希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

弱い立場にある人を救済しないと、その共同体の存続は危ういという件〈再掲〉

社会システムは弱者をベースにして設計しないとその社会は弱体化するように思う。

共同体は弱い立場にある人たち(幼児・高齢者・障碍者・病気にかかった人等)を内包する性質を有するものだからである。

 

初出 2018/7/26

 

病気や加齢や失業、障害を負うことによって弱い立場に置かれた人たちを救済する、いわゆる社会保障セーフティネットについて語るとき、個人の尊厳や人権にフォーカスすることが多い。この視点の危ういところは、社会保障の拡充や整備を快く思わない人たちがすぐに自己責任論にもっていくところである。失業や病気(時として加齢や障害についても)は自分で責任を負うべきものであり、個人の救済は不要とする論である。

セーフティネットを拡充すべきという立場で語るときもついつい「個人の権利」ばかりに目がいってしまい、反対派の「権利あるところには責任が伴う」という反論に足を掬われてしまうことになる。

そこで、弱い立場にある人たちを救済する根源的な理由としては、人々が属する共同体の存続のためにはそれが是が非でも必要である、という視点から考えてみる必要がある。

 

共同体や組織を強化するためには、その成員を屈強な人、賢明な人、勤勉な人、忠誠心のある人のみで固めればいいと考えがちである。いわば「強い」人たちを集め、そういった強い人たちばかりで共同体を構成すれば完璧な共同体が作れるというわけである。

ところが、実際はそのような一見強そうな組織や共同体は危急の際には脆くてすぐに崩壊することが多い。過去の歴史はこのことを雄弁に物語っている。

共同体のシステムの内部に弱者救済の仕組みを埋め込んでおかないと、危機的状況に陥った時にそのシステムは機能しなくなるのである。

 

国家にしろ、会社にしろ地域コミュニティにしろ、人の集まる共同体では弱い立場にある人たちの居場所を確保しておくことが、その共同体の存続のための有効な戦略となる。

古代の人類の遺跡から全ての歯を失くした老人や身体に障害があったと思しき遺骨が幾つも発掘されている。現代に生きる僕たちは狩猟採集生活を送っていた古代人の社会では歯を喪失したり(固い食物が食べられない)、障害を負ったり(狩猟に参加できず、移動にもついていけない)すればそれらの人たちは見捨てられて野垂れ死にしたと考えがちである。しかし、そういった人たちの遺骨が発掘されているということは、集団の中で見捨てられずに助けられて生き永らえていたと推測される。

古代人は自分たちが属するバンドを存続させるために、一見足手まといに見える老人や障害を負った人を助けて、バンドの成員全員が生き延びることができるようなシステムを採用したのである。

そして、人は弱っている人たちを見捨ててはおけないというメンタリティを本質的には有しているのである。

 

共同体はその成員の中で最も弱く、非力な人たちであってもフルメンバーとして、尊厳を保たせながらそれぞれの立場で責務を果たすことができるように制度設計されなければならない。このことは先人が僕たちにもたらしてくれた大いなる智慧である。

この先人からの智慧を具現化したものが、社会保障制度であり各種のセーフティネットである。

社会保障制度やセーフティネットを権力者の都合や利権のあるなしで骨抜きにして、個人や家族に弱者救済を押し付ける所業は先人の営みを全否定する愚行である。

 

社会の中で弱い立場に置かれた人たちを救済するための制度やシステムは個人の権利を守ったり、個人の尊厳を保つためだけにあるのではない。

僕たちが属する共同体(国家・地域コミュニティ・職場・学校等)を存続させ、崩壊させないためにこそ、それらはある。 

「消費者マインド」だけに偏っている人が多数派になると社会が歪になるという件

僕たちは大抵は「働く人」という顔と消費者という顔を持って生活をしている。

資本主義システムの下では、特に消費者マインドが肥大する傾向がある。

人の欲望を煽る広告が世にあふれ、経済成長をするためには人はまず「消費者」であれという圧力に常にさらされ続ける。

 

大多数の人たちは物心つく頃から消費者マインドを身に着けている。最小の対価をもって最大の価値をもつ商品やサービスを手にすることが賢明な消費者だとの刷り込みがなされているのである。

