僕はインテリゲンチャではない。
ただの一庶民である。
僕のような人間でもブログという手段で意見を述べることができる。
このような世の中には良い点と悪い点がある。
愚民論は無力になったインテリの悪あがきなのかもしれない。
初出 2014/8/24
現代社会は「大衆社会」であるという。
大衆社会の学術的な定義について僕は不勉強なのでよく分からない。イメージとしては反知性というかインテリゲンチャ層の影響力がなくて、自己の欲望を肯定しつつ知識やスキルがなくても社会に影響を及ぼす力を持つ大衆が主体の社会だというものだ。
こうした大衆社会への批判として「愚民」論がある。
為政者のプロパガンダにたやすく乗せられ、為政者の都合の良いように流される。
あるいはマスコミの報道を疑うこともなく受け入れる。
特定層が作り出した流行に飛びついてしまう。
自分の頭で考えることをせずに、他者の意見に左右される。
エリートとされる人たちに嫉妬し、蔑視する。
世の中はこれらのような愚民だらけとなり、愚民が暴走する社会となり、秩序が乱れることになるというのが愚民論である。
僕は愚民である。
大した知識やスキルもないくせにこのブログで自分の意見を主張している。
このような行為は愚民論者の最も嫌うものである。専門的知識がなくて指導的地位にもない者が社会に影響を及ぼすような行為をすることが愚民だという。特にネット社会が到来し各人自由に自己の意見を表明できる状況になると、愚民の暴走が起きるということになる。
民主主義はともすればポピリュズム(大衆迎合)に陥る危険性を孕んでいる。言い換えれば大衆が物を言い、力を持つことができる制度が民主主義なのである。大衆が愚民化し、かつ己が愚民であることを自覚せずに暴走するのは民主主義というイデオロギーが有するひとつの特質である。
さらに言えば、民主主義や人権思想は単なるイデオロギーに過ぎないのに、それらを絶対普遍の真理だと疑いもなく盲目的に信じているのが愚民の特徴だとも言える。
繰り返して言うが、僕は愚民である。
民主主義や人権思想を普遍の真理だとは思わないにせよ、それを転覆する「革新的」なイデオロギーには違和感を覚えている。なんだかんだ言っても民主主義社会が良いと思っているし、人のもつ権利は守られるべきだと思っている。
メディアに対する不信感と相半ばして多少の信頼を置いている。
僕が信用できると考えている論者の意見にはかなり影響を受けて、自分の主張や意見が左右される。
やはり僕は「愚民」である。
ただ、僕は「庶民」的感覚を常に持っていようと思っている。
愚民=庶民ではない。
同様に大衆=庶民でもない。
どのような世の中になっても、常に生き延びようとするリアリズムを持っているのが「庶民」だと僕は考えている。地に足の着いていないイデオロギーを決して信じないのも庶民である。
僕は庶民の立場からこのブログを書き続ける。
庶民のリアリズムを忘れることなく。
それを「愚民」の浅ましい行為だと言われるのならば、甘んじてその声を受け入れる。
庶民の心に響かない言葉ばかりを紡ぎ出すインテリゲンチャになるよりも余程まともなのだから。