僕は社労士事務所を営んでいるときに専門的な知識を得ようとして勉強を続けていた。労働法、判例、行政通達、公的保険の実務、人事労務管理の知識等を日々勉強していた。実務に直結するような知識、つまりカネになる知識を優先して学んだのだが、今となってはそれらの「すぐに役立つ」知識の殆どは忘れてしまっている。それともう「使えない」知識に成り下がっている。一方ですぐにはカネにならない知識はまだ頭に残っている。
社労士事務所を畳んで全くのフリーとなってから僕は「働くこと」の根源的な意味は何かについて問い続けている。この問いかけの答えを自分なりに得るための学びは実生活にすぐには役立たない。役に立たないどころか、「働くこと」の意味を問えば問うほど賃労働に懐疑的になり、もともと勤労意欲が低いことも相まって「まとも」に働くことができなくなってきている。
少し前に国立大学の人文科学系の学部を廃止・縮小するとの話題があり、その是非が問われたことがあった。僕はなんと愚かなことを考えるのだと溜息をついた。
哲学、倫理学、文学、言語学、歴史学等の人文科学の領域に属する学問をしてもすぐには実生活には役に立たない。すぐに役に立たないからと言ってそれらの学問を究める大学の学部を失くせとは暴論である。反知性的である。人間とは何か、この社会の成り立ちはどうなっているかを問うことは人の存在意義に関わる大切なことである。
フランス革命後の王政と共和制が交互に入れ替わった混乱期、かの国では王政期に人文科学を弾圧したことがある。支配者層が人民が変に知識をつけてしまうと己の地位が脅かされると恐れたからである。人文科学系の学問はすぐには役立たないが、社会を根底から覆すような力を持っている。
もし、この国の支配者層が己の既得権を保持する私利私欲のために人々が人文科学を学ぶ機会を失くそうとしているならば、この暴挙には徹底的に抗わなければならない。経済成長に直接資することがないものは排除するというのならば、その浅はかさを糾さなければならない。
確かにすぐに役立つ「実学」はなくてはならないものである。多くの人たちはすぐに役立つ知識をベースにして自分の食い扶持を稼いでいる。
しかしながら、すぐに役立つような、成果が目に見えて数値化できるような知識ばかりに偏重してしまえば知の空洞化が起こる。そして、それは社会の弱体化につながるのである。
何よりすぐに役立つ知識はすぐに陳腐化し役に立たなくなってしまうおそれがあることを忘れてはならない。流動性が高く、変化のスピードが速い現代社会においては特にそうである。
僕の実体験からもそう言える。
僕は今でも時折人から相談を受けてアドバイスをしたりすることがあるが、その時に役立っているのはすぐには役立たないと思われた知識やスキルである。
僕はこれからもずっとすぐに役立たないような知識、でも社会の成り立ちの根源を問うような、人間とは何かを深く追求するような知識を身に付けるために学び続けていきたい。
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