希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「シフトダウン」した働き方で新たな生き方が見えてくるという件

僕は何度もこのブログで雇われて働くことが苦痛だと言ってきた。

ならばとフリーランスで稼ぐために何らかのナリワイを持とうと試行錯誤を繰り返している。残念ながら未だに生活費をすべて賄えるほどのナリワイを確立できていない。

自分のナリワイを見つける試みは続けるけれども、先立つものは必要だ。だから、次善の策として嫌ではない仕事をパートタイムでする、ということでしのいでいる。くだらない仕事なんかで消耗しない働き方を選んでいる。

僕のような中年男には正社員で働く道は半ば閉ざされている。仮にあったとしても僕がやりたくない仕事ばかりだ。何より正社員という働き方に僕は全く魅力を感じていない。会社の奴隷になって馬車馬のように働くなんて御免被りたい。

 

僕は40代の初めころまでは人並みに上昇志向があり、成長志向があった。世間で言うところの真っ当な生き方・働き方にこだわっていた。また自分は真っ当な生き方をしてしかるべき人間だと思い込んでいた。決してダメ人間ではない、有能な人間だと勘違いをしていたのだ。

自分のことをダメな奴だと受け入れるのはなかなか難しい。しょうもないプライドが邪魔をする。世間の目も気になる。やはり人からはできる人間だと認識されたい欲がある。

 

僕は社労士事務所を廃業してからしばらくは正社員としての職を探し、何社か正社員として勤めた。しかしどこで働いても違和感にとらわれ、息苦しさを感じ長続きしなかった。

そこで発想の転換を図ることにした。必要とする生活費を切り下げて稼がなければならない額を低く設定することにしたのだ。そして働く時間を短くして負担を減らし、自由な時間を確保して「ゆるい」生き方を志向することにした。「シフトダウン」した働き方、生き方を目指すことにしたのだ。

 

シフトダウンしてから3、4年経つけれども、これが結構僕に合っていてなかなかに快適な日々を過ごしている。長年悩まされていたうつがほぼ全快した。読書量が飛躍的に増えた。このブログも続けることができている。

生活費を稼ぐための仕事にもそれほどこだわりがなくなった。福祉の仕事と単純作業の仕事を交代にしているけれども、職場に愛着もないしこだわりもないので飽きたらあるいは嫌になったら即職場を変える。複数のところから収入を得るように心がけているので、嫌な仕事や自分に合わない仕事を無理してすることもない。

今は友人の塾で講師(これは辞めない仕事)、児童養護施設の子供への学習支援(これは不定期・ボランティア的なもの)、ナリワイ的な仕事をメインにして、空いた時間に気が向いたらパートで介護福祉系の仕事をするか倉庫のピッキング等の単純作業に就いている。

 

今の僕の働き方はとても真っ当なものではない。収入額もたかがしれている。

しかし、僕はシフトダウンした「第二の人生」を楽しんでいる。

ゆるい生き方・働き方ではあるけれども、僕は成長を実感している。

自由な時間が増えたおかげでこの社会に起きている様々な問題について深く考えることができるようになった。今はできていないが、何らかの形で社会活動にコミットしたいと思っている。もっともっと良書と巡り合い、僕の血肉としたい。

僕はシフトダウンすることによって得られた新しい人生を満喫していきたい。

 

 

僕は奴隷根性を自分の中から追い払うために日々闘っているという件

僕は常に自由でありたいと思っている。

完全なる自由など幻想に過ぎないことは重々承知している。

何物にも隷属せず、自分の頭で考え行動し、己の生き方を指図されない、という程度の自由を僕は求めている。

その僕なりの自由を得るためには「奴隷根性」を無くさなければならないと思っている。

 

