希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

様々な働き方がある、と知っているだけで気が楽になるという件

普通「働く」という言葉を聞くとどこかの会社や役所に雇われてそこで仕事をする、というようにとらえることが多い。

元来は働くこと=雇われるではないのだけれども、資本主義が発達して工業社会になったことによってこの考え方が人口に膾炙するようになったのだ。大多数の人たちは自分で何らかの生業を持ち自律的な働き方をしていたのが会社・大工場に雇われる労働者として働くようになったのである。

 

現在のこの社会に生きる人たちは生まれた時から発達した資本主義社会、高度消費社会の下で生きている。基本的なものの考え方は資本主義体制に適応したものになっている。

学校を卒業すればどこかの会社や役所等の組織に雇われて働くことが当たり前だと思い込んでいるのである。そしてその雇われた会社になじんで、そこで高い評価を得て出世することが真っ当な社会人であると思い込まされている。もしも会社で低い評価しか得られないとしたならば、その人は社会人失格、ひどい場合には人として劣っているという烙印を押されることになる。

 

会社での評価が即自分の人としての評価だと思い込むと、とても生きづらくなる。また、会社等の組織に雇われる働き方しかないと狭く考えてしまうと、組織になじめない人たちは行き場を失くしてしまうことになる。

会社に雇われる働き方なんて、数多ある働き方の内のひとつに過ぎないのだ、と大ざっぱに考えた方が良い。組織で雇われて働くことが苦にならない人はその働き方を続ければよいし、どうも息苦しいと感じる人は別の形で働けばよい、ただそれだけのことである。

 

高校や大学でのキャリア教育は「雇われて働く」形の働き方に主軸を置いたものとなっている。確かに雇われて働く人たちが多数派であることに間違いはないが、少数派の雇われて働きたくない人たちのことにも留意する必要がある。雇われて働くのが嫌なら、起業せよというのも短絡的に過ぎる。

もっとゆるく考えて、生活を成り立たせるためのカネは公序良俗に反したり違法行為でなければ、どのような手段を用いて稼いでもそれはありなのである。

 

巷ではフリーランスや自営は不安定だと言われている。社会的信用もないのが現実である。しかしひとつの会社にぶらさがってそこでのサラリーのみに頼っている生活の方が危なっかしいと僕は思う。一見安定しているようで、実はとてもリスクが高いのである。

このような考え方をする人たちが結構存在していて、例えば「ナリワイ」を持つ生き方だとか、「月3万円ビジネス」を複数持つ働き方だとか「週末起業」などといったひとつの会社からのサラリーだけに頼らない生き方が色々と提案されている。このことはとても良い傾向だと思う。

 

今勤めている会社を辞めることには二の足を踏むのならば副業を始めても良い。ひとつの仕事で生活費を賄うことが難しいのならば、仕事を複数持てば良い。例えば週に2,3日はどこかに雇われて、残りはフリーランスとして仕事をする、という働き方も結構面白い。すべての仕事を会社勤めにするとかフリーランスにするとか、二者択一的に白黒はっきりさせることなどないのである。

 

働き方が色々あって、どのような働き方を選ぶかは自由であって、しかも働き方の組み合わせができるとゆるく考えることができればとても気が楽になる。既成概念にとらわれることなどない。

生き延びる術を自分なりに考え、選択していくことは実は楽しくて面白いものである。

 

 

 

「物乞い」をしている人たちを殆ど見かけなくなった件

僕は歴史に興味がありその関係の本をよく読んでいる。特に被差別民、遍歴・漂泊していた人々に関心が深く、「非人」等について書かれた著書を好んでいる。

そこで時々ふと思うのだけれども、最近街中に物乞いをしている人がいなくなったことが妙に気になるのである。この国が豊かな証拠だと言われればそれまでだけど、相変わらずホームレスは存在している。ホームレスの人たちは日雇い仕事をしたり、アルミ缶集めをしたりして「働いている」人が多い。

 

