希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「忙しすぎて働いているヒマなどない」。これは名言である件〈再掲〉

働いているヒマなどないほど忙しい。

なかなかに素敵な生き方だと思う。

働くことにほぼすべての時間を費やす人生は本当に楽しいのだろうか。

働くこと=人生だと僕は思わない。

 

初出 2015/6/8

 

「忙しすぎて働いているヒマなんてありません」。

これは会社にしがみつかないで生きている人たちのインタビューを集めた本の中のある女性が語った言葉である。

この言葉は僕の心の琴線に響いたのだ。

彼女は趣味のサーフィン(だったと思う)と社会運動、友人たちとの交流に忙しすぎて、会社で労働に勤しむ時間などないのである。彼女はニートではない。フリーランスの形で働き、生活費を稼いでいる。

 

僕たちは仕事で忙しく過ごし、人生の大半を労働に費やすことが当然という世間の「常識」に縛られている。生活費さえ賄うことができれば、働き方や生き方は全く本人の自由である。別に会社に雇われて働く必要はない。出世などする必要もないし、仕事で自己実現などする必要もない。

社会に役立つことをやたらと追求するのもどうかと思う。自分の好きなように働き、自分の好きなような生き方をして、結果として社会に少しでも役に立つことができれば万々歳である。

 

いわゆる労働以外のこと、例えば趣味やボランティア、社会運動にうつつを抜かすことに対してこの社会ではネガティヴに評価しがちである。逆にきちんと自分の仕事をこなし、空いた時間でそれらの活動をしている人たちにはポジティヴな評価を与える。何事も「労働」ありきなのだ。

社会運動や趣味などを人生のメインに置いて、「片手間に」働く生き方もありだと思うし、そのような価値観は労働ありきの価値観に劣っているわけではない。片手間に働く生き方も十分に立派な生き方である。

僕たちは「労働」するためだけに生まれたきたのではない。決して労働が人生のすべてなんかではない。労働は人生のほんの一部に過ぎないものだ。

社会秩序を壊したり、公共の利益に著しく反しない限り、どのような生き方・働き方をするかは本人の自由である。この自由は最大限に尊重されなければならない。また、この自由を侵すものに対しては「抵抗」する権利がある、と僕は思っている。他者による価値観の押し付けや世間の同調圧力に対して決して阿ることがないという意志を尊重することだ。

 

労働以外の活動で忙しすぎるという状況は素晴らしいことである。片手間に働くという労働観は、今の閉塞した状況を打破する一手になりうると思う。

 

「忙しすぎて働いているヒマなどない」。

これは金言である。

一度はおおっぴらに言ってみたい名言である。

この言葉を臆面もなく言えるようになると、きっと実り多い人生になるに違いない。