希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

社員から収奪し、社員を酷使して儲けているだけなのに名経営者ヅラする奴らが気にくわない件

資本主義体制下においてそれぞれの会社は利益の極大化がその存在意義である。利益を出せばさらに投資して会社の規模を大きくする。その繰り返しである。

会社がどれほど利益を出しても労働者への恩恵は雀の涙ほどのものである。利益の大部分は株主への配当と内部留保にまわされる。

労働者はその会社に勤め続ける限り浮かぶ瀬がないのである。

 

会社が労働者から「搾取」をし続けてそのことにより会社が大きくなり、「持てる者」はますます富栄える。労働者にとっては我慢ならないことであるけれども、この事実は資本主義体制が続く限りどうしようもないことである。資本主義体制下では搾取自体は悪ではなく、搾取ありきでその体制が存続するのである。

 

会社が利益を増大させるためのオーソドックスな方法は単純である。まずは良質でかつ消費者の要望に沿った商品やサービスを利益率を高くして提供することだ。まともな会社はそうしようと躍起になっている。

他の手は人件費を極度に圧縮することである。会社が労働者から「収奪」し、労働者を酷使して利益のみを追求する手法である。「収奪」は搾取と似て非なるものである。搾取とは正確な表現ではないが、利益の分け前を会社が多く分捕り、労働者には稼ぎ出した利益分の報酬ではなく最低限の生活費に相当する報酬(賃金)のみを分配する、といったものだ。品のよろしくない表現を用いればピンハネしているということである。

一方、「収奪」とは労働者が受けるべき賃金等の受益分そのものを奪い取る、ということである。例えばサービス残業を強いて働いた分の給料を支払わないことである。あるいは非正規雇用の社員に正社員と同等の仕事をさせておいて、非正規雇用という「身分差」を盾にして払うべき額の給料を払わない、ということである。

 

今、大きく発展している会社の多くが「収奪」によって大儲けしている。前述の社員から収奪するだけでなく、下請け会社に理不尽な要求を押し通す、発展途上国に生産拠点を移し劣悪な条件で現地の人たちを酷使するといった収奪をしている。

そのような収奪を繰り返して、利益を極大化し、会社を大きくした経営者の一部が名経営者としてもてはやされている。あえて名前は出さないが、多くの人たちが目にし耳にしている有名な会社や経営者たちだ。

そしてその名経営者どもが、自分の偏った人生訓を偏った経営論を垂れ流している。そしてそれらを疑いもなく受け入れる多くの人たちがいる。皮肉なことに名経営者もどきの熱心な信者の多くはサラリーマン、労働者である。これは喜劇であり悲劇である。

 

名経営者もどきの連中が名経営者ヅラしているだけならまだしも、政治家になったり、オピニオン・リーダーを気取ることが僕は気にくわない。ゼニの亡者としての本性を顕にしてその道を全うしておけ、と言いたい。

それらの名経営者もどきはカネの儲け方が上手かった、ただそれだけのことであってそれ以上でも以下でもない。カネの多寡だけが人の価値を決める、といった偏った考えを持つ人たちだけの教祖になっていればいいのである。

 

今の世の中に「名経営者」なんて不要なのでは、と僕は思う。

弱き者から「収奪」することを恥と思う「まともな」経営者がひとりでも多くなることを強く望んでいる。

 

 

 

ゆるく生きて、ゆるく働いて、これのどこがいけないのかという件

一旦会社や組織に属すると、自分の私生活を差し置いても会社に尽くすという働き方が「善」とされてきた。今もこの考え方は随所に生きている。

仕事を最優先する生き方が真っ当であり、普通であるとの考え方も未だにこの社会に根付いている。

 

僕もかつては仕事での成功が即人生の成功になると思い込んでいた。仕事以外の活動は仕事の従属物だと考えていた。いやむしろ仕事以外の活動を仕事につなげようとしていた。

まさしく視野狭窄だったのだ。

当然のことながら、仕事に行き詰ると日々の生活も楽しくなくなる。日々の生活が楽しくなくなると仕事にも影響が出てくる。負のスパイラルに陥ってしまったのである。うつにもなった。