僕が物乞い・乞食らしき人を見かけたのは20年近く前に当時住んでいた所の近くにあった商店街で「傷痍軍人」の格好をした物乞いを見たのが最後だ。「傷痍軍人」とは大東亜戦争で負傷しあるいは障害を負って復員した人たちで、その一部が白装束に身をまとい、楽器を演奏したりしながら物乞いをしていたのである。いわば当時の街の風物詩的なものであった。時代を経て傷痍軍人たちは姿を消していった。

 

今もインドやアジアの国々では街には物乞いがいると見聞きする。

実はこの国でも物乞いはひとつの「職業」だったのである。江戸時代には非人頭が統率していて、それぞれの持ち場があり、物乞いをして得た稼ぎは上納されていたのだ。いわば社会システム・経済システムの一部として物乞いは組み込まれていた。

 

今のこの国では物乞いは経済システムの外部にあり、物乞いをする人たち自体が激減している。

物乞いをしてもおかしくないホームレスの人たちは物乞いに走らずに別の仕事を求めている。物乞いをするのは余程切羽詰った人、例えば身体の自由が利かないうえに生活保護を拒んでいるような人たちであると推測される。この国のホームレスの人たちの殆どは物乞いに「堕ちる」よりも低賃金労働を選んでいるわけである。

 

仏教圏の国々では「喜捨」という考え方がある。キリスト教においても恵まれない人に対する寄付が尊ばれる。持つ者が持たざる者に対して「施し」をするのはひとつの文化であるといえる。

 

近代以降の人権思想下ではこの「施し」の概念は唾棄すべきものとされている。生活困窮者等の生活保障は基本的人権だと理解されている。つまり政府からの「施し」ではなく、当然に享受する権利だと言う考え方である。この考え方に全く異論はない。

しかしながら、持たざる者たちへの施し、喜捨の概念は大切なのではないかと思う。施しという言葉が悪ければ「贈与」とすればよい。

 

別にホームレスに限らず、ビンボー人に対して持てる人が自分が不用になったモノ、あるいはちょっとしたおカネをあげる行為が当たり前になれば面白いと思う。そういうネットワークがもっと広範に構築されたらとても楽しいし、面白くなる。一部でこのような動きがあるが、もっとメジャーになればいいと僕は思っている。

 

人にモノやおカネをあげる行為は、相手を下に見ない限りにおいて、素敵なことである。

誰かにおカネやモノをもらうことは別に恥じる行為ではない。堂々ともらって、有効活用すればよい。そうすればあげた方もとても嬉しいはずだ。

 

物乞いを卑しいもの、恥ずべきもの、という型に嵌った固定概念、偏狭な価値観を覆してもよいと僕は思っている。

カネ至上主義にも良い面があるという件

「世の中何でもかんでもカネだ」と嘆く人は多い。カネで買えないものはないと放言した人もいた。

資本主義体制では何だかんだ言ってもカネを多く稼いだ者が偉いのである。カネの多寡で人の価値を決めるのである。ある意味このことはフェアなのかもしれない。氏素性や育ちや家柄等の属性で決めるよりも健全である。

 

僕は悲しいほどにカネを稼ぐ能力に欠けている。フリーランスという働き方を長年していたが、成功には至らなかった。サラリーマンには絶望的に向いていない。このように考えていくと僕は人生が「詰んでいる」と周囲からはみなされるかもしれない。

しかしながら、僕は露ほどにもそうは思っていない。確かに大金持ちにはなれないかもしれないが、日々の生活を送るための糧を得る手立てはいくらでもある。

それは何でもかんでもカネになるこの世の中ではカネを稼ぐ方法が多様化しているので、別に会社に飼われなくてもいいし、「大きく」起業しなくてもいい、つまり生活に必要なカネならば何とかなるということだ。

一見アウトサイダー的な生き方をしていても何らかの方法でカネを稼ぐことができるのである。

 

