希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

借金をすることは悪でも罪でもないという件

世間では借金をするという行為自体を忌み嫌う風潮がある。

例えば有名人が借金をしていて、しかも返済が滞っていることがバレればものすごいバッシングを受ける。ワイドショー番組では頭の悪そうなレポーターに根掘り葉掘り詮索されたりする。その有名人が自己破産でもしようものなら極悪人のような扱いを受ける。

借金をすること自体は他人にとやかく言われる筋合いのものではない。浪費やギャンブルに基づく借金はいかがなものかとは思うが、事業資金・開業資金のための借金や生活費が一時的に不足したときの借金は正当なものである。

 

以前のエントリーでもふれたが、金融機関からの借金と友人・知人や親族からの借金は一緒くたにして考えてはいけない。

金融機関からの借金は消費貸借契約に基づく商行為、ビジネスである。金融機関は借り手から利息を取り、借り手の属性をあれやこれや審査してカネを貸し出している。借り手が返済できなくなれば、当然に金融機関もリスクを取ってしかるべきものである。「借りたものは必ず返す」という道徳を持ち出しても意味はない。借り手が返済できなくなる可能性があるということを織り込み済みなのだから、「契約」に基づいて対処するしかないのである。

一方、友人・知人からの借金は貸し手の「好意」や「善意」、「信頼」によるものが多い。であるがゆえに、何としてでも返済すべき性質を持つ借金である。返済を怠ると貸し手との信頼関係が壊れてしまい、以後の借り手の生活に多大な支障が生ずるからである。

よく金融機関への返済をするために友人・知人から借金して穴埋めすることがあるがこれは絶対にしてはならない行為である。逆に友人・知人の借金の穴埋めのために金融機関から借りるのはありである。

金融機関からの借金を踏み倒しても金融機関の「信用」を失うだけであるが、友人・知人の借金を踏み倒せば信頼関係を損なってしまう。どちらが大切かは言うまでもない。

 

僕は借金はなるべくならしない方が良いし、もし借金をしたならば誠実に返済しなければならないと思っている。借金をすることやそれを踏み倒すことを推奨しているわけではない。

しかし、人は生きていくうえで予期せぬ出来事に遭遇するものだ。勤めている会社が倒産したり業績悪化で給料が減ったりするし自営していて売り上げが落ちることもある。病気をして働けなくなることもある。そういった不測の事態に陥ったときに借金をしたり、借金が返せなくなることも往々にしてある。

そういったときに命を削ったりしてまでも借金を返すことはない。友人に借りているのなら待ってもらい、金融機関の借金ならば法的手続き、つまり自己破産や個人再生という手段を用いるのも仕方がない。

 

仮に自己破産や個人再生をしても、5年から10年経てばローンを組むことができるようになる。クレジット会社や消費者金融は5年、銀行系は10年でローンが可能になる。クレジット会社や消費者金融会社が加盟する信用情報機関では5年、銀行系のそれは10年で自己破産等の情報が消えるからである。自己破産をすればその後一生ローンが組めないというのは嘘である。

 

僕は借金が原因で自殺をしたり犯罪行為を犯したりしている人たちを見聞きするととても胸が痛む。確かに多大な借金を背負うと精神に大きな負荷がかかることは事実である。自己嫌悪に陥ったり、自分の将来を悲観することもある。

よくよく考えてみるとよい。銀行や大企業、東電JALなどは天文学的な額の借金を負い、返せなくなると国家からの救済を受けて、何事もなかったかのように振る舞っている。エスタブリッシュメントに連なる強者は借金を踏み倒してもよくて、弱者である庶民は借金をすれば根こそぎ持っていかれる。モラルハザードを引き起こしている連中が庶民にモラルを強要するなんてできの悪い喜劇である。

 

借金をすることは悪いことではなく、罪に値することでもない。

故あって借金をしたときには、淡々と返していき、もし返済が困難になったらあらゆる手を使う。友人・知人との信頼関係を損なわないように努め、金融機関を相手にするならばドライに対処する。