 

僕はそれまでの生き方・働き方に限界を感じて発想の転換をすることにした。

仕事で自己実現をしなくてもいいじゃないか。

他者から認められて、自分の評価を高めなくてもいいじゃないか。

自分の好きなように生きていってもいいじゃないか、と。

元々が僕は怠け者のダメ人間であることを受け入れようと心に決めたのだ。

ダメ人間であることを自覚すると生きづらさが軽減された。

 

ダメ人間でも生活費は稼ぐ必要がある。

働けるうちは働かなければならない。

僕は「ゆるい働き方」を追求することにした。

今は非常勤・無期雇用という雇用形態で働いているが、今の職場は非正規雇用の人たちを正社員とほぼ変わらない戦力としているので正直なところ息苦しく感じている。結構負荷が大きいのだ。もっとゆるい働き方ができそうな職場を探しながら働き続けている。

給料は安くても良い。最低限の生活費が賄えれば十分である。僕は殆ど物欲が無い。知識欲が満たされればそれで満足なのである。

 

僕の生き方はこの社会ではマイノリティに属するものだろう。社会的な信用もゼロに等しい。真っ当な人たちから見れば怠惰な人間に映るだろう。

 

すべての人が企業社会に適合するわけではない。

一定数の人たちは会社中心・仕事中心の生き方に違和感を持っている。そして少なくない人たちはこの社会で生きづらさを感じている。

 

ゆるい働き方がもっと認められてもいいのではないか。

ゆるい生き方をもっと認めてもよいのではないか。

 

僕は世間の目を気にせずに、しかし何とか世間と折り合いながら、ゆるく生きていきたい。

 

   

この社会では「自己肯定感」が徐々に奪われていくという件〈再掲〉

自分はこの世に存在していてもいい、生きるに値する人間だという自己肯定感を持ち続けることはとても大切なことである。

しかし、僕たちは様々な「選別」にさらされ、自己肯定感が削られていく。人としての存在が否定されるほど悲しく残酷なことはない。

 

初出 2016/8/2

 

この世知辛い世の中で生きていくためには自己肯定感を持ち続けることが大切になってくる。

自分はこの世に存在していてもいいんだ、と思えれば大概のことは克服できる。

 

僕がこれまでに何とか生き延びることが出来てきたのは自己肯定感を失うことがなかったからだ。こんな僕みたいな奴でもどこか世間の隙間に居場所があるはずだと感じていられたのである。

サラリーマンができず、フリーランスでも失敗し、ビンボー生活を続けることを余儀なくされても卑屈になることなく堂々としていられるのも、どうにかこうにか自己肯定感を持ち続けているからである。

 

この世の中では生きづらさを抱え、それを拗らせている人たちが多く存在している。中には長期間のひきこもり状態にある人たちもいる。その多くは自己肯定感を失い、奪われた人たちであると推察できる。

自己肯定感は「無条件の生存の肯定」がベースとなる。生きているだけでそれだけでいいんだとひとりひとりが思うことができれば自己肯定感が芽生えてくるのである。

 

今のこの社会では普通に生きているだけでも自己肯定感が棄損されていく。家庭でも学校でも会社でも「条件付き」の生存しか認められないような傾向があるからだ。いい子でなければならない、勉強ができなければならない、仕事ができなければならない、そうでなければ認めないという不寛容な態度に晒され続けていくと次第に自己肯定感が失われていく。

 

特に会社に雇われて働くようになると自己肯定感を持ち続けることが難しくなる。

会社や役所という組織では無条件で人を受け入れてはくれない。「戦力」になってはじめて組織の成員として認められる。条件付きでその存在を認められることになる。人はその組織からの圧力と自己肯定感とのバランスを保ちながら生きていくことになる。自己肯定感が蝕まれてしまうと、社畜となり、もっと酷いことになると精神を蝕まれてしまう。

 

