この国の会社ではやたらと社員に経営者の目線を持てだのといって義務や責任を負わせている。この手垢にまみれた「経営者目線を持て」というスローガンは未だに無能な経営者によって連呼されている。
ごく当たり前の話だが、経営者と労働者は与えられた役割が全く異なっている。経営者は大局的な視点から経営戦略を策定し、その戦略を有効に遂行するために組織を動かすことが主な仕事である。労働者は戦略に基づいて、部署単位や個人単位で戦術を練り、自分の与えられた職務を全うすることが求められる。
要はこういうことである。会社は社員個人の職責を超えた責任や義務を課して、社員を際限なく働かせるように強いているのである。そして経営者の経営責任逃れを正当化するのである。リストラという名の首切りを強行して自分は今の地位に安住している経営者連中がいかに多いかを見ていれば分かる。
労働者の職責と「経営者目線」は全く相容れることがないものである。
ただ、経営者的なものの見方が有用なことがあるのは確かである。
それはコスト意識を強く持つことである。このコスト意識は将来自分が経営幹部になったとき、独立して起業したりフリーランスになったときに役立つかもしれない。
そして、自分が上げた売り上げと経費を意識するといかに自分が会社に「搾取」されているかが分かることになる。自分がいくら会社に利益をもたらし貢献しても自分の給料には反映されないかを知ることは有益である。
「搾取」そのものは悪ではない。資本主義体制は搾取なしには成り立たないものである。搾取を否定するとそれは即ち資本主義を否定することになる。
搾取されることが嫌ならば搾取する側に回るか、一見搾取がない働き方を選択するしかない。搾取されていることを知りつつも雇われる形で働き続けるか、その呪縛から逃れた働き方をするかは人それぞれの価値観によるもので、どちらが正しいとか間違っているかという話ではない。
経営者目線というものを突き詰めると、どうしても「搾取」ということや労働のあり方という話に行き着くことになる。しかし、経営者はこのような根源的な問いに行き着くことを想定していないし求めていない。経営者は労働者を効率よく使いたいだけであって、その方便のひとつとして「経営者目線」云々を言っているだけなのである。
経営者は労働者ではないから労働法、特に労働基準法の適用は受けない。経営者は時と場合によっては青天井に働かないとならない。要は経営者は労働者に無限に働き利益を生み出してほしいと潜在的に思っている。労働者意識、労働者としての権利意識を持ってほしくはないのだ。かといって経営にはタッチしてもらいたくない。労働者に経営なんて高度な仕事などできるはずがないとバカにしているのが本心である。この本心を表に出すと労働者のモチベーションが下がるので、経営者目線を持って働くことが自己啓発になるとのお為ごかしをするのである。
サラリーマンに経営者目線は全くいらない。
会社という組織に隷従しないためにも労働者意識を強く持ち続けてたえず労働者の権利を行使し続ける態度を取り続けることが肝要である。
また、経営者にバカにされていることへの抵抗の手段としても、この労働者としての当事者意識は大切なものである。
サラリーマン根性と労働者意識は全く異なるものである。
サラリーマン根性を持っているとすぐに経営者視線もどきを持ってしまう。こんな害ばかりのサラリーマン根性は捨て去り、労働者意識を強く持つことが会社という組織の論理を打ち破る一手となる。