カネの持つ底なしの魔力に憑りつかれないように留意しながら。

「未熟者」だからこそ何かを成し遂げることができるという件

僕が社会保険労務士事務所を開業したのは31歳のときだった。

独立することを反対する人たちが沢山いた。

「収入が安定しないしリスクが大きい」という理由と「まだ若すぎる」という理由が主なものだった。特に後者の若すぎるという理由がどうにも僕には解せなかった。確かに当時の社労士業界は開業者の平均年齢が60歳前後であって、若造の入り込む隙はないと言われていた。僕のような30歳そこそこの若造なんて未熟者扱いされていたのだ。

僕が社労士事務所を畳まざるを得なくなったのは年齢のせいではない。未熟者だったのは確かだが、そのせいではなく守りに入り、攻める意欲を喪失したからである。

 

企業社会において年功序列、年功制賃金がだんだんと無くなっているという話が流布し、一般論として実力主義能力主義に変わってきているという。そういった流れは確かにあるけれども、この社会では未だに「年の功」を重視する風潮がある。また、いつものことながら若者バッシングが繰り返し登場する。僕たちの世代は「新人類」と言われたことを覚えている。最近では「ゆとり世代」だとか「さとり世代」とラベリングしている。

 

「成熟した大人」が立派で社会を良き方向に導いているのか、と問えば答えはノーである。今の閉塞した状況を作りだした元凶はその成熟した大人たちの作為・不作為によるものである。

「成熟」とは言い換えれば、もうそれ以上の発展はない、保守的、変わることを恐れるメンタリティ等々と表現できる。「安定」を第一義とした価値観を頑なに守ろうとする頭でっかちの人たちである。

 

過去の歴史を見ても、大きな変革を成し遂げたのは未熟者と揶揄された人たちである。既成概念に囚われずにことを成し遂げるためには「成熟」は邪魔になるだけのものだったのである。ひとところに安住して良しとするメンタリティでは何も変えることはできないのだ。

 

成熟した立派な大人が経営する会社の不祥事が頻発し、衰退することを僕たちはずっと見続けている。

成熟した立派な大人の政治家たちが政治の名のもとに庶民を抑圧し続けている。

成熟した立派な大人たちが大小様々な組織を腐敗させている。

 

そもそも、人は生きている間は未熟者なのである。

人は常に不完全で常に未熟者なのである。

ちょっとくらい実績を積んだからといって、年齢を重ねたからといって、「成熟」したと「完全」になったと思い違いをしてはならないのだ。

また、自分を成熟した完全な大人だと思い込んで、いわゆる未熟者を切って捨てるという行為は愚行以外の何物でもない。

自分を成熟した人格者だと思い違いをして、未熟者の足を引っ張る行為をしても恥じない者はただの老害であり、即刻その場から退場すべき者である。

 

僕は死ぬまでずっと未熟者でありたいし、その心構えを常に持ち続けたい。

僕には「成熟」なんて不要である。

そう、僕がいつまでたっても「大人」になり切れない言い訳に過ぎないのだけれとも。

仕事を最優先することが当然のことなのか、という件

僕はこのブログで仕事は人生の一部に過ぎないと何度も主張してきた。僕にとっては人生=仕事という考え方はどうしても受け入れがたいものなのだ。

とは言え、生活を成り立たせるため、社会とのつながりを保つためにも何らかの形で仕事をしなければならない。仕事によって得られるものはカネだけではない、と分かっているつもりだ。

 

問題は仕事の優先順位をどこに置くかである。

プライヴェートとの兼ね合いをどうするかということだ。昔は「親の死に目にも会えない」ほどに自分の仕事を優先することが称賛されていた。配偶者や子どもが病気であろうと子どもの学校行事があろうと、そんなことはあくまで私用であって仕事の方を優先すべきだとのコンセンサスがあった。今はそのような考え方は緩んでいるように感じられるが、僕が社会人になった頃は仕事を最優先すべきだとの考え方は随所に生きていた。

あるときに僕は有給休暇を取ってガールフレンドとデートをしたのだけれども、運悪く二人でいるところを同僚に見つかって気まずい思いをしたことがある。この「気まずい思い」をすること自体僕が仕事最優先の考えに毒されていたことを表している。

この国では未だに有給休暇の取得率が低い理由は、仕事最優先主義的な考え方が根強く残っているからだといえる。

 