人は誰しも奴隷なんかになりたくない。

これが一般論である。

しかしながら他方で、ある権威、例えば為政者や経営者、インテリ等に盲目的に従属することを快楽に感じる面があることは否定できない。

会社人間や社畜と呼ばれる人たちは会社に盲目的に従属し、自分の頭でモノを考えずに、会社が良しとする価値観を受け入れている。

別に会社人間や社畜ではなくとも、勤め人は大なり小なり奴隷根性を持ち、無自覚にその行動様式が規定されている。

勤め人に限らず、この世で生き生活している人たちの多くは奴隷根性を持ち合わせている。

思考停止に陥っているのにそれを自覚せず、「誰か」に決めて欲しいと願っている。

ヒーロー的な人物の登場を心待ちにしている。

自分自身は何もしたくない、けれど自分の都合の良いように物事を決めて欲しいと思っている。

道徳や常識は不変のものだと頑なに思っている。また、それらを他者に押し付けないと気が済まない。

 

支配者層は被支配者の持つ奴隷根性を意識させぬように様々な手立てー忠義・忠節・忠誠、常識、道徳、良識などの名を借りてーを用いてコントロールし奴隷根性を植えつけてきた。

僕たちも権威や権力に従順となり、幾ばくかのエサ(安定した生活等)を与えられ、満足している。

 

自由を追求し、権威や権力に抵抗する生き方を選択すると、様々な軋轢に遭遇する。為政者からの弾圧を受けずとも、普通に常識的に生きている大多数の人たちから排斥され、偏見に晒されることになる。

ただ単に自分の頭で考え、自分の意志を貫き、自分の足で歩み続けることだけで、変人奇人扱いされかねない。社会秩序を守るというお題目を掲げて、異端者を抹殺しようとする。社会秩序など仮初のものに過ぎず、時代とともに移ろう不確かなものに過ぎないのに、である。

 

僕は何の取柄もないごく平凡な人間である。

一生をかけても何事も為さず、この世から消え去るだけの存在である。

だからこそ、命あるうちは自由でありたい。

権威や権力に隷従などしたくない。

世間の常識や良識などに盲従したくない。

僕は生ある限り、自分の内にある「奴隷根性」を滅失させるという抵抗を続けていく。 

「正々堂々と戦え」という奴らに付き合う必要はないという件

「正々堂々としろ」というのは強者の論理である。強者に都合のよい物言いである。

圧倒的に優位な立場にある者が自分の優位性を保持し続けるための世迷言である。

 

正々堂々と戦うことが絶対的に正しいわけがない。

しかし、世間では策を弄したり、ゲリラ的な戦いをする者に対して冷たい視線を送ることが多い。

ずいぶん昔の話になるが高校時代の松井秀喜が甲子園で5連続敬遠されたときの相手チームに対するバッシングはひどいものだった。超高校級の松井との勝負を避けることは戦術の常道である。それに敬遠はルール違反でもない。高校生「らしく」しろだのスポーツマンシップに反するだのといった物言いは当事者を無視した妄言でしかない。

 

世の革命のほとんどは正々堂々と戦わない戦法を採ったからこそ成就したのである。カストロチェ・ゲバラキューバ革命毛沢東の革命等々、ゲリラ戦術を駆使して既存の権力を打倒したのである。

権力者側が革命勢力に正々堂々と戦え、と言ったならばできの悪い喜劇にしかならない。

 

僕は野球やアメフトが好きである。これらの競技は多少の戦力差を戦術によってひっくり返せるからである。相手の弱点やミスにつけ込んで勝利を手にできるという性質のスポーツだからこそ面白い。

また、僕は戦国武将では武田信玄毛利元就が好きである。両者とも「情報」を重視し、謀略・調略によって多くの戦に勝利し勢力を拡大させた名将である。正々堂々と正面から戦をすれば自軍に多大な損害を出すおそれがある。膨大なコストがかかり多大な犠牲を伴うのである。

情報戦や謀略は一見してきれいではない戦い方である。しかし、合理的な戦い方であり、勝つ可能性を高める戦い方である。

 

正々堂々と戦うことが絶対的に正しいという価値観が蔓延する社会は息苦しいものとなる。特に弱者にとっては生きづらい社会となる。正々堂々としろ、という価値観が大手を振ってまかり通る世の中は強者にとっては都合のよい社会となり、既存の社会システムの果実を享受し続けることになる。

