希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

働く環境を良くするためにはひとりひとりが現実と向き合うしかないという件

この国で働く人たちの多くは労働環境が劣悪な状況にあることに苦しんでいる。

長時間労働サービス残業、誤った成果主義、リストラ圧力が常にかかっている等々である。

新自由主義グローバリズムはごく一部の経営者層・富裕層を富ませるだけで、労働者の生活の質は劣化の一途を辿っている。

 

労働者の職場環境を改善するためには労働者自らの力によってなすことが理想である。イデオロギーに囚われない労働組合の手によって待遇改善の戦いを続けるほか手立てはないのである。

労働者ひとりひとりの力はとても弱い。とても経営者層に立ち向かえない。ならばと「連帯」と「団結」によって対抗するしかない。

しかし、この国の既存の労働組合は闘う力と意欲を喪失している。組織率も低下し続けている。労働組合の存在意義そのものが問われている状況下にある。

 

労働環境の改善を国家の介入によってなすべきだという言説があるが、これには僕は全面的には同意できない。労使の交渉によってしても解決できない事案については国家権力の介入も仕方がないとは思うけれども、安易に国家に頼ることは危険である。

そもそも現政権・与党は大企業の利益を第一にしていて、労働者や庶民の生活なぞ二の次にしているのである。そんな政権が労働者や庶民を利するような政策を採ることはない、と考えなければならない。

 

労働組合は頼りにならない、国家権力の介入は避けなければならないとなると、結局はひとりひとりが個人で現実と向き合うしかない。

あるいは個人単位で加入できるコミュニティ・ユニオンに加わって会社と対峙するしかない。

個人でできることは限られている。その影響力なんて微々たるものだろう。しかし、手をこまねいているよりははるかにましである。

個人でできること。

それはサービス残業の拒否であったり、定時退社を試みることであったり、有給休暇の完全消化を図ることだったりする。職場の同調圧力に屈せず、労働者としての当然の権利を行使することである。

現に労働基準法、労働契約法、労働組合法等の労働法ではかなり強く労働者の権利が保護されている。多くの働く人たちはその知識が乏しくて、あるいはそれを学ぶ機会を奪われていて、会社や経営者の好き放題にされっ放しとなっている。ひとりひとりの労働者は闘う術を手にしているのである。

 

作家の竹内義和さんの言った言葉。

「金持ちはうまくつるんでいて、貧乏人はいつもバラバラである」

これは的を射た言葉である。

労働者や庶民が手を携えることができないのは、為政者の分断統治の結果であると同時にそのメンタリティの問題もある。ついつい目先の利益に目を奪われて、大切な目的達成のための中長期的な視野を持つことができないでいるのだ。

労働者や庶民も「うまくつるむ」ことが大切なのである。

 

労働者ひとりひとりの力は会社や経営層の力に遠く及ばない。

しかし、数の上では圧倒的に多数である。

労働者ひとりひとりが会社や経営層に対峙するために個人でできることをやり、そのうえで連帯し団結して(ユニオンを作ったり加入したりする)数の力で対抗する。

巨象も蟻の大群に倒されることがある、というようにひとりひとりは弱い労働者も大きな山を動かすことができる。

ひとりひとりが現実に向き合うことで道は開ける、と僕は強く思っている。

競争原理を徹底すると荒廃するものがあるという件

僕は基本的には競争を是とする考えを持っている。競争がなければ人は成長しないし、社会も停滞すると思っている。人は平等であるべきだが、何でもかんでも平等なわけがない。競争によって生じる差別はある程度は甘受しなければならない。現実は様々な基準によって人は選別され差別されている。

 

しかしながら、ものには限度がある。

行き過ぎた競争になると弊害も多くなる。

競争になじまない領域に競争原理を持ち込むと悲惨なことになる。

例えば医療・福祉・教育に過度の競争を持ち込むことは結果としてそれらの領域の崩壊を招くことがある。

医療にしても福祉にしても教育にしても、大切なのは一定レベル以上のサービスを誰にでもどこでも一律に提供することである。カネ持ちだけが高いレベルの医療や教育を受けることができて、カネのない者は排除するということがあってはならない。

 

医療・福祉・教育の領域におけるサービスは無差別平等に提供すべきものである。各々の病院や施設、学校は質の向上を図る努力を怠ってはならないが、競争原理に埋没することは絶対に避けなければならない。公的セクターや私立に関係なくである。

 

例えば福祉の領域では、高齢者や障害者はその資力に関係なく自立支援のためのケアを受ける権利を持っている。また、どの施設を選択したとしても一定水準以上のケアを受けられるようになっていなければならない。施設の側から見ると一定レベル以上のケアを提供していれば余程下手な経営をしない限り、経営が安定することが望ましい。

