「正々堂々としろ」というのは強者の論理である。強者に都合のよい物言いである。
圧倒的に優位な立場にある者が自分の優位性を保持し続けるための世迷言である。
正々堂々と戦うことが絶対的に正しいわけがない。
しかし、世間では策を弄したり、ゲリラ的な戦いをする者に対して冷たい視線を送ることが多い。
ずいぶん昔の話になるが高校時代の松井秀喜が甲子園で5連続敬遠されたときの相手チームに対するバッシングはひどいものだった。超高校級の松井との勝負を避けることは戦術の常道である。それに敬遠はルール違反でもない。高校生「らしく」しろだのスポーツマンシップに反するだのといった物言いは当事者を無視した妄言でしかない。
世の革命のほとんどは正々堂々と戦わない戦法を採ったからこそ成就したのである。カストロやチェ・ゲバラのキューバ革命、毛沢東の革命等々、ゲリラ戦術を駆使して既存の権力を打倒したのである。
権力者側が革命勢力に正々堂々と戦え、と言ったならばできの悪い喜劇にしかならない。
僕は野球やアメフトが好きである。これらの競技は多少の戦力差を戦術によってひっくり返せるからである。相手の弱点やミスにつけ込んで勝利を手にできるという性質のスポーツだからこそ面白い。
また、僕は戦国武将では武田信玄と毛利元就が好きである。両者とも「情報」を重視し、謀略・調略によって多くの戦に勝利し勢力を拡大させた名将である。正々堂々と正面から戦をすれば自軍に多大な損害を出すおそれがある。膨大なコストがかかり多大な犠牲を伴うのである。
情報戦や謀略は一見してきれいではない戦い方である。しかし、合理的な戦い方であり、勝つ可能性を高める戦い方である。
正々堂々と戦うことが絶対的に正しいという価値観が蔓延する社会は息苦しいものとなる。特に弱者にとっては生きづらい社会となる。正々堂々としろ、という価値観が大手を振ってまかり通る世の中は強者にとっては都合のよい社会となり、既存の社会システムの果実を享受し続けることになる。
ニートやひきこもりの人たちに対して「正々堂々」と世の中に立ち向かえ、という処方は最悪なものである。政府や一部の支援組織が行っている自立支援という名の愚策が機能しないのは当然である。
努力する環境にない、努力したくてもできない状況にあり、働くことができない人たちにまともに働け、働くことがまともな人間であるという狭量な価値観の押し付けは愚の骨頂である。
まともに働く必要はない、「ゲリラ」的な働き方をして生活費を稼ぐ方法はいくらでもあるとゆるい生き方を指南した方がよほど効果的である。
正々堂々と戦え、と言いたがる輩の顔を見るとアホ面に見えてしまうのは僕の偏見なのだろうか。いや、そうではない。本当に深く物事を考えることができない阿呆なのである。
正々堂々としろ、と言いたがる輩なぞ無視するに限る。