僕は平等主義者ではない。
機会の平等がきちんとなされた上での、能力による差別は仕方がないと考えている。
ただし、現実は「生まれ」によってスタートラインに差がついている。この差別は許されるものではないと思っている。
初出 2014/12/23
僕はたびたびこのブログで貧困問題やフリーター、ニート、非正規雇用の問題について言及している。そのために僕が平等主義者であり、競争を否定しているかの誤解を招いているかもしれない。
僕は公正で機会の平等が担保されているという前提で能力主義、メリトクラシーを是としている。同時に公正な条件下での競争は必要不可欠であるという立場を採っている。
ある人の人生が「生まれ」「家柄」等で決められるのは理不尽であるし、親の資産の多寡で生き方が決められるのはおかしいと思っている。
また、何らかの理由で競争社会から脱落した人たちに対しては生活保障のためのセーフティネットを充実させるべきだとも思っている。働けない状況に陥った人たちには生活保障と再度働けるようになるための手厚い支援が絶対に必要だと思っている。
この社会が本当に「能力主義」かは疑問が残るところである。
会社や役所の処遇方法、つまり人事考課が客観的で公正だと考えている人は少ないと思う。ある人が実際にあげている成果や職務遂行能力をきちんと評価しているか、あるいはそれらを公正に評価するシステムが形成されているとは思えない。
人事権者の好き嫌いで決める、あるいは「派閥」の力学を主眼に置いたり主観的な評価(意欲や勤務態度等)に終始していないだろうか。
殆どの会社や役所では「仕事基準」の評価をせずに「人」基準、つまり属人的な評価をしている。人事考課によって決定される賃金も属人的なものになっている。かつて主流だった「職能給」がそうだったし、この職能給が年功賃金・終身雇用という日本的処遇を決定付けたのである。
近年導入されている様々な成果給システムは完全な能力主義だとは言い難い。
会社の人事考課・賃金制度での「能力」は「職務」を現にどれほど遂行する能力があるかで測られるものである。人格や性格などは関係ない。
その会社での能力だけを見るものであって、その人の人間性の高さや低さを決めるものではない。
僕が能力主義者である所以は、あるテリトリーで客観的に決められた基準で測られる「能力」によってそのテリトリー下での処遇が決まることが合理的だからである。
例えば有名企業の部長であることはその会社内での基準で「能力」があると認められただけで、別にその人が人間的に優れているわけでもなく、絶対的に能力があるわけではない。その会社を辞めてしまえば、チャラになる。有名企業の元部長だからといってその人が偉いわけではない。ただ単にその会社に「嵌まった」だけのことである。それが「能力主義」のものではなく、従前の属人的で情実的なものによるものなら、なおさらである。
言い換えれば、僕は限定的で相対的な能力主義者なのである。
一度ある組織に属して、その組織において公正で客観的な基準で評価され、その結果の処遇、例えば役職者になれるという、まあごく当たり前なことだが、この程度の「能力主義者」なのである。
せめて勤め人は、コネや親の社会的地位・資産、見せかけのやる気などに左右されず、「能力主義」によって評価されるべきだということだ。
ただし、ある組織で得た評価はその組織内だけのもので普遍的ではないということを忘れてはならない。
僕はこの限定的で相対的な、しかし客観的で公正な評価基準による能力主義が当たり前という社会になれば、今の閉塞感は少しは払拭されるのではないかと思っている。