資本主義体制は人の欲望を肯定しその欲望を充足させるために拡大再生産を続ける、という前提の下で成り立っている。
すべての人が(あるいは大多数の人が)商品やサービスを求めなくなると資本主義社会は瓦解する。
今の体制は人の本性に根差したものだといえる。
僕が若い頃は「欲望の塊」だった。
欲しいものが沢山あり、恋人やガールフレンドを強く欲していた。
自分の欲望を満たすためにはカネが多く必要となり、カネを稼ぐために働き続けた。同じ働くならば条件の良い働き口の方が良い。そのために大企業を目指し、公務員を目指し、結果政令指定都市の公務員の職に就いたのである。
公務員となって受けた経済的な恩恵は少なくなかった。高給とは言えないけれど、安定した収入を確保できた。クレジットカードの審査なんて楽勝で通って何枚もカードを所有して、それをステイタスだと思い込んでいた。投資話をいくつも持ちかけられたりもした。
ブランド物の服や小物を買い、消費欲を満足させていた。
今となって思えば、何だかなぁ、となるけれども、その当時は疑いを持つことなく高度消費社会に取り込まれていたのだった。
僕は今ビンボー生活を続けている。
物欲はほとんどなくなった。買いたいものといえば本(ほとんどが古本)や必要に迫られた衣服くらいである。あとは今使っているパソコンが壊れたときには買わなければならない。ブログを書くためには必要不可欠なものであり、ちょこっとだけあるネットからの収入を確保するために、radikoを使用するためになくてはならぬものである。
性欲や異性を求める欲望はかなり減退しているが、なくなってはいない(なくなったら悲しい)。
反面、この世に名を残したいという欲は増大しているかもしれない。無名のままに人生を全うすることを受け入れる腹積もりはあるけれども、心のどこかでそれを拒否している。このブログを書き続け、少しでも多くの人たちに読んでもらいたいという気持ちがあるのも名を残したいという欲望の表れである。
僕は欲望というものを全否定する言説には賛同できないし、かと言ってこのまま欲望を肯定して経済成長至上主義的な考えにも同意できない。
せいぜいが人には欲望があることを認めて、それを「ほどほど」に抑制して節度を保って生きていくことがベターであるとしか言えない。
資本主義に変わる経済システム(多くの人たちにとって生きやすいような)が出現しない限り、資本主義システムを受け入れるしかない。
理想論かもしれないが、自然と調和が取れていて剥き出しの欲望にブレーキをかけた品位のある社会システムを構築しそれが続くことを望んでいる。
自分が持つ欲望を手なずけながら、何とか人としての品位や矜持を保ちながら生きていければ、と僕は思っている。
さらに、僕がこの世に存在していた、という証を残すことができるのならば、何も言うことがない。