社に転職できて、その会社で70歳まで勤め上げた。そのおかげで僕は私立大学に行くことができたのである。さらには長い間サラリーマンをしていたおかげでかなりの額の厚生年金を受けることができ、亡くなってからも母がそこそこの額の遺族年金を受けることができていて、僕は今少なからずその恩恵を受けている。

 

僕は父の働きぶり等にかなりの影響を受けている。

あいにく父の持つ勤勉さや真面目さは受け継がなかったけれども、定時退社が当たり前で残業なんかしない、会社と一定の距離を置くという態度は受け継いでいる。僕が長時間労働や残業を忌み嫌うのは、父の働き方に共感し、家族団らんが当たり前のこととして我が家に定着していて、そのことが良いこととして僕の心に刻み込まれていたからである。

もし、僕が結婚して家庭を持っていたならば、かなりの確率で家族団らんに重きを置くマイホームパパになっていただろう。でも、まあこれはないものねだりである。

 

僕は今は亡き父にとても感謝をしている。父を支え続けていた母にも感謝をしている。

父は無名のままに人生を全うしたけれども、何気ない「普通」の日々の積み重ねがとても大切なことだと僕に気づきを与えてくれたことが僕の財産となっている。

父をまじえた家族団らんの日々がもう戻ってこない、ということに時々淋しさを感じる。

父が生きているときにもうちょっとだけ父と話をしておきたかった、と思う。

 

 

 

会社になんか行きたくない、そう思っているあなたはまともだよ、という件

以前のエントリーでもふれたが、会社に行きたくないと思うことは誰にでもあることだ。

職場の人間関係が良好でない、上司がバカである、仕事自体がつまらない等々理由は様々である。 

 

僕は常に会社に行きたくない病に罹っている。仕事がつまらなくなくても、会社に長時間心身ともに拘束されるのがイヤでたまらないのだ。これで仕事がつまらないものだったら本当に地獄である。この心情はかつて僕が不登校になったことを鑑みて、僕が持って生まれた資質によるものなのかもしれない。

 

しかしながら、会社に行きたくない病は個人の資質や性格のみにその要因を求めるのは誤っていると思われる。

大多数の人たちが、程度の差はあるにせよ会社に行きたくないという気持ちを抱えているはずである。生活を成り立たせるために仕方なく仕事に行っているというのが実情ではないだろうか。あるいは「世間の目」を憚って、真っ当な社会人を演じるために重い足取りで会社に向かうのではないだろうか。

 

会社に行きたくないとの気持ちを抱くのは、サラリーマンが実際は「賃労働者」であることによるものだと僕は考える。

労働者はその本質において心身の大部分を会社によってコントロールされている。生殺与奪を会社に握られているのだ。

労働者の従事する仕事も会社の利益追求のためにのみなされるものである。

労働者が働けば働くほどその成果は会社に搾取される。労働者が受け取る成果としての報酬は利益のほんの一部に過ぎない。これは資本主義社会の大原則である。資本主義社会は労働者の「搾取」によって成り立っているといっても過言ではない。

「搾取」自体は悪ではない。

労働者は自覚するにせよしないにせよ、「搾取」されることを前提として働く場を与えられ、幾ばくかの賃金を得て、ようやっとギリギリの生活を維持できるのだ。

いくら働いても生活が楽にならない、と思っている人たちは多いはずだ。

それは当然のことである。

資本主義自体がそのようなシステムになっているからである。労働者は「生かさぬよう、殺さぬよう」に使い倒して、会社は儲けを出す。尤も、労働者を「殺す」だけのブラック企業という資本主義の鬼っ子も存在するが。

このように「賃労働者」の本質を見れば、僕たちが無意識下で(あるいは意識して)会社に行きたくなくなる気持ちは理解できる。

会社に行きたくない、という思いを抱く人たちはある意味まともな神経の持ち主だということだ。

 

会社に行きたくないときには、時にはサボって休んでみてもよい。そのために有給休暇がある。

自分が休めば仕事が回らないなんて、考えないほうがよい。そんな会社・部署はマネジメントがなっていないだけの話なのだ。1日や2日休んでも会社は潰れない。このように割り切ることも大切だと僕は思う。

 

何より、自分は「労働者」であると自覚することが大切である。ビジネスマンやホワイトカラー等の見せ掛けの呼び名に騙されないことだ。

自分は会社に搾取され放題の一労働者に過ぎないとの自覚と、同時に矜持を持つことだ。

労働者であるという自覚と、労働者としての矜持が、自分を変えることになるかもしれない。

 

 

   

「適職」や「天職」なんて幻想だという件

「この広い世界のどこかに自分にぴったりと合った仕事がある」と僕たちは考えがちである。

自分にマッチした仕事を追い求めて転職を繰り返したり、「自分探し」をしたりする。

どうせ仕事をするならば、自分が好きなこと、自分に合った仕事をしたいと思うのは贅沢なことではない。

労働を「苦役」から「楽しみ」にしたいと願うのは人として当たり前のことである。

 

よくよく考えてみると人生はミスマッチの連続である。

進学する学校を間違える、就職先を間違える、配偶者を間違える等間違いを繰り返している。しかし、それでも多くの人たちはそこそこ幸せに暮らしている。

たとえ職場選びが自分にマッチしていなくても、大概の人はその職場でそこそこのやりがいらしきものを見出し、処遇に不満を抱えながらも辞めることなく働き続けている。

今している仕事が「適職」や「天職」とは思えるものではなくても何となくやり過ごしている人たちが多数派なのである。

 

「適職」や「天職」が取沙汰されるのは社会が豊かになったからである。

高度経済成長の頃までは社会全体が貧しくて、とにかく衣食住を確保できる仕事があり、その仕事に就きさえすれば完全とは言えなくてもそこそこは満足していた。仕事のやりがいや自己実現なんて二の次だったのだ。