親子間の関わりの中で自己肯定感を奪われ、学校でそれを奪われ、これらを潜り抜けても会社社会で自己肯定感を奪われる。僕たちはいかにして自己肯定感を守るかという闘争に明け暮れているのである。自己肯定感というものを常に意識していないといけないのであって、流されるままにしていると知らぬ間に自己肯定感を失ってしまうことになる。

 

自己肯定感を持ち続けるためにはどうすればよいのか。

明確な答えはない。人それぞれという側面もある。

僕が採っている方法は世間の常識や良識を疑ってかかることである。

あるいは組織の論理というものに従属しないということである。

教師の謂うことを鵜呑みにしない、会社の掟に盲従しない、他者からの評価ばかりを気にしない等々、自己防衛をするのである。

学業成績が良くないからといって、人事評価が芳しくないからといって、それらは人の価値を決めるものではないと肝に銘じておく。

人の存在価値は決して人が決められるものではない。

 

たとえ悪い状況・厳しい状況に陥っても、自己肯定感さえあれば何とかなる。

自己肯定感を奪おうとするこの社会の様々なものに常に対峙し続けていく姿勢こそが最も大切なことである。

 

  

 

 

 

 

 

「楽しさ」を感じられない労働は「苦役」であるという件

一般的にこの国の人たちは勤勉だとみられている。また勤勉が美徳だという価値観・労働観が浸透している。

多くの会社や経営者は「働く喜び」「働けることへの感謝」などを繰り返し説いて労働者を酷使している。

 

欧米では労働は苦役である、とされていたという。

ただ、プロテスタントの一部の派が勤勉が美徳であるということを教義に取り込み、「勤勉革命」が起き、産業革命へとつながり資本主義社会が誕生したと言われている。

ただし、欧米では労働は苦役だという考え方は根強く残っていて、一般的な労働者の働き方は仕事は生活費を稼ぐための手段に過ぎないと割り切ったものになっている。

 

僕はこの国の人たちが元々勤勉だったなんて嘘だと思っている。

勤勉が美徳なんて明治維新以降に近代国家を作り上げるために動員されたイデオロギーに過ぎない。あるいは功利主義的な思考法が紛れ込んできて個人の利益の拡大が善となり、そのためには勤勉さが必要不可欠となったものである。

 

「労働」なんて突き詰めて考えれば決して楽しいものではない。

資本主義体制下の賃労働では搾取され放題である。

雇われて働くと自分の好きなようには仕事ができないし、自分の好きな仕事もできない。労働者は会社に首根っこを押さえられていて、働く場所や職種さえも勝手に決められてしまう。

 

労働が全くの苦役であるなら話は簡単なのだけれども、時々「働く喜び」を感じたりするから話はややこしくなる。

クリエイティブな仕事をやり遂げて達成感を得るといった類の話は稀にある。これはこれで分かりやすい。一方で創造性とは対極にあるルーティン・ワーク的な仕事をやり遂げても達成感を得られることがある。自分なりに創意工夫をしたなら尚更である。

 

そう、僕たちは働くことが楽しいと感じることがたまにあるのだ。

たとえブラック企業で酷使されていてもこの種の楽しさを感じることがある。客観的な事実としては労働者が楽しさを感じて働けば働くほど搾取の量が増大する。一流とされる経営者は労働者に働く楽しさを感じさせるように仕向けて搾取量を増やし会社の利益の極大化を図るのである。

労働者の側としても、どうせ働くなら楽しく働いて給料をもらった方が良いと考える。これを合理的な選択だと思い込んでいる。ある会社のある部署で働いていて苦痛を覚えると人事異動によって解決しようとする。それでも楽しさを感じられないのならば転職して会社を変えることによって苦痛から逃れられると思ってしまうのだ。いくら会社を変えても労働者が持つ「宿命」からは逃れられないのは自明のことである。でも、それを言ったら身も蓋もない。せめて労働の喜びとまではいかなくてもささやかな楽しさを求めるのである。

 