僕は今はこの仕事最優先主義的なものの考え方を取っていない。私用と同じ程度に見ているかあるいは私用を優先することもある。

雇われて働いている場合、自分ひとりが休んでも会社の業務に大した支障は起きないものである。社員ひとりが休んだくらいで業務に支障が出るような会社はマネジメントがなっていないだけの話である。休んだ社員に責任はなくて、経営者や上司に責任がある。

 

仕事最優先主義の考え方はサラリーマンに甘えを植え付けることにもなる。仕事さえしていれば他のことはどうでもいいという甘えだ。家庭のことや社会の様々な問題から目を背けてそれで事足れりとする「社畜」「会社人間」と呼ばれるサラリーマン根性の塊と化すのだ。このことはサラリーマンには限らない。フリーランスや職人的な仕事をしている人にも当てはまる。「仕事一筋○○年」なんて人たちが世の賞賛を集めることがあるけれども、僕からすれば「仕事しか」してこなかった極端に偏った人にしか見えない。仕事にのみ注力していれば人間的にも成長するなんて単なる幻想である。

 

仕事を最優先することが当たり前だと考えている人たちがどれほどの多数派なのかは分からない(少数派ではないことは確かだ)。

僕は仕事を最優先すると信じている人たち、あるいはそうせざるを得ない人たちを否定する気はさらさらない。労働を神聖視したり仕事が人生の最重要事だとの考えは資本主義体制が存続・発展するためにはなくてはならないものだからだ。

しかしながら、僕はこのイデオロギーに抗いたい。

仕事は確かに重要視すべきものだけれども、大切なものは他にいくつもあるはずだと、僕は信じている。

 

雑多な人たちがいる集団に身を置く経験が大切だという件〈再掲〉

均質的な集団にずっとい続けることは危険である。

多様な生き方や価値観を認めることができない人間になる危険性がある。

多種多様な人たちと出会い、触れ合うことによって人は成長する。

 

初出 2016/4/12

 

当たり前の話だがこの社会には様々な個性・経歴を持った人たちが生きている。イデオロギーや信条も異なれば、国籍や民族、言語も異なる雑多な人たちが渾然一体となって社会を形作っている。

この国のバカな政治家が「単一民族」という幻想を振りまくことがあるが、この国は見えにくいけれども他民族国家である。ただし、非常に均質化されていることも確かである。

 

国家や社会という大きな括りではなく、中間社会(地域コミュニティ、学校、会社等)という括りで見れば、僕たちは意外と均質化された集団に属している。

かつては地域コミュニティにしても公立小中学校にしても実にさまざまな人・生徒が雑じり合っていた。よく似た人たちが集う会社にしても時たま毛色の違う社員がいたりしてそれはそれで面白かった。

下町文化や山の手文化といったものが薄れ、均質的な住宅地、ニュータウンが増えると、そこの住民の子弟が通う公立小中学校も均質化する。似たような文化資本を有し、経済資本も大差ない集団が形成される。

 

僕は小中学校は地元の公立校に通ったのだけれども、そこでは雑多な生徒がクラスを形作っていた。金持ちの子どももいれば、今から振り返ると生活保護を受けている家庭の子どもがいたし、児童養護施設から通っている子どももいた。

今でもよく覚えている光景がある。

それは給食費のことである。当時は生徒が紙袋に給食費を入れて先生に提出する方式だった。クラスの中の数人は50円から100円程度の低額の給食費だった。無料の子どももいたかもしれない。その低額の給食費を払う子どもは他の子どもに茶化されたり、馬鹿にされたりしていたのだ。今にして思えば彼ら彼女らは生活保護を受給していたか就学援助を受けていたのだろう。子どもというのはとても残酷な生き物であって、彼らを「貧乏人」といった類の悪口を言って囃し立てていたのである。いじめの一歩手前である。僕の記憶は確かではないが、それらの出来事は小学校の低学年の頃だったと思う。

私立の学校でも勉強ができる子とできない子、運動が得意な子と苦手な子、身体が丈夫な子と弱い子などの差異はあるけれども、公立学校ではそれらに加えて家庭環境の「格差」が顕著であった。僕の友だちにも豪邸に住んでいる子もいれば、長屋に住んでいる子もいた。

僕は公立の小中学校でまさに雑多な子供たちが集う中で育ってきた経験がとても意義があったように思う。世の中には色々な人がいて、育った環境や価値観が異なる人たちがいることを身をもって体験することができたのである。

