僕は弱い人間である。
優柔不断で決断が遅れることが今までに多々あった。
他者の意見に流されることもある。
自分の考えや主張を素直に表明できない。
ちょっした失敗にくよくよと思い悩んでしまう。
他にも自分の弱さを挙げることができるが、これ以上書くと落ち込むのでここでやめておく。
僕は弱い人間ではあるが、弱い人間なりに矜持やプライドがある。
世間の不当な圧力には心の底では抵抗し続ける。
社会的地位の高い者や権威には阿ることはしない。
「弱者権力」、すなわち弱者であることを奇禍として既得権を貪る輩には同調はしない。
「寄らば大樹の陰」的なメンタリティを嫌う。
そう、僕は単なる天邪鬼である。
自分の「弱さ」を正当化したくないのだ。
自分で自分の首を絞めているなぁ、と思わないでもないが、これが僕の生き方だと腹を決めている。
僕は自分の弱さを克服したいと常に思っている。同時に強者の持つ驕りや傲慢さを嫌悪しており、決して強者になりたいわけでもない。
自分の弱さを内在化させたうえで、確固たる信念を持った生き方を志向している。負け犬根性を持たないようにしている。
僕は己の弱さに無自覚な人を信用できない。
一方、自分の弱さを前面に押し出し、他者の同情や憐れみを乞うような人はさらに信用ができない。
人は生きていれば思いもかけないような困難に出くわすことがある。悲惨な境遇に陥ることになることもある。その際には今の境遇から抜け出すべくその時点で自分ができうることをなすべきだと思う。
僕は生活保護バッシングには与しない。
ニートや引きこもりの人たちに対するバッシングにも与しない。
生活困窮者に対する支援は絶対に必要である。
それらの人たちに生きる意欲を持つように手助けしなければならない。
ただ、弱者という立場に安住し、少しの自助努力をも図らないのは問題であると考える。真の意味での生活再建にならないからだ。
僕がこれまでにこのブログで言及してきた弱者の連帯と弱者権力は紙一重のものである。
社会的弱者の手による社会運動が結果として「弱者権力」を生み出してきたケースは数多くみられる。この「弱者権力」を持つことにより、多くの社会運動の組織が腐敗し弱体化してきた。社会運動自体が色眼鏡で見られる原因となってきた。これらのケースは社会運動のもつ宿命なのか、あるいは組織が持つ病理なのか、僕には分からない。
これからの社会運動はゆるい連帯と、目的を一定程度果たしたら解散する位のフレキシビリティが必要なのかもしれない。
僕は「弱さ」を悪とする社会の風潮に抗い続けていこうと思っている。
僕は自分の弱さを自覚しながら、他者の弱さに安易に同情したり責めたりしない人間になりたい。