 

ニートやひきこもりの人たちに対して「正々堂々」と世の中に立ち向かえ、という処方は最悪なものである。政府や一部の支援組織が行っている自立支援という名の愚策が機能しないのは当然である。

努力する環境にない、努力したくてもできない状況にあり、働くことができない人たちにまともに働け、働くことがまともな人間であるという狭量な価値観の押し付けは愚の骨頂である。

まともに働く必要はない、「ゲリラ」的な働き方をして生活費を稼ぐ方法はいくらでもあるとゆるい生き方を指南した方がよほど効果的である。

 

正々堂々と戦え、と言いたがる輩の顔を見るとアホ面に見えてしまうのは僕の偏見なのだろうか。いや、そうではない。本当に深く物事を考えることができない阿呆なのである。

正々堂々としろ、と言いたがる輩なぞ無視するに限る。

 

意識して作った人脈はほとんど役に立たないという件

僕が社労士事務所を営んでいたころに(10年以上前)「人脈つくり」ブームが巻き起こっていた。長期間不況が続き、それまでの社内で完結した人脈だけではどうにもならなくなってきていたのだろう。あちらこちらで異業種交流会が立ち上がり活況を呈していた。

僕も営業活動の一環として異業種交流会に積極的に参加していた。尤も仕事につながらなくても面白い人たちと知り合いになれれば、という思いの方が強かった。ひきこもり気味の今からは想像できないほど、当時の僕はアグレッシブだったのである。

 

数多くの異業種交流会に参加した結果はどうだったかというと、仕事に直接つながる出会いは少なかった。僕がチョイスした交流会がフリーランスの僕にマッチしていなかったのかもしれない。殆どの交流会では参加していた人たちの属性が起業志望の人(これらの人たちが起業するのは稀である)、営業職のサラリーマンが多数派でフリーランスや経営者は少数派であった。特に外資系の生命保険会社の営業職が多かったことを記憶している。

今から思えば異業種交流会というものは主宰者やその取り巻き連中のみにメリットがあり、参加者には大したメリットはない代物であった。交流会の界隈での「有名人」は規模の大きな会の主宰者たちだったが、大した人物は皆無だった。

 

結局僕の仕事につながった出会いが生まれたのは有名な大規模な異業種交流会ではなく、小さな勉強会であったり、小さなコミュニティであったり、変わったところでは劇団での共演者だったりした。その他では当時僕が講師をしていた職業訓練校の受講生経由の依頼が結構な数あった。

要するに意識して自分から人脈を作りに行ってそれなりに関係ができたとしても仕事にはつながらなかったが、人脈作りをあまり意識しないで参加したコミュニティ等で仕事が生まれたのである。

これが人脈作りの難しいところであり同時に面白いところである。

よくよく考えてみれば、「仕事をくれ」とギラギラした眼で人を物色している場で良い出会いが生まれるわけがない。そのような場では自分を「盛る」し相手を仕事につながるかどうかだけで値踏みする。

僕は幾つかの経営者の勉強会や昼食会等(それほど大きくない会)に参加したが、そこではビジネスの話というよりもどんな本を読んだかとか歴史の話とか時事問題とかの話が主で誰もがギラギラしていなかった。しかしながら、そのような場であるがゆえにビジネスが成立するということを目の当たりにした。このことに気づいてから異業種交流会から僕の足は遠のいた。

 

意識して作る人脈、ありていに言えば仕事をもらうための人脈作りはそのことだけを目的にしていれば徒労に終わることが多い。

僕がフリーランスをしているとき、その間どうにかこうにかやってこれたのは意外なところから仕事の依頼が来たことと、ちょくちょく紹介の事案があったことによる。

僕が再度なんらかの仕事をフリーランスで始めるときには過去の経験を活かしたいと思っている。仕事を取ることばかりに気を取られた人脈作りは自分の眼を曇らせてしまうということを忘れないでいたい。

