希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自分を変えたいと思っても、本質的に変わることができるのかという件

自己啓発本のキモは自分を変えることで自分を取り巻く環境も変えることができるというものだ。

自分が快適に感じる環境を作るには、他者に変わってもらうか自分が変わるかのいずれかの方法によるしかない。他者に変化を強いるのは実際上困難なことである。だから、自分を変えて環境を変えることに落ち着く。

 

一見最もな考え方である。

 

しかしながら、本当に自分を変えることができるのか、変わることができるのか、ここが重要な点である。

 

僕の考えでは、その人の本質的な部分は変えられないが、行動様式は変えられると思っている。

本質的な部分とは各人の性格や気質・人格のことである。これらは脳のはたらきそのものを変えなければならない。これを人為的にできるかといえば、不可能に近い。自分の努力や思いだけで性格や気質は変えられない。脳のある部分にかなり強い刺激を与え続けるとか、破壊するとかの手段を用いれば可能かもしれないが、これは人道上大いに問題がある。人格改造あるいは人格破壊は小説や映画で好まれるテーマではあるが、現実社会では許される所業ではない。

ただ、ある人の性格や人格が変わるケースは多くある。脳に外傷を負ったときや脳疾患・認知症に罹ったとき、ドラッグやアルコールの大量摂取で脳機能に異常を来たした場合などである。しかしこれらのケースは自己啓発物のいうところの自己変革にはあたらない。

オウム真理教の信者がドラッグの摂取であるいは洗脳の手法を用いて神秘体験を得たり、悟りのようなものを得るケースもある。これは一種の人格改造であるが、自分を変えるという趣旨にあたるかどうかは疑問符がつく。

 

例えば短気で怒りっぽい性格の人が年齢を経るにつれて温厚で丸くなることがある。これはその人の性格が変わったわけではない。あることで腹が立っても、その怒りを表に出さない術を手にした結果であると考えることができる。社会の中で揉まれることにより、自分の感情をそのまま表出すれば関係性が壊れると「学習」して、その怒りを押し殺す手立てを覚えていくわけである。

このケースでは、表向きつまり他者から見ると、その人は変わっていることになる。

自分の感情をそのまま表に出すことは一般的に子どもっぽいとみなされ、感情をコントロールできる人は「大人」であるとみなされる。

人は程度の差こそあれ、「大人」になっていく。

このような意味においては人は変わることができるのである。

 

僕はいつも思っている。

自分を変えることが本当に良いことなのであろうかと。言い方を換えれば、自分の本質的なものを変えてまでも世間に順応する必要があるのかと。

上述したように「大人」の振る舞いを覚えて、他者や社会との関係性において、摩擦を起こさないように「演じる」だけで充分ではないかと思う。

自分の本来の姿を変えることなく、他者から見える「像」だけを逐次変えていけば良いのではないだろうか。

 

自分が生まれながらに持つ性格や気質は変えられないと受け入れることによって、道が開けることもある。

他者から見られる「像」をその都度取り替えることもまた結構面白いというメンタリティを持つと、楽しく世間を渡っていける。