僕たちは親や年長者から「人様に迷惑をかけるな」と事あるごとに言われ続けてきたと思う。
確かに犯罪やそれに近い行為で、他人に迷惑をかけることはいけないことだ。また、迷惑な行為によって他人の生活を脅かすようなこともあってはならないことである。
とは言え、人はひとりでは生きてはいけない。
他者との関わりの中で生きていく。
他者と関わるということは、時として迷惑をかけたり、かけられたりすることもあるということだ。このことを前提として誰もが生きている、と言ってもよい。
僕は親にかなり迷惑をかけている。
社労士を廃業し、その後勤めていた会社を辞めて母親の許に身を寄せたときも不安を感じ、多少は迷惑だと感じていたかもしれない。僕の方からすると、母親に迷惑をかけることによって、生きやすくなった。いい歳をして結婚もせず、正社員としての勤めが長続きせず、非正規社員として働く僕を何だかんだいって受け入れてくれていることにとても感謝している。
太古の昔から人はお互いに助け合いながら生活を営んできた。互いに迷惑をかけ合いながら生きてきたのだ。困ったときは「お互い様」だとの共通認識があったといえる。
現在の社会では、この「お互い様」の精神が薄らいできているのではないか。他人に迷惑をかけないことをあまりにも強調しすぎているのではないかと思われる。
自分一人で解決できないような問題が起きたときに、親や友人・知人などを頼ることは恥ずかしいことではない。誰かが困っているときに、今度は自分が救いの手を差し伸べればよい。まさにお互い様なのだ。
自助努力も大切だが、共助や互助がなければものすごく生き辛くなる。
共助や互助は、公助に至るケースにおいても重要なクッションともなり得るものである。
多額の債務の連帯保証人になるような生活の破綻に陥るケースは別として、自分のできる範囲で困っている人を助けること(多少の迷惑を被ること)は当たり前である、というような風潮になれば生きやすい社会となる。
「お互い様」精神が尊ばれる社会である。
「情けは人の為ならず」の本来の意味を取り戻すのだ。
何らかの問題を抱えたときに他者に助けられると人を信用できるようになる。他者を助け、その人が立ち直ったとき、とても爽快な気持ちになれる。
人と人とが助け合うときに、人間というものに対する信頼が生まれてくる。
僕は「お互い様」ですからと、笑って言えるような人になりたい。