 

均質化された集団にずっと身を置くと、その集団での価値観に殉ずるようになってくる。ものの見方が偏ってくるおそれがある。

典型的なものはひとつの会社に身を置き、その会社のもつ風土や価値観に絡め取られてしまうことだ。あるいは会社という組織そのものに順応しすぎて、会社人間や社畜と称される多様な価値観が認められない状態になることである。

 

この社会は雑多な多種多様な人たちがともに関わりあって生きていくことに面白みがありダイナミズムがある。

僕の考えすぎかもしれないが、昨今は社会全体、国家レベルで均質化に向かっている傾向にあるように思えてならない。

もし、本当にそうだとするととても恐ろしいことだし、またとても下らなく面白くないことである。

世の中にはものの見方や考え方、生まれ育った環境が違う人たちがいる、という至極当たり前のことを僕たちは忘れがちである。

多様性を失った社会はとても生きづらい社会になる。

 

  

忙しさを自慢する奴は大したことない人間だという件

僕が公務員をしているとき、社会保険労務士事務所を営んでいるときに僕の周囲には「忙しい~」と年がら年中言っている人たちがいた。

公務員時代に出会った忙しい自慢をしている人たちは勝手にしなくてもいいような仕事を次から次へと作り、100時間を超える残業をして悦に入っているような人たちであった。

社労士時代に出会った忙しい人たちはなぜだか業績の良い会社の経営者は皆無であって、サラリーマンや売れていないフリーランスが多かったと記憶している。

 

何度もこのブログに書いているが、僕は「貧乏ヒマあり」状態がこのところずっと続いている。理想は「そこそこ小金があってヒマあり」なのだけれども、なかなかそういう境遇には至らない。まあ、カネがあって忙しいなんてことは死ぬほど嫌なのでビンボーヒマあり状態でもまあいいか、と諦めている。

忙しい、はー忙しい、と誰彼なく言うなんてことは末代までの恥だと思っている僕からすると忙しい自慢をする人たちが全く理解できない。

 

かくいう僕も一時期傍から見ると忙しい人に分類されるような状況だったことがある。社労士事務所を自営していてそこそこ依頼があり、専門学校の講師をし、劇団に所属して役者らしきことをしていたときのことだ。

その頃はおそらく「活動期」に入っていて、脳内がアッパー系の物質に満たされていたのだろう。今とは比べ物にならないほどに多忙だったけれども、人に忙しいなんて言ったことはなかった。自分のやっている仕事や活動の内容とか質とかが重要なのであって、物理的に時間を費やしている、つまり忙しいかどうかなんて問題ではない、と思っていたのだ。まあ、嫌みな奴だ。

 

どうしてある一群の人たちは忙しいことを自慢しそんな自分に陶酔してしまうのだろうか。

全くの個人的な見解であり憶測でしかないのだけれども、僕はこう考える。

忙しいことを他者に誇示することで「俺はこんなに忙しい立派な人間なのだぞ」と常に思っておかないと不安になる、自分の存在意義を「忙しい自分はすごい」というところに置いているだけなのである。自分が何を為したか、何を為そうとしているのかはどうでもよく、ただ忙しく立ち回ることで他者との差異化を図ろうとしている。ただいつも忙しそうにしているだけの人たちが仕事をよくやっているという評価が与えられがちな風潮が未だに残っていることが忙しい自慢の人を蔓延らせているのである。

 

世間ではいつもヒマそうにしている人に対してはネガティブな評価しかしない。いつも忙しそうにこまめに動いている人が好ましいとされる。これは勤勉至上主義的イデオロギーが影響している。常にいそいそと労働に励むような人たちが「良民」なのである。支配者層が好む人民像である、今も昔も。

 

僕の全くの独断と偏見であるが、忙しい自慢をする人はおしなべて大したことはない人だと思っている。また、忙しさを自慢することはあまり品のよろしくない行為であるとも思っている。

典型的なヒマ人である僕が言っても根拠とか重みとかは全然ないけれども。

忙しさを誇示しないこと、いつもヒマそうにすること、これらは僕の美意識である。世間からズレた生き方をしている者の矜持である。

 

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