僕はかつては能力主義の信奉者だった。
顧問先の会社に能力主義的な人事制度や給与制度を提案し構築したこともある。
コネや情実などは前時代的な遺物であり、「公明正大」な能力主義こそがあるべき姿だと思い込んでいたのだ。
僕は今でも能力主義の処遇が全く駄目だとは思ってはいない。
上司のヒキや学閥、家柄なんかで人を処遇するよりは余程マシだと思っている。
でもよくよく考えてみると純粋に100%人を「能力」で測ることなんてできるのだろうか、という疑問が湧いてくる。
仕事の能力を図る度量衡なんてあってないようなものである。
人事が客観的で公正に行われている会社なんてほぼない。
また、サラリーマン諸氏は人事が公正でないからこそ報われない境遇に耐えられるのである。つまり自分は能力がないわけではない、仕事はできるのにたまたま上司に恵まれていなかったからだとか有力な派閥に属していないからといった言い訳をして自分を慰めて精神のバランスを保つことができるのである。
サラリーマンの多くは自分は仕事が出来るはずである、能力が高いはずである、という幻想を抱いていないととてもサラリーマンなんて続けることはできない。
だから完璧な能力主義人事なんてあってはならないものなのである。それは自分の言い訳がきかなくなるからだ。
なぜ多くの会社で能力主義人事制度、成果主義が失敗したのかというと、人件費削減の意図が前面に出すぎたということもあるが、社員の「言い訳」が立つべき領域を封印したからである。ある社員が出世できない昇格・昇進できないのは歴然たる「能力」によるものだとしてしまったからである。
元々この国の会社の人事制度やそれに基づく処遇は曖昧な部分が多くて裁量の余地が大きいものであった。職務遂行能力や潜在能力も評価の対象であったけれども、それらがすべてではなかったのである。それゆえに「不公平な」処遇があちらこちらで頻発しても、社員の不平不満が渦巻いても、組織の崩壊が起こることなく、あるいは割とスムーズに組織運営ができていた。サラリーマンたちは人事の不満が溜まっても、何となく納得し会社に居続けることができたのである。
曖昧な評価制度ではたとえ低い評価を受けてよい処遇が得られなくても、それは「たまたま」であって、自分というものを否定されるという意識は生まれなかったといえる。
しかし、ガチガチの能力主義的な評価になると、一旦低い評価がされてしまうと自分が全人格的否定をされたという意識が生じるおそれがある。単に相対的に仕事が出来ないということではなく、絶対的に能力が劣った者という烙印を押されることになるのである。
元々多くの仕事に関する「能力」なんて数値化できないものである。
人が人の能力を測ること、人が人を選別することなんて傲慢で神をも恐れぬ所業である、と僕は思っている。
能力主義なんて幻想であり、フィクションに過ぎない、と世のサラリーマン諸氏は開き直って日々の面白くもない仕事に勤しみ、仕事以外の領域で楽しさを求める生き方を模索してみてもいいのでは、とアウトサイダーである僕は老婆心ながらそう思ってしまう。