戦前までの時期には政治家や官僚や学者等の家庭には「書生」がいた。分かりやすく言えば居候である。住むところと三食の食事を与えられ、主人の雑用をしつつ勉学に励み、いつかは世に羽ばたこうとする若者が多く存在していた。
また「食客」という人たちもいた。
これは客と居候の中間みたいなものであろう。
この食客として幾つもの家を渡り歩き、有力者の知遇を得ながら、世に出た人も多いらしい。
これらの「食客」や「書生」は、世に出る前の雌伏の時を過ごし、機会を待ち、何らかのきっかけを掴んで羽ばたいていったのである。もちろん、きっかけを掴めず、またチャンスをものにできずに埋もれていった人たちも数多いる。こちらの方が多数派である。しかし、一時でも夢や希望を抱いて、それらに向かって行動を起こせたという経験は何事にも変えがたいものだったと思われる。
僕はふと思った。
食客や書生的な生き方が一時的にできるようになれば、面白いのではないかと。
生活に余裕があり、他者に何かを伝えるものを持っている人たちがかつての食客や書生的な居候を迎え入れるようになれば、少しはこの社会が変わるのではないか、と僕は思っている。
例えば家庭の経済状況が厳しくて大学に進学したくても難しいような子弟に対して、住居と食事を提供し、時には小遣いを与えながら、その家の雑事を負担させる。使用人ではなく、あくまで対等な関係である。いや、対等でなくても落語家等の「内弟子」のように、師匠と弟子に近い関係でも良い。
居候を置いて、その人たちを食客や書生的に遇することは立派な社会貢献だと思う。
会社の経営者や幹部が自ら遇した居候の能力を認めて自社に採用しても良い。雑事の処理の仕方や日常生活で頻繁に接しているうちに感じ取った人柄が分かるのだから、しょうもない面接なんかで判断するよりは確かなものとなる。
僕は戦国時代から明治・大正・昭和初期を舞台にした小説を読んでいて、時折登場する書生や食客に憧れに近い感情を抱いていた。緩やかな師弟関係や義兄弟の関係に憧憬を抱いていた。
時代錯誤だと言われるかもしれないが、それらの根底にある人と人とのつながり、絆は現在においても大切なものであると思う。
僕は万が一自分の生活に余裕が出来れば、居候を置いてみたいと思っている。かつての食客や書生として遇するような。あるいはシェアハウスを運営してその「親方」みたいになりたいとも考えている。いや、親方でなくてもただの「おじさん」でもよい。
その時は一見役立たずに見える居候でも結構である。
人はみな生きる価値がある。
役に立とうがそうでなかろうが関係ない。
僕には後世に伝えることが出来るものがない。
ならば、次代を担う人たちにわずかばかりでも何かを残したい。
僕のささやかな夢である。