希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「安定」よりも「安心」が大切である件

大抵の人たちは安定した生活を望んでいる。

また、大抵の人たちは安心できる社会、安心して生活できることを望んでいる。

勿論、両者とも大切なことである。安定や安心が欠けた社会では生きやすいとは言い難い。

 

しかしながら、天邪鬼の僕は「安定」志向に異を唱えたい。このブログでも度々言及しているが、安定なんて幻想に過ぎないと僕は考えている。

また度を過ぎた安定志向はより善き社会への改革を阻む要因となる。より良き発展への阻害要因となる。

 

安定した生活が実現したからといって安心できるわけではない。例えばそこそこ良いとされる会社の正社員となって生活が安定したとしても、馬車馬のように働かされたり、リストラに怯えたりしたらとても安心した生活とはいえない。安定=安心ではないのだ。安定した生活を営んでいるのに心を病んだり身体を壊したりすることはよくあることだ。

 

だから、何より「安心」できる生活を目指すべきだ、と言いたいところだがこれが難しい。

「安心」とは突き詰めて言えば心の持ちようで変化する曖昧なものである。方向性を誤れば悪しき精神主義に収斂されるおそれもある。

安心とはよく用いられる言葉であるが、その実体は曖昧模糊としていて具体的に定義することが難しい。

 

とは言え、その人の幸福感や充実感はやはり心の持ちようで大方が決まると思うので、やはり「安心」というキーワードは重要ではないかと僕は思う。

「安心」できるとは、少々のことがあっても何とか生きていけるという確信があることである。

たとえば非正規雇用で働いていてもフリーランスで仕事をしていても、本人が納得できていれば一見不安定な状況であったとしても安心感が上回ることになる。この「安心」とは自己肯定感と親和性が高いのかもしれない。

 

「安心」を求めることはもしかすると「安定」を求めることよりも一筋縄ではいかない難易度の高い行為なのかもしれない。

あまりにも多くのものを求めすぎるとなかなか安心に辿りつけないような性質のものである。一生懸命に頑張って常に何かが足りないと感じたり、あるいは自己肯定感が持てないでいると「安心」できる状態へと至ることは難しい。

安心感を得るためには時として諦めも必要なのかもしれない。やるべきことはやってきた、しかし無理なものは無理、という諦めというか割り切りが安心感を得ることにつながるような気がしてならない。

 

僕はこの「安心」をポジティヴな意味で使いたい。

安心できる生活を送ることができさえすれば、収入の多寡や社会的地位・名声などの有無に関係なくのほほんと生きていくことができる。

「安定」を求めすぎて「安心」を喪失するよりも、多少の安定を犠牲にしても「安心」を求める生き方が意外とこの世知辛い世の中を渡っていける智慧のような気がしてならない。