何も僕は昔のように仕事さえあれば満足しろ、と言いたいわけではない。

適職や天職を殊更に追求するのはどこかおかしいのではないか、と問いたいだけだ。

 

はじめに適職や天職ありきという考え方や適職や天職に就かないと幸せになれないとする思いに覆われると働き方や生き方の選択肢が狭まり、身動きが取れなくなる。

大体仕事なんていざやってみないとその仕事が自分に合っているかなんて分からない。適職だと思って就いた仕事がそうでなかったり、渋々就いた仕事が意外と自分に合っていたなんてことは掃いて捨てるほどある。

当たり前の話だが、「何事もやってみないと分からない」のである。

 

穿った見方をすれば適職や天職云々というのは就職情報会社が振り撒いた幻想なのである。就職情報会社は転職する人たちが増えて、そんな人たちが転職を繰り返すほど儲かるシステムを採っている。世の勤め人たちが今の職場にそこそこ満足して転職しないような社会では就職情報会社は商売があがったりになるのである。

言い換えればミスマッチを許容し今置かれた状況に満足されては困るのである。人には適職や天職があり、自分に完全にマッチした仕事に就かないと不幸な人生になるというイデオロギーもどきが拡散しなければ就職情報会社は成り立たないのである。

 

適職・天職幻想が広まるのは何も就職情報会社だけの責によるものではない。やはり、人々の心の奥底に適職や天職があるはずだという思いがあってこそ成り立つものである。突き詰めれば「賃労働」の持つ本質から目を背けたいという無意識の意志が存在する。

殆どの人たちは自分の好きな仕事をしているわけではない。会社の命令ひとつで部署を変わり職種が変わり勤務地が変わる。会社の業績が落ちるとリストラ圧力がのしかかってくる。そんなことなら、せめて適職と言える仕事に就きたい、と考えるのは理解できる。

 

しかしながら、やはり適職や天職というものは幻想に過ぎない。

僕たちは働くことの意義を自分なりに考えながら日々の仕事をこなしていくほかにない。

このことは決して悲しいことではない。

労働の義務についてあれこれ考えてみる件

「国民は勤労の権利を有し、義務を負う」と日本国憲法に規定されている。一般的には労働の「権利」についての言説が多くて、労働の「義務」についてはなおざりにされがちである。

このブログのメインテーマのひとつは「労働の本質」について考えることである。労働は苦役なのか、自己実現の手段なのか、生活を成り立たせるためにやむを得ずにすることなのか、というように色々な論点がある。

労働が国家の成員たる国民が負う義務である、とはどうゆうことなのか、を考えてみることも労働の本質に迫るアプローチのひとつであると思う。

 

労働の義務を負うとはいっても強制的に就労させられることを意味しないのは自明のことである。憲法に「奴隷的拘束」を強いることが禁止されている。

僕なりの言葉で表現すると、労働は共同体の存立の根幹に関わる公共的な行為である、ということだ。労働は純然たる私的な行為ではなく、自分が属する共同体を維持発展させるために己に課せられた役務を果たすことなのである。これは労働の本質のうちのひとつである。

人は労働を通して共同体の一員としての自覚を得られれば、労働が単なる苦役ではなく、その意義や喜びを感じられるようになる。

人は社会的な生き物であるがゆえに、共同体を作ってそこに属し、その共同体のために自分の労力を提供する。その労力の提供と引き換えに報酬を得る。この営みこそが労働の本質である、と考えられる。

 

資本主義体制下ではこの労働が「賃労働」となり労働というものが変質する。労働者が共同体(会社や役所など)の一員という自覚を持ちえぬまま、会社に搾取され、あるいは使い捨ての駒以下の扱いをされ、疎外されて、労働が苦役となる。

賃労働が労働の本質から乖離していき、労働者は会社の利潤追求のためにのみ存在すると考えられるようになる。

どのような職種に就こうが、労働者である限りはこのことからは逃れられない。社会的威信の高い仕事であっても、それが共同体の存立に関わらないと意識すれば、あるいは自身が共同体の一員という意識が芽生えなければ労働は苦役となる。逆に言えば、一見単純作業に見える仕事をしていても、自分が共同体の一員である、共同体の存立に関わっているという意識を持てれば、その仕事は苦役とはならない。

 

労働の本質が「苦役」だということが前面に出れば、労働の義務が強制労働的なものになる。自分の意に反した労働を心ならずもこなしている、という気持ちになりがちである。そもそも、労働の義務という概念自体に拒否反応を示すようになる。

この「苦役」的な労働であるのにもかかわらず、そこに自己実現ややりがいを見出せという圧力にさらされ続けている労働者が多いという点に労働問題の核心があると思う。

一方、共同体の存立の根幹に関する公共的な行為としての労働であれば、労働に対する忌避は起こりにくい。俗に言う成長や自己実現、やりがいを伴った労働になり得る。労働の義務といった概念もすんなりと受け入れることができる。

今の労働を取り巻く状況は、多くの人は労働を「苦役」と感じ、一部の恵まれた人が共同体の一員という意識を持てる労働をしている。

労働の本質を語るときにこの両者の間に乖離があり大きな溝が存在することで、ちぐはぐで焦点がずれた言説が蔓延するのである。

 

労働の義務について考えるときに、どうしても労働の本質論に行き着くことになる。

労働の本質とはこれだ、という明確なものは今のところ存在しない。いや、それらしきものはあるが、政治体制や経済体制に影響されて時代によって変化するものでもあり、万人を納得させられるものがない、といった方が正しい。

 

将来的には労働の義務という概念そのものがなくなるかもしれない。

 

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