しかし競争原理が幅を利かせるようになると資本力の大きさによって施設の淘汰が起こるおそれが出てくる。チェーン展開しているような大規模施設のみが残るようになっては健全とはいえない。地域に密着した良質なケアを提供する小さな施設が生き残れないような状況は不健全である。

 

教育、特に義務教育段階での学校間での競争も良いことばかりではない。いや、むしろ害悪の方が多いように思う。基礎的な学力は絶対に必要なものであることは論を待たない。学生の家庭環境によって差が生じるものであってはならない。つまり裕福な者だけが高水準の教育を受けるような状態になってはならない。

公立の小中学校で競争を強いるとどうしても地域間格差が生じる。所得水準の低い地域の学校が荒廃するおそれがある。義務教育で教育格差が生じると、そのまま貧困の連鎖が起こり格差が固定化する。

 

医療・福祉・教育の領域で格差が生じると社会の不安定化を招くおそれがある。これらの領域では国家の介入が必要であり、過度の競争を抑制する必要がある。「民営化」や「競争原理の導入」で問題がすべて解決するという単細胞脳しか持たない輩の跋扈を許してはならない。

行き過ぎた競争は地獄への第一歩であることを忘れてはならない。 

人は欲望を完全に捨て去ることはできないという件

資本主義体制は人の欲望を肯定しその欲望を充足させるために拡大再生産を続ける、という前提の下で成り立っている。

すべての人が(あるいは大多数の人が)商品やサービスを求めなくなると資本主義社会は瓦解する。

今の体制は人の本性に根差したものだといえる。

 

僕が若い頃は「欲望の塊」だった。

欲しいものが沢山あり、恋人やガールフレンドを強く欲していた。

自分の欲望を満たすためにはカネが多く必要となり、カネを稼ぐために働き続けた。同じ働くならば条件の良い働き口の方が良い。そのために大企業を目指し、公務員を目指し、結果政令指定都市の公務員の職に就いたのである。

公務員となって受けた経済的な恩恵は少なくなかった。高給とは言えないけれど、安定した収入を確保できた。クレジットカードの審査なんて楽勝で通って何枚もカードを所有して、それをステイタスだと思い込んでいた。投資話をいくつも持ちかけられたりもした。

ブランド物の服や小物を買い、消費欲を満足させていた。

今となって思えば、何だかなぁ、となるけれども、その当時は疑いを持つことなく高度消費社会に取り込まれていたのだった。

 

僕は今ビンボー生活を続けている。

物欲はほとんどなくなった。買いたいものといえば本(ほとんどが古本)や必要に迫られた衣服くらいである。あとは今使っているパソコンが壊れたときには買わなければならない。ブログを書くためには必要不可欠なものであり、ちょこっとだけあるネットからの収入を確保するために、radikoを使用するためになくてはならぬものである。

性欲や異性を求める欲望はかなり減退しているが、なくなってはいない(なくなったら悲しい)。

反面、この世に名を残したいという欲は増大しているかもしれない。無名のままに人生を全うすることを受け入れる腹積もりはあるけれども、心のどこかでそれを拒否している。このブログを書き続け、少しでも多くの人たちに読んでもらいたいという気持ちがあるのも名を残したいという欲望の表れである。

 

僕は欲望というものを全否定する言説には賛同できないし、かと言ってこのまま欲望を肯定して経済成長至上主義的な考えにも同意できない。

せいぜいが人には欲望があることを認めて、それを「ほどほど」に抑制して節度を保って生きていくことがベターであるとしか言えない。

資本主義に変わる経済システム(多くの人たちにとって生きやすいような)が出現しない限り、資本主義システムを受け入れるしかない。

理想論かもしれないが、自然と調和が取れていて剥き出しの欲望にブレーキをかけた品位のある社会システムを構築しそれが続くことを望んでいる。

 

自分が持つ欲望を手なずけながら、何とか人としての品位や矜持を保ちながら生きていければ、と僕は思っている。

さらに、僕がこの世に存在していた、という証を残すことができるのならば、何も言うことがない。

「完全」や「健康」ばかりを求められる社会はおかしいという件〈再掲〉

人は必ず病を得て老いて死を迎える。

昨今の風潮はこの当たり前のことに目を塞ぎ、「完璧」で「健康」で「若さ」を至上の価値としている。

これらは底の浅いしかも危険性を伴うイデオロギーである。

 

初出 2016/8/9

 

僕たちは不完全な存在である。

だからこそ完全な存在である「神」という概念を創りだし、宗教を生み出したのだ。

自分が不完全な存在であることを知り、それを超越しようとして様々な知的活動を営々と続けてきたのである。

 

しかしながら、僕たちは実生活において他者にあるいは時に自分自身に完全・完璧を求めている。

例えば仕事をしていくにあたり完璧さを常に求められる。多少はプロセスに失敗があっても結果がそこそこ出れば良いと思うのだけれども、そんなゆるい考え方は殆どの場合許されない。いやむしろ結果よりもプロセスの完璧さを追求しているような気がしてならない。

