希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

公務員バッシングは単なる庶民のガス抜きに過ぎない件

僕は元地方公務員である。

だからある程度公務員の生態は分かっているつもりだ。

規則を頑なに守り融通が利かない。

仕事の進め方が非効率であり、コストパフォーマンスが悪い。

決められた以外の仕事はしない。

巷でよく囁かれるこれらのことはほぼ事実である。

 

昨今、公務員の働きぶりの負の面を殊更に強調した公務員バッシングが蔓延している。

公務員は公僕なのだから住民からの批判に晒されるのは仕方がない。適切な批判はこれを受け入れて業務の改善に活かすべきだろう。

しかし、度を超えた、嫉妬や羨望もまじったバッシングには大いに違和感を覚える。

庶民は公務員を攻撃してカタルシスを感じるかもしれない。しかし、真の敵というか本当に責めるべき相手は誰なのかをじっくりと見極めなければならない。公務員バッシングは単なる庶民のガス抜きになっているのである。

 

公務員バッシングの底流にあるのは「公」から「民」へという新市場主義・新自由主義イデオロギーである。すべての経済的活動を民間に委ねて、市場の原理に従うべきだという市場原理主義があるべき姿だというイデオロギーだ。

公的部門を縮小・削減して民間の活力を活かすことで様々な問題が解決できるというものである。

公共セクターには確かに非効率な面もあり、無駄もある。それらの無駄や非効率を営利企業のやり方で克服できるとの考えが今は主流になってきている。

 

果たしてそんなに単純なものだろうか。

本来は公的部門である医療・福祉・子育て・住宅政策・文化振興等は効率性や儲けを主眼にしてはならないものである。

国民・住民の公共財産を無闇に民間企業に払い下げたり委託しては住民の享受すべき利益を毀損する可能性もある。

両者に共通して言えることは、利益至上主義の民間企業においては、利益の出ない部門は容赦なく切り捨てるということだ。例えば過疎地や僻地でのサービスは儲けが出ないことが多いので切り捨てられやすくなる。

「民」が「官」よりも良いサービスが提供できるというのはあまりにも一面的な偏った見方である。

 

話題を公務員バッシングに戻そう。

公務員を攻撃する人たちは公務員の給料が高すぎるので民間並みに下げよと言う。

確かに公務員の平均給与額等のデータをみれば民間企業よりも恵まれているという印象を持つ。福利厚生も恵まれている。

ただこれはこの20数年の間に民間の給料が下がったために相対的に公務員の給料が高くみえるようになったのだ。多くの会社は好況期に利益が上がっても社員の給料に還元せずに内部留保と役員報酬と株主配当に多くを還元した事実を忘れてはならない。

確かに公務員の給料は民間企業との間にバランスの取れた適正な額にしなければならない。ただし、社員の給料カットでコスト削減に血眼になっているバカな経営者に引きづられる必要はない。

給与額の官民格差が問題というのならば、本来は民間企業が給料を上げる努力をすべきなのである。業績が悪いときは仕方がないが、業績が好調なときには労働分配率を上げるべきである。

また、安易に公務員の給料を切り下げれば、それを口実に会社の経営者は社員の給料をカットするのは目に見えている。労働条件の更なる劣悪化が促されるおそれがある。

度を超えた公務員バッシングは自分の首を絞めることにもなりかねないのである。

 

とは言え公共部門の無駄を省くことは重要なことである。

不必要な「ハコモノ」やインフラへの過剰投資は今すぐに辞めるべきである。一方、地域住民のニーズに応えたきめ細やかなサービスは拡充すべきである。本当に必要な公共サービスを適正に提供していれば公務員バッシングは起きなくなる。

住民サービスを切り捨てることなく、政治家や官僚、企業の既得権の温床となる無駄な公共事業こそを削減すべきである。

 

公務員バッシングは無能な政治家の人気取りの手段として用いられることを忘れてはならない。

また、公務員バッシングは強欲な会社や経営者が膨大な市場が見込まれる公的部門を取り込もうとするために都合の良い便利なものである。

 

公務員バッシングの裏に見え隠れするものを僕たちは見逃してはならない。