ネットを媒介として小さなビジネスをすることができるようになっている。自分の持つ知識やスキルを活かして小さくビジネスをすることも可能だ。塩見直紀さんの提唱する「半農半X」的な働き方でもいいし、伊藤洋志さんが言う「ナリワイ」でもいい。アフィリエイトでもせどりでもいい。ネットオークションでもいい。確かにこれらの稼ぎ方は世間でいう「真っ当」な稼ぎ方ではないかもしれない。会社に心身とも捕らわれたサラリーマンからすれば噴飯ものかもしれない。

汗水垂らして働いて稼いだカネは尊く、小手先で得たカネは泡銭で汚いという考え方は労働至上主義に毒された者の一方的で偏った見方に過ぎない。無理をせずに自分の好きなようにカネを得る手立てがある、ということを心の片隅に意識していればいざという時に力になる。

 

フリーターやニートの人たち、転職ができない中高年の人たちは発想の転換をしてみてもよい。ひとつの会社に正社員として勤め、すべてをその給料で賄うことに執着していては詰んでくる。正社員として働くことが薔薇色の未来を約している訳ではない。派遣やパートで働きながらナリワイ的な仕事もする。あるいは複数のナリワイ的な仕事を持つ。稼ぎ方に働き方に「正しい」ものなんてない。反社会的な違法行為でなければ何でもカネにしてもいいのである。発達した資本主義体制の世の中、何でもカネになる世の中では「何でもアリ」なのである。このカネを得る手立ては何でもアリということを利用しない手はない。生活レベルを下げなければないとか社会的地位が失われて世間体が悪いといった副作用があるが、無駄なプライドを捨てればどうってことはない。

 

カネは楽しく儲けて、楽しく使うものである、という考え方が異端視されなくなれば、とても生きやすい世の中になる。

所詮はカネ儲け、肩肘張ることはない。

 

 

 

 

「逃げ道」を用意しておくことは絶対に必要である件

人生において克服が困難な出来事に遭遇することがある。仕事に行き詰ったり、愛する者を失ったりすると生きていくことが辛く感じることがある。

壁にぶち当たったときには、その壁を打ち壊し正面突破の方法で克服することが賞賛される。

現に困難にぶつかった時の指南書が多く出され、その内の多くは困難から逃げずに、全身全霊を傾けて克服することが説かれている。

 

確かに壁を正面から崩して突破するのは爽快である。そのことを賞賛する気持ちも分かる。

しかしながら、時と場合によっては壁を遠回りしたり、誰かが壊すのを待ってみたり、壁をやり過ごしたりすることも大切なのではないだろうか。

 

つまり何らかの「逃げ道」を用意することが有効な場合が多いということである。

 

学校や職場でのいじめを例にとってみよう。

いじめはいじめる側に問題がある。個人の資質として、他者を苛めることによって快感を得るような人間が残念ながら一定数存在する。またいじめを生む土壌が組織にあることもあり、この場合は個人としてはごく普通の人が立場や役職等によっていじめる側に回ることもある。

さらには学校におけるいじめは極めて強い同調圧力によって引き起こされている。少しでも異端な人(個性が強い人)を排除しようとするのだ。

よくいじめられる側にも問題があるという人がいるが、これは強者あるいはマジョリティの傲慢な理論である。

いじめられやすい人の特質として、自己主張をしない人・不器用な人・内向的な人・コミュニケーションが上手くない人等が挙げられるが、これらはその人の立派な個性である。その個性を無視して、組織の論理に従わせて解決しようとする方法では無意味である。

 

おそらく学校や職場等の組織でのいじめはなくならない。これが現実である。

小手先の解決策ではいじめの問題は無くならない。

いじめられて行き詰った人たちには、逃げ道を用意しておいて、一時逃げてもその後の人生に不利益にならないようにすることが有効な手立てだと僕は考える。時には不登校や出社拒否・転職という選択肢があり、そのことによって必ずしも不利益にならないと知っておくことが大切だ。

