庶民にとっては自分(とその家族)の生活が順調に営めるか否かが最大の関心事である。
そんなの当たり前じゃないか、という声が聞こえてきそうだが、意外とこの庶民の切実な思いは軽んじられているような気がする。
政治家・官僚どもに限らず、マスコミやインテリを自認する評論家やコメンテーターなど、社会を牽引していると思い込んでいる人たちにその傾向が強くみられる(市民運動にも垣間見える)。
僕たち庶民は、安心して暮らせる社会でさえあれば良いのだ。
いつクビになるか不安な状態では働きたくない。できればもっと多くの給料を貰いたい。
休日や有給休暇をもっと取りたい。
たまに外食や旅行のできる生活をしたい。
子どもには大学まで行かせてやりたい。
・・などなど、どれも至極真っ当な、当たり前の望みである。
このような希望はその内容は変われども、遥か昔から庶民が常に抱き続けてきたものである。
しかしながら、歴史を通じてみて、庶民の望みが叶えられた時代があったかというと、甚だ疑問ではある。
要するに、支配者や権力者が誰になっても構わないのだ。安心できる生活を保障してくれさえすれば、どの政党であっても、官僚が少々悪さをしていても一向に構わない。
庶民にとってイデオロギーは何の腹の足しにもならない。学生運動が短期間で下火になったのも、庶民感覚から離れた所での運動だったからである。革新政党が支持を得られないのも、口では庶民の生活が大切などと言いながら、不毛な党内イデオロギー抗争に明け暮れたからだ。
「人権」や「民主主義」もイデオロギーに過ぎない。絶対の真理ではない。これらを錦の御旗にしている政治運動や市民活動などがあるが、広く浸透していない。それは、庶民が鋭い嗅覚や肌感覚で、その欺瞞性に気付いているからだ。イデオロギーでは、庶民の心に響かないのだ。
庶民は決して愚かではない。
生活に根差していない政治を行ったりすると即見限ることになる。気前のいい言辞によってブームを巻き起こした者に対しても、実行力がなければ同様にすぐに見限る。あえて固有名詞は出さないでおこう。
だからといって自民党を信用しているわけではない。2009年の衆議院総選挙の結果を見ても分かるように、庶民がその気になれば、いつでも権力の座から引き降ろすことができる。ただ、民主党がもっと酷かったので、消去法かあるいは消極的支持で自民党が政権与党になったに過ぎない。もっとましな政治団体があれば、すぐにそちらに乗り換えるだろう。
これらが庶民のリアリズムである。
決して軽んじてはならない。
優秀な為政者はこのリアリズムを理解し、利用できた者だといえるだろう。
よくよく考えてみると、庶民にとって「民主主義」は利用価値のあるものではある。
かつての幕府や朝廷は支配者層が固定されていて、しかも世襲だったので、為政者を変えることは不可能に近かったからだ。
今の制度では上述したように、為政者の首を挿げ替えることができる。
「民主主義」というイデオロギーを心底信じているわけではなく、利用しているのだ。
これも庶民のリアリズムである。