希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自分の弱さや不完全さを認められれば、誰に対しても寛容になれる件

完全で完璧な人間などこの世界のどこを探しても一人として存在しない。

当たり前の話である。 

人は自らが不完全であることを知っているからこそ、「神」という概念を生み出したのだ。

人は自らが弱い生き物であることを知っているからこそ、互いに助け合い支え合うようにして生きてきてそのために共同体を形成してきたのである。

 

僕たちは日々の生活を送っているうちに、自分が弱くて不完全であることをついつい忘れがちになる。自分自身だけでなく他者にも完璧さを求めてしまう傾向がある。

人のささいなミスに目くじらをたてて怒ったり、自分のイメージしたように仕事が出来なかったりすると、自分に対してあるいは他者に対して攻撃的になってしまう。

これは僕たちが知らず知らずのうちに傲慢になっているのである。

自分は完璧だ、ミスなんてしない、あるいは自分は自立していて強い人間だと思い違いをしているのだ。

 

自分は完璧だと思い込んだり、他者に完璧さを求めたりすると不寛容になり狭量になり、ゆとりを失ってしまう。

時々、「自分は完璧主義者」だと自称する人がいるが、その手の人たちは自分で自分の首を絞めていることに気付いていない。完璧主義者なんて決して威張れるものではない。自分は余裕がなくて、冷酷で、不寛容だと自白しているのだから。

 

人は失敗を繰り返すからこそ面白いのだ。

人は弱くて頼りない存在だからこそ愛おしいのだ。

 

確かにミスをひとつでもなくすように心がけることは大切だ。少しでも強くなって「自立」するように努めることも必要だ。

しかしながら、これらのことに注力しすぎると、人が本来持っている大切なものを失ってしまうことになる。それは「やさしさ」だったり「利他心」であったり「許すこと」であったりする。人は競争心を持っていて他者を蹴落としてまでも生き延びようとする本能を持っている。同時にやさしさや他人のために尽くす気持ちも持っている。だからこそ人間という生き物は面白いのである。

 

現代社会は競争心を前面に押し出す生き方が称揚されている。競争に打ち克つことが善とされている。資本主義社会、とくに新自由主義的な社会では競争に勝たないと人としての価値を認められないという残酷な面を有している。この偏った価値観が蔓延すると不健全で、とても生きづらい世の中になる。

 

この世知辛い世の中で生き延びるためには、人としての原点に回帰することが大切なことだと、僕は思っている。

自分の弱さや不完全さを受け入れて、このことを前提として人と関わり合い、共同体を再構築し、その共同体の中で自分の居場所を見つけることである。

人に助けを求めることを「恥」としない、困っている人に救いの手を差し伸べることが当たり前、といったようなコミュニティを創ることである。

これは理想論に過ぎないと言われるかもしれない。

しかし僕は理想を失いたくない。

人の弱さや不完全さを包み込むようなコミュニティを創るために、僕は自分のできることをひとつひとつ積み上げていきたい。