育児にしても昨今はより完璧であることが求められている。「親はなくとも子は育つ」と言われているように、実は育児態度がすべて子の人格形成に影響を及ぼすわけではない。放っておいてもそれなりに子は育つ、という事実を先人は知っていたのだ。

 

僕は喫煙者だが、近年の「禁煙ファシズム」的な風潮には辟易している。確かに喫煙はいくばくか健康を損なう要因になるのかもしれない。他方でタバコを吸うことによってストレスの解消になるという側面もある。この世で健康を損なわせる要因は山ほどある。長時間労働なんてその最たるものであり、健康云々を言うのならば長時間労働に対して強い規制をかけるべきである。

 

それに健康を絶対的な善とする考え方に危険が潜んでいる。

人は生まれてから死ぬまでの間にほぼ確実に何らかの病を得ることになる。その病と付き合いつつ日々の生活を過ごすのが当たり前なことである。健康体でなければ雇わないという会社や役所があればどう感じるだろう。一部の会社では業務に支障が出るという理由からちょっとした病気の社員を排除している。

あまりにも健康であることを絶対視し健康の定義を厳格化することによって、病気を次々と作りだし、医療費が膨大になっている。

人は歳を取ると体のどこかにガタがくるのは当然なことなのだ。病気や不調を悪として、健康を賛美するのは「健康ファシズム」である。

 

病気を持っていたり、心身に障害がある人たちを「不完全」な存在だととらえ、社会のお荷物だととらえる考え方は危険この上ない。優生思想や社会ダーウィニズムにつながる非人間的なものである。

 

たとえどのような病気を持っていても、どのような障害があっても人は人である。その存在が無条件に肯定されるべきものである。

人は「完全」であったり「健康」であったりといった条件付きで存在を認められるものでは決してない。

こんな当たり前のことを表立って口にしなければならないような社会になってはならないのだ。

 

 

「正義」なんて胡散臭いものだという件

僕たちはついつい「正義」を前面に立てて自分の考えを押し通そうとする。自分の「正義」が絶対的に正しいものと疑いもせず、他者を抑圧しようとする態度がいかに傲慢で反知性的なものか思いも至らずに。

 

小田原市生活保護の不正受給抑止目的のジャンパー着用の件で、件の職員たちが「正義」を前面に押し出していたことに僕は不快感・違和感を抱いた。

生活保護の実務を法令に則って誠実に行うことが関係職員がなすべきことである。そこに正義云々が入り込む余地はない。市役所の職員たちが正義というものを持ち出すこと自体傲慢であり、さもしいことである。

不正受給自体は悪いことではあるけれども、行政の担当者が自分を正義だとし、不正受給者を一方的な悪だと断罪するような態度は権力を行使する者の本音がこぼれ出たものであって、とても不快である。全体の(この場合は地域の)奉仕者である公務員だという立場をわきまえていない暴挙である。

 

かつて「正義」の名のもとに夥しい数の人たちが命を奪われたことは歴史が証明している。

正義を盾にしたイデオロギーほどタチの悪いものはない。それに対して抵抗すれば「悪」のレッテルが貼られ、「悪」に属するとされる人たちを排除・抹殺することが正当化される。

正義は人を抹殺し人を抑圧する都合の良い道具となるおそれが大いにあるのだ。正義が持つ恐ろしさや危険性を蔑ろにしているととてつもない害悪を僕たちにもたらす、ということを肝に銘じておかなければならない。

 

僕たちが「正義」を口に出すとき、その正しさを妄信しているときもあれば、その正しさに疑いを持ちつつも「正義」だとしておけば相手をやり込めるのに便利だと思っているときもある。

正義だと妄信すると思考停止状態に陥る。

正義を「道具」だとして用いると、そこには邪なものがある。

権力者、特に独裁者は「邪悪なもの」を正義で覆い隠すことによって、「正義」の名のもとに人々を抑圧してきたことは、これもまた歴史が証明している。

 

絶対的な正義、普遍的な正義なんてこの世には皆無なのである。

人は所詮は自身に都合の良い「正義」をでっちあげて、そのでっちあげられた「正義」に後付けであれこれと理論付けを施して、さも絶対の「正義」だと見せかけているに過ぎない。僕たちはその見せかけの正義に縛られている。

あるいは多くの人たちは「見せかけの正義」だと心のどこかで感じながらも、それに束縛されることに快楽を得ているのかもしれない。

 

「正義」なんて胡散臭いものである、と僕は常々思っている。

しかしながら、時としてその「正義」に陶酔してしまう自分がいる。

「正義」には人を狂わす何かが備わっている。

「正義」は魔物である。

「正義」は媚薬である。

僕は「正義」のもつ魔力に常に対峙していきたい。

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