僕たちは子どもの頃から「正しいことを言う大人たち」にあれこれ言われ刷り込まれてきた。学校の先生をはじめ、自分の親、親戚のおじさん・おばさん、近所のおっちゃん・おばちゃんたちに正しいことを言われ、それに従うことが「良い子」だとされてきた。
世の大人たちは自分のことは脇に置いといて正しいことを言いたがるものだ。正しいことを言うのが大人の責任だと錯覚している。
確かに大人たちが世間の規範からずれたことばかり言い出すのもどうだかなぁとは思うけれども、「正しい」ことからちょっとズレたところに面白いことがある、ということを言ってもいいと僕は思う。
世間で「正しい」とされることに従っているととても息苦しくなる。生き方の選択肢も狭まってくる。
僕は40歳になるころまで「正しく」生きようともがいていた。
真っ当とされる働き方をすること、仕事で自己実現や成長をすること、社会的地位を上げようとすること、などなどの「正しい」とされる生き方に疑いを持たないようし、自分を偽っていた。
また、他者から評価されること、役に立つ人間だとみなされることが「正しい」との価値観に雁字搦めになっていた。
このブログに何度も書いているけれども、僕は40歳を過ぎたあるときにキレて、「もうこんなことは辞めじゃ!」と開き直り現在に至っている。押しも押されぬダメ人間にはなったが、随分と生きやすくなった。
「人に迷惑をかけるな」「人の助けを借りるな、自分ひとりでやれ」といった類の「正しさ」も随分と僕たちを苦しめている。
世の多くの人たちはこれらの言葉を手軽に投げかける。特に年端もいかぬ子供たちにまるで洗脳を施すかのように無自覚に投げかける。
確かに他人に迷惑をかけることは良くないことである。しかし、かけていい迷惑とかけてはいけない迷惑がある。
生活に行き詰まった人が進退窮まって誰かに助けを請い迷惑をかけることはいけないことなのだろうか。決していけないことではない。
人はひとりで生きていけるほどに強い完全な生き物ではない。古来から助け合って、支え合ってどうにか生き延びてきたのである。
時と場合によっては、人に迷惑をかけてもいいし、助けを求めてもいい。「人に迷惑をかけるな」という「正しさ」なんか無視しても良いのである。
僕たちは常に「正しさ」という同調圧力にさらされている。
世間から後ろ指さされないために正しく生きようとする。
正しく生きようとすること自体は何も否定すべきことではない。しかし、そのことにこだわりすぎると時として破たんを招くこともある。
たまには「正しい」とされていることの逆をつくことがあってもいい。
誰かに迷惑をかけたり助けを求めたりする、真っ当とされる働き方を拒んだ自分なりのそれを貫いてみるなどである。そうするとちょっとした風当たりはあるかもしれないけれども、以前よりもかなり生きやすくなる。
「正しく」生きることだけが人生なのではない。
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