僕たちは幼少時から他人に迷惑をかけてはいけないと刷り込まれる。
人に迷惑をかけることを恐れ、人から迷惑を被ることもまた恐れるようになる。迷惑をかけない生き方が「自立」だと思い込んでいる。
高齢者や障碍者の介助の現場でも、自殺においても「他人に迷惑をかけるくらいなら・・」というメンタリティが悲劇を生んでいる。
そもそも他人に迷惑をかけることがそんなに悪いことなのだろうか。まあ、ものには限度があるが「あーあ」とため息をつく程度の迷惑ならかけられても後々尾を引かないものである。
迷惑をかけ合える関係こそが本当の友人関係である。迷惑をかけられてもその相手を見限らないのが親子関係である。
この世知辛い、孤立しがちな世の中でひとりで生きていくのは相当に辛いことである。人は支え合わないと生きていけない弱い生き物なのに、昨今は「自立」や「自律的」な生き方を僕たちに強いてくる。
あたかも強いことが善で弱いことが悪であるとでも言いたげに。
世の中の隅々までに強者の論理が幅を利かせている。圧倒的多数の弱い立場の人たちは強者の論理に呑み込まれ、自分たち弱者の論理が誤りのものだと思い込まされている。
様々な異論はあると思うが、僕は何があってもどんな目に遭っても「生き延びる」ことこそが最も大切なことだと思っている。それこそどんな手を使っても生き延びることが大切なのだ。
そのためには人の手を借りたり、時には迷惑をかけてまでも生き延びる手立てを講じなければならない。そして相手から迷惑をかけられて、その人が生き延びるような手助けもしなければならない。
プライドの高い人たちは他人に迷惑をかけてまでも生き延びることはない、と言うかもしれない。その考え方は間違ってはいないし、プライドも大事なものである。
でも僕は死んでしまっては元も子もないと思うのだ。
人は生きていてこそ浮かぶ瀬もある。
僕はわりかしと人は信じるに足るものだと思っている。
ある人が相手に対して迷惑をかけていると感じていても、意外とその相手は迷惑をかけられているとは感じていないケースが多いものだ。人は人から助けを求められると邪険にはできないものなのである。それが友人であったり親子であったら尚更である。相談・援助職に就いている人たちも職業意識だけではなく困っている人をむざむざと見捨てることができないという思いがあるからこそ献身的になれるのだ。
途方に暮れたときには人に多少の迷惑をかけてもいい。
自分一人では解決できないことも人の手を借りれば何とかなることもある。立ち直った後に、誰かに迷惑をかけられて手助けすればよいだけの話である。迷惑のかけ合いの連鎖がこの社会で活発になれば生きやすい社会となる。
迷惑をかけ合うことが社会システムの潤滑油になるかもしれない。