希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

自分に対して甘くなったらちょっとだけ寛容になれるという件

自分に厳しい人たちを見るとすごいなぁ、大変だなぁ、とつくづく思う。

有名なアスリートやアーティストはおしなべて厳しい自己管理をしているし、自分に対して厳しい。

世に出回っている自己啓発ものには自己管理の徹底や自分を律することが肝要だと説くものが多い。

 

僕はこう見えて(どう見えているのか分からないけど)若い頃は常に自分に厳しくあろうと努力していた。

ミスは他人のせいにはしないこと、常に前向きに頑張ること、自己啓発を怠らないこと等々を自分に課していた。

自分に厳しいと人にも厳格さを求めがちである。僕もその傾向があった。人の些細なミスが許せない。時間にルーズな人を見るとイライラする。仕事が出来ない人を見るとこれまたイライラする。真っ当に生きていないと見える人たちを見ると、「けっ!」と蔑んでいた。

今から思うとこれらの所業は自分に厳しいということだけではなく余裕やゆとりがなかったのだ。

 

自分に厳しくあろうとするのはこれはこれでいいのだけれども、他者にきっちりとした厳しさを求めそれを強いるのはお門違いである。

自分の生き様というか価値観を人に押し付けるのは愚行である。

「人は人、自分は自分」なのである。

 

僕は40代の半ばの頃、それまでの自分の生き方に嫌気がさしてキレて、ガラガラポンしてしまった。

自分を強く律し、自分に対して厳しくするという生き方がどうも自分らしくないとようやく気付いたのである。元々が怠け者でいい加減な人間なのに、それらを認めることを拒み、世間でいうところの「できる人間」「真っ当な社会人」を演じていただけだと思い知ったのだ。

 

僕はどうしようもない自分というものを受け入れることにした。自分に対して高いハードルを課すことをやめにした。要するに厳しさを捨てて、ちょっとだけ甘めに自分を見ることにしたのだ。そうすると自己肯定感が生まれ、世間の隙間や端にでも自分が生きていけるスペースがあると確信できるようになった。僕はちょっとだけ自分を好きになり、見どころがないわけではないと甚だ自分に甘くなった。

この自己認識の甘さを備えると人に対して優しくなったような気がする。少々のミスでは腹が立たないし、自分の思うようなことをしてくれなくても「まあ、しゃーないな」と思えるようになった。たとえ善意ではあっても自分の思いや考えを押し付けることははしたないことだと思うようになった。

 

もしかすると僕の生き方や考え方は成長(資本主義的な)をしない代物かもしれない。競争社会での落伍者になる可能性が高い。それでも、常に自分を律して自分磨きをしなければならないというイデオロギーもどきを僕は拒みたい。

ダメ人間である自分という存在を受け入れ、人には優しく、という生き方を飄々と続けていきたい。

 

 

 

 

 

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