属する組織が変わっていきいきと生まれ変わるケースも枚挙に暇がない。極端な話、ひととき組織そのものから全く離れるという手もある。

生きてさえいれば浮かぶ瀬もある。追い詰められて自殺に至ったり、心身を壊すよりもよっぽどましである。

 

「学校教」や「会社教」のマインドコントロールから自由になると、また違った面白い生き方が見つかることもある。

 

人生において「逃げ道」を用意しておくことは決して悪いことではない。

「逃げるが勝ち」という先人のありがたい格言もある。

本当に優秀な武将や軍のリーダーとは撤退戦、つまり逃げるのが上手い人のことだった。

 

人生の「逃げ道」があるとそこに余裕が生まれ、柔軟な生き方ができるようになる。

 

 

 

 

 

   

「労働」は「麻薬」のようなものである件〈再掲〉

僕は雇われて働くことが嫌だ。勤労意欲の低い人間である。

こんな僕でも仕事をやり遂げた後の充実感を得たことが何度もある。

どうやら「労働」には人を狂わす何かが内在しているようだ。

 

初出 2016/1/18

 

労働(特に雇われて働く)の本質は、労働者が自分の時間とスキルを会社に提供し、その対価として賃金を得るものだ。労働契約に基づいた契約関係に過ぎない。会社の利益追求のための道具・駒に過ぎない。労働者は常に搾取され、再生産に要する費用として賃金が支払われている、つまり「生かさぬよう殺さぬよう」に会社にいいように使われている存在である。

僕はこれらのことをこのブログで主張し続けてきた。一見マルクス主義的な色合いを持っているが、僕はマルキスト・左翼ではない。労働特に賃労働の本質を考えていくとどうしてもこれらのような結論に落ち着くのである。

 

とすると、労働とは搾取され放題で会社の意のままにコントロールされ、苦痛ばかりが伴う虚しい行為となる。

ところがそんなに単純なものではない。

これまでに述べてきた労働の本質はそのひとつに過ぎないのだ。

 

労働が苦痛ばかりを伴うものならば、資本主義体制は崩壊するし、経済成長は望めない。

一見単調で苦痛と思われる労働にも喜びや楽しみが内在しているのである。

僕も経験したことだし、恐らく殆どの労働者もそうであろうがある仕事を成し遂げたときには達成感を得ることがある。それがたとえ単純作業的な仕事であってもである。特にグループである課題を達成したときの高揚感は言葉では言い表せない快感である。同僚や上司と協働して仕事をやり遂げることは労働の醍醐味であるとさえいえる。

 

つまり、労働の本質には「苦痛」と「快楽」が同居しているのだ。決してカネ(賃金)のためだけに働いているのではない。人と人とのつながりが得られるからやりがいが生まれるのである。

労働は麻薬のようなものである。

快楽も禁断症状もあり、心身を壊すこともある。

頭の良い経営者は労働に内在する「快楽」に着目し、それを上手くコントロールすることによって労働者のモチベーションを高めて利益の増大を図る。名経営者と呼ばれる人たちはこのコントロール技術が卓越していたのである。

 

僕は雇われて働くことがイヤだと広言している。こんな僕でも働きたくなることがある。カネが無くなったという理由もあるが、それだけではなく、働くという行為によって「何か」を得たいという思いがあるからだ。労働に内在する麻薬性の虜になっているのである。禁断症状が出ているのである。

はっきりとした確証は無いが、「労働至上主義」的なイデオロギーは労働の麻薬性と関係があるのかもしれない。

 

労働が麻薬のようなものであるのならば、なかなかに厄介なものである。

完全に労働を忌避することが難しいのもうなずける。人と労働とは切っても切れない関係となる。

 

僕が労働を客体化する視点を持ち続けるためには、労働が麻薬であるとの意識を常に持ち、その常習性や禁断症状に飲み込まれないように注意を払うしかない。

労働という麻薬の常習犯にならないよう、僕は抗い続ける。

 

  

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