新自由主義的な価値観が世を覆ってくると、経済効率でしか物事を考えない輩が跋扈するようになってくる。
経済効率でしか物事を考えないということは、すべてのことをビジネスの論理でとらえることである。ビジネスの論理を絶対視する人たちが多くいるが、それらの人たちが有する価値観を具現化した最たるものが公的施策の民営化である。
社会資本事業や医療・福祉・教育等は本来はビジネスの論理に馴染まないものである。
国家や地方自治体が公費をもって公共の福祉のために行う事業である。国家や自治体は公共の福祉に資する事業を行う責務がある。そのために僕たちはない袖を振って税金を払っているのである。
様々な事業で民営化に馴染むものとそうでないものがある。競争原理が働く分野では民営化という手段は有効なものとなりうる。国鉄や電電公社等の民営化がそれにあたる。
医療や福祉や教育といった分野では私企業と国家や地方自治体が「棲み分け」をして、互いに補完しあってこそ、その役割が果たせることになる。
社会資本に至ってはそのほとんどを民営化をしてはならないものである。
生命維持のために不可欠な水道事業の民営化なんて愚の骨頂である。
民営化とは言い切れないが、事業を民間に委託して失敗した例として精神科病院が思い浮かぶ。
この国の精神医療は他の先進国に比して大幅に遅れていた。戦前は自宅監置(座敷牢)が認められていたほど精神科病院の絶対数が不足していた。そして、戦後精神病患者を「収容」するために民間事業者に精神科病院を運営することを委ねることになった。
他科の病院と比較して医師や看護師の人員配置の基準を低く抑え、その結果「安かろう悪かろう」の精神科病院が林立することとなった。現在問題となっている「社会的入院」の根源はそこにある。
民営化とはビジネスの論理をその事業に適用することである。それは人件費や仕入れ等のコストを低く抑え、売値を高く設定して利益を出すことである。
公益性の高い事業にビジネスの論理を当てはめてしまえばどうなるか。
結局は採算の取れない領域でのサービスが低下し(時には撤退し)、受益者の利益が毀損されることになるのは火を見るより明らかである。
公益性の高い事業の民営化を殊更に唱える者は、それによって利益を得て既得権を作り出そうとしている輩である(例えば竹中平蔵のような)。あるいは国家や地方自治体の責任放棄を自己正当化しようとする輩である。
あるいは本当に民営化が問題解決のための有効な手段だと新自由主義的イデオロギーを
妄信している思考停止状態に陥っている輩である。
民営化をすれば事足りるという考えは、それ自体がひとつのイデオロギーと化している。
僕はそんなイデオロギーの犠牲者にはなりたくない。
それに抵抗する有効な手立てはないのかもしれない。
しかし、自分なりにあの手この手を使って抗っていきたい。