食べ物の好き嫌いをしてはならないと僕は小学校のときに散々言われた。
僕は給食の時間が苦痛でならなかった。肉類が全くダメでその他にも嫌いな食べ物が多かった。
当時は給食を残すことは許されず、食べられなかったら給食の時間が終わっても食べさせられた。
小学校1年から4年までの担任は柔軟な対応をしてくれたので事なきを得たのであるが、5年生のときの担任が給食を残すことを禁じたので、僕は窮地に追い込まれた。僕は頑強に抵抗したのでついに担任は折れて、特例として僕だけ嫌いなものを残しても良いことになった。このことが僕が不登校になる要因となってしまう。給食を残すな、という同調圧力が僕にのしかかってきたのである。
人の好き嫌いをしてはならない、誰とでも仲良くしなければならないと学校でそう教わる。
こんな教えは非現実的であり、無理な話である。
人と人との関係においては、生理的な好き嫌いもあるし、相性もあるのは当然なことである。
学校での教えは綺麗事に過ぎない。
僕はこの非現実的な綺麗事がまかり通る風潮がいじめや差別を助長しているように思えてならない。
食べ物の好き嫌いがあるのは個人の自由である。
同様に人の好き嫌いも個人の自由である。
好き嫌いをなくすことを押し付ける行為は、個人の自由を侵している。まあ、そんなに大仰に言わなくても、自分の好き嫌いを他人にとやかく言われる筋合いはないということだ。
ただ、仕事の場や公の席においては表面上は好き嫌いの感情を抑制しなければならない。人事評価の際には評価者の好き嫌いを極力排除しなければならない。仕事上の付き合いにおいても同様である。
僕はかつては嫌いな人とも付き合うべきだという考えに毒されていて、それを実行して精神的に疲弊した経験がある。巷に溢れている自己啓発物にも、例えば嫌いな人と付き合うことで成長につながる等の妄言を撒き散らしているものがある。
僕は今は嫌いな人とは一切付き合わないことにしている。嫌いな人にも良いところや美点があるのは重々分かっている。でも、僕は自分の感性や感覚に重きを置きたいのだ。
残りがそんなに多くはない人生なので、つまらないことで自分をすり減らしたくないと思っているからだ。
健康に留意しつつも、できるだけ好きなものを食べたい。
プライヴェートでは好きな人とだけ付き合いたい。
これらの僕の願いは単なるわがままなのだろうか。
たとえ「わがまま」だとか「自己中心的」だとか言われようとも、僕は自分の好き嫌いを押し通していく。