会社に依存する生き方はとても危険だという件〈再掲〉

会社に雇われて働くという形がスタンダードになったのは最近の話である。会社に深くコミットした働き方や生き方にメリットがあるとされるのは経済成長を前提としている。経済成長はボーナス・ステージのようなものだ。このボーナス・ステージが終わった状況でこれまでの働き方を続けるのは無理がある。

 

初出 2016/4/19

 

会社中心主義的な社会システムは一見変化しているようで根っこの部分は変わっていない。

相変わらず正社員という働き方がスタンダードという体で政策が決定されている。世間の人たちも正社員だけが一人前の社会人だと見る風潮が残っている。

 

経済成長が果たされているときには一つの会社に「骨を埋める」働き方にも合理性があった。ベースアップと定期昇給があり、昇進・昇格とともにさらなる待遇アップが期待されていたからだ。転職は不利であり、定年までひとつの会社に勤めるという働き方がさも当然のように思われていた。

今となっては、いや経済成長期においてもひとつの組織に従属する生き方は実はリスクの高いものであった。多くのサラリーマンにとってある会社での職歴は普遍性を持たず、他の会社では使い物にならない。よほど専門性の高い仕事をしたという経歴がなければ、良い待遇での転職は不可能である。

 

ひとつの組織に「滅私奉公」することが善とされるイデオロギーは江戸時代の武士階級に広まったものである。戦国時代までは主君を乗り換えるということはざらにあった。ある主君が無能だとか、自分を取り立てそうにないことが自明となれば、後腐れなく主君を変えたのである。豊臣秀吉明智光秀が典型例であり、他にも有名な武将で主君をコロコロ変えた人物は沢山いる。徳川幕藩体制となり、体制の維持・安定化を図るために儒教、とくに朱子学イデオロギーを幕府は取り入れ、特有のシステムを形成したのである。

江戸時代に導入された滅私奉公というイデオロギーは究極の終身雇用である。しかも世襲が原則である。この江戸時代に形作られたメンタリティは現代にも脈々と受け継がれている。

 

現実的な話をしてみよう。

世のサラリーマンは新卒で入社したときから皆が皆滅私奉公をしようと思っていたわけではない。おそらく多くの人たちは自分の職務遂行能力を高めて良い条件で転職したり、起業したり、フリーランスになることを夢見ていたと思う。すすんで社畜や会社人間と揶揄されるようなサラリーマン根性にどっぷりと浸かった働き方や生き方を選択したわけではない。

しかし、サラリーマンの大多数は、いつしか会社という組織の論理に絡み取られ、身動きができなくなってしまったのである。

あるいは働き続けているうちに会社という組織に属して働くということはどこの会社でも大差ないと諦念したのかもしれない。

サラリーマンの悲劇は、会社人間的生き方をすること、ひとつの会社に骨を埋める生き方はリスクがあるぞ、と多くのサラリーマンは気付きながらも自分の身の振り方が分からないという点にある。

 

会社に依存しない働き方や生き方については様々な言説がなされている。自己啓発系の著書も数多く出版されている。

どの会社でも通用するスキルを身につけること、フリーで生きていけるだけの専門知識や経験を蓄積することなどが一般的な意見である。

言うは易しだが、いざ実行するとなるとなかなかにハードルは高い。

僕は精神論は大嫌いだが、結局は心構えの問題なのではないかと思う。

常に会社に依存しないぞ、という思いを強く持っておいて、いざというときに備えておく。いざ、というときになって必死になればいい。人はなかなか窮地に追い込まれるまでは動かないものである。尻に火が着かないと行動を起こせないものである。

僕はそれはそれで良いと思っている。前もってリスクに備えすぎると逆に身動きが取れなくなることもある。

リストラや倒産等の困難に直面したときに、必死に考え行動して活路を開くしかない。

 

会社に依存する生き方や働き方は危ないぞ、とそう強く思い続けることが未来を切り開く第一歩となる。

 

 

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