労働者が大同団結してゼネストが行われず、革命なんて起きる気配すらないのは、労働者であり続けるメリットがあるからだ。あちらこちらに楽しさを感じられるような仕事がまだ残っていて、運よくそのような仕事に就く可能性が個々の労働者に開かれているからである。

楽しさを感じながら働ける労働者がいるうちは現体制はそのまま維持され続くことになる。

楽しさを感じられない労働は単なる苦役となる。

苦役と感じる労働が大半となった世の中になるとどうなるか、僕には分からない。社会の大変動が起きるか、ディストピアの世の中が続くかは人々が「変化」を求めるか「安定」を求めるかどちらが多数を占めるかで決まってくるだろう。

僕は「安定」なんて幻想に過ぎないと思っている。

仕事だけの人生なんて本当にクソつまらないという件

人は生活を成り立たせるためには何らかの形で働かなければならない、というのは自明のことである。

自分の(あるいは家族の)食い扶持の分だけ稼げばあとは何をやっても自由だというわけである。

ところがそんな「ゆるい」働き方や生き方が世間一般で認められているかというとそうではない。

 

仕事一筋人間とか仕事=人生みたいな働き方をしている人を賞賛する風潮が根強く残っている。人の価値を仕事ができるかどうかで評価し選別している。仕事に重きを置かない人たちをどこかで白眼視し異端者扱いしている。

時々、仕事以外のことに、例えば社会活動や地域活動や趣味等に没頭している人たちを「新しい生き方」的なものとしてメディアが取り上げることがある。それらはあくまでも例外的なものであるからスポットライトが当たるのであって、世の中の主流ではなく傍流であることに変わりはない。

今でも人生の大半を仕事に費やす、という生き方が多数派を形成しているのである。

 

僕はダメ人間であり、マイノリティに属する人間である。

仕事は人生の一部でしかないと考えている。

そんな僕からすると、仕事命、仕事=人生という人たちは働くしか能のない人たちだと思えてならない。

しかしながら、「働くしか能のない人」がそれこそ寝食を忘れて働き詰めに働いてくれたおかげで今の物質的な豊かな社会ができたのである。僕はその恩恵を受けているのは間違いない。したがって働くしか能のない人たちの生き方をとても否定することはできない。ただ、そのような生き方や働き方を僕のような奴に押し付けないでくれ、とだけしか言えない。

 

ここでこのような反論がくるだろう。自分の仕事を天職と捉えて仕事に情熱を注ぎこむような生き方を否定するのかと。

もちろん僕は否定しないし、そのように生きている人たちに敬意を表する。ただ、天職といえる仕事についている人たちはレアケースである。殆どの人たちは自分の属する会社や役所等の組織の中で仕事を割り振られて、その仕事を何とかこなしていっている。要するにほとんどの人は賃労働に従事する労働者なのであって、労働者が仕事命的な働き方や生き方をするのはいかがなものかと問いたいだけなのである。伝統工芸の職人や芸術家などとは同一視してはいけないのだ。

 

世の中に数多ある仕事の殆どは誰にでもできるものである。代替可能なものである。そのような仕事に一生の殆どを費やすということに僕は割り切れない思いを抱いている。

仕事は生活のためだと割り切って、仕事以外のことに仕事に注ぎ込む以上の情熱をもってあたってもいいのではないかと思うのだ。

その「仕事以外のこと」はどんなものでもいい。自分の好きなことを自由に自分のやりたいようにやればいいのではないか。世間でもそれをもっと認めるような風潮が生まれてしかるべきである。「働き方改革」もこの視点で論議してほしい。仕事だけが人生的な考え方のままでは小手先の改革に終わるだけとなってしまう。

 

仕事だけの人生なんてつまらない、と僕は強く思っている。

傍から見てくだらない、取るに足らないようなことでも本人にとっては情熱を注ぎこめるようなことを見つけて楽しく面白くそれに注力する。そのような生き方を受け入れられる社会になれば、人それぞれの「居場所」が確保できる生きやすい社会になるはずである。

 

 

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