授業をサボったり、仕事をサボることには背徳感がつきまとう。
たかだかサボるだけのことなのに、なぜ後ろめたさを感じるのだろうか。
僕たちは幼少の頃からサボらないこと、真面目であることを強要される。
この同調圧力から少しでも逃れるためにはたまにサボるしかないように思う。
初出 2017/7/20
学校生活においても社会に出て働いていても、サボることはいけないことだという意識を刷り込まれる。
時にはサボることは人としてなっていないと人格攻撃にさらされることもある。
労働至上主義的あるいは勤勉至上主義的イデオロギーが蔓延している社会でサボることは罪なのである。
学校や会社をサボることは本当に悪いことなのか。
ある人曰く、決められたこと(登校や出勤)を守れないような人間は信用されない。
ある人曰く、サボることで他人に迷惑をかけてはいけない。
またある人曰く、サボり癖の付いた人は何をやってもダメだと。
どれもこれも尤もらしい物言いではある。
でも、なんとなく「強者」の論理が勝っているような気がする。
サボるという行為は予め決められた物事に対して抵抗すること、あるいはそんなに大層なものではなくても変わり映えのしないつまらない日常をちょっとだけ壊してみたいという欲望の表れである。
サボることは悪いことではない。
サボることを放っておいたら不都合な一部の人たちが「サボること=悪」という「常識」らしきものを世に広めて、自分たちの既得権を手放したくないだけなのである。
僕は自慢じゃないけれどもサボり癖が身に染み込んでいる。
それが顕在化したのは高校生の時である。
僕が通っていた高校は当時「生活指導」といった類のものが全くなかった。生徒の自主性を重んじるという建前の放任主義だったのだ。
だから授業はサボり放題だった。
だから僕を含めた一部の生徒たちは嫌な授業やつまらない授業をサボって校外に出る、といった「悪さ」をしていた。
僕が通っていた高校はお城の真横にあるというロケーションだった。その城にあるお堀にあった遊歩道は絶好のサボり場だった。僕は一人なら文庫本をベンチに座って読み耽り、友人・知人と一緒になったりすればたわいもない話をして時を過ごした。サボる生徒を監視するために見回りをするなんて先生は一人もいなかった。
この時の経験が後のダメ人間であり、サボり癖のついた僕という人間を形作ったのである。
僕は働きだしてからもちょくちょく仕事をサボった。
僕はつくづく思った。年次有給休暇という制度は本当にいいものだと。有給を取りさえすれば、大手を振って仕事をサボることができる。こんな素晴らしい制度を勝ち取った先人たちに感謝し尊敬の念を抱いた(当時はそんなことまで思わなかったけど、後になってそう思うようになった)。
この国の労働者の有給休暇の消化率が低いことはよく知られている。なかなか仕事をサボれない状況は良いことではないな、と僕は思う。
会社や学校をサボることには背徳感がつきまとう。
みんなが勉強をし、仕事をしているときに自分だけがそれらから逃れて楽しんでいる、ということにある種の疚しさがある。その疚しさに耐えられない人はサボることができず、勤勉な学生・労働者となる。学校当局や会社の経営層はその疚しさを増幅させるために「サボること=悪」というイデオロギーを刷り込もうとするのである。
学校や会社をサボることの背徳感は同時に快感を僕たちにもたらすことになる。
仕事や勉強をサボるのは実に楽しいことなのである。
この快楽を僕たちから奪って、進学実績や就職実績、会社の業績等を上げようと学校や会社はあれやこれやの手を打ってくる。
サボる人には内申書や人事考課の評価点を下げる、といって脅しをかけてくる。多くの人たちはその脅しに屈してサボることをやめて勤勉な学生や労働者となる。
僕は何もサボっても人事考課の点を減じるな、と言いたいわけではない。どんどん減点すればよい。勤勉だけが取り柄の均質化された社員を大量生産すればいい。その結果、その会社がどうなるかは預かり存ぜぬことである。
僕の全くな個人的な考えなのだけれども、サボることの快楽を知りその大切さを知っている人こそが何か新しいものを生み出せると思っている。
サボり癖が染み付いたダメ人間である僕の戯言だと思われても、である。