このこと自体は別に悪いことではない。

資本主義の世の中を生きていくには必須の心構えであるからだ。

しかしながら、あらゆるものに対して消費者マインドばかりを前面に押し出すと、いささか不都合なことが起こる可能性が生じてくることもある。

 

特に教育については消費者マインドに偏った対応をすると、教育の意義が損なわれる危険性があるように思う。

繰り返しになるが、消費者マインドとは、最小の対価を持って最大限のサービスを受けることが正しい選択となる。あるいは合理的な選択となる。

教育に当てはめると、最低限の学びで、最大の受益(成績の向上や志望校の合格、卒業して学位を受ける等)を得る態度が賢明なものとなる。

確かに受験勉強という限定されたものに関して言えば、当てはまる面もあることにはある。

しかし、「学び」の本義とは自分が何を知らないかを知り、未知のことを学ぶことによって自分がどうなるかも分からないことを知ったうえで、学び続ける、というものである。それは消費者マインドからは随分とかけ離れたものである。

 

言い換えれば、「学び」とは合理性や効率性を無視したもの、「余計なもの」をも包摂して学ぶものである。

仕事に役立つ知識のみを最短距離で合理的に身に着ける営為は一見「学び」であるかのように見えるが、実は似て非なるものである。同様に志望する高校や大学に合格するだけの学力を最低限の勉学で身に着ける営為も「学び」とは似て非なるものである。

「学び」や教育と消費者マインドとは相容れぬものなのである。

 

また、労働環境の劣化も消費者マインドの高揚と相関関係がある。

賢いとされる消費者はできるだけ安くて高品質な商品やサービスを購入するという行為を選択する。供給する側の企業もこの消費者マインドに則った行動を採ることになる。

コストを下げる圧力が常に企業にはかかることになる。そのための手っ取り早い方法が人件費の圧縮である。

消費者マインドに寄り添った行動を企業側が採れば採るほど、働く人たちの処遇は劣化の一途を辿ることになる。結果、消費者としては暮らしやすいが、労働者としては生きづらい社会となるのである。

 

消費者マインドのみに偏ると、そのしわ寄せが自分に襲い掛かることになる。

だからといって、現行の資本主義体制に適合した消費者マインドを捨て去ることはできない。

消費者マインドに偏った弊害をどうすれば正すことができるのか、僕にはその処方箋が分からない。

ただ、言えることは僕たちは消費者の顔だけを持っているのではない、という自覚を持つことも時には必要だということだ。

合理的で賢明だと一見思える消費者マインドも、絶対的に正しい行動様式だとは言い切れないと、時には内省することでそれのブレーキをかけること。

それだけでもちょっとだけだけれども、何かが変わるかもしれない。

 

何でもかんでも「民営化」で解決すると考えている輩はバカであるという件

新自由主義的な価値観が世を覆ってくると、経済効率でしか物事を考えない輩が跋扈するようになってくる。

経済効率でしか物事を考えないということは、すべてのことをビジネスの論理でとらえることである。ビジネスの論理を絶対視する人たちが多くいるが、それらの人たちが有する価値観を具現化した最たるものが公的施策の民営化である。

 

社会資本事業や医療・福祉・教育等は本来はビジネスの論理に馴染まないものである。

国家や地方自治体が公費をもって公共の福祉のために行う事業である。国家や自治体は公共の福祉に資する事業を行う責務がある。そのために僕たちはない袖を振って税金を払っているのである。

 

様々な事業で民営化に馴染むものとそうでないものがある。競争原理が働く分野では民営化という手段は有効なものとなりうる。国鉄電電公社等の民営化がそれにあたる。

医療や福祉や教育といった分野では私企業と国家や地方自治体が「棲み分け」をして、互いに補完しあってこそ、その役割が果たせることになる。

社会資本に至ってはそのほとんどを民営化をしてはならないものである。

生命維持のために不可欠な水道事業の民営化なんて愚の骨頂である。

 

民営化とは言い切れないが、事業を民間に委託して失敗した例として精神科病院が思い浮かぶ。

この国の精神医療は他の先進国に比して大幅に遅れていた。戦前は自宅監置(座敷牢)が認められていたほど精神科病院の絶対数が不足していた。そして、戦後精神病患者を「収容」するために民間事業者に精神科病院を運営することを委ねることになった。

他科の病院と比較して医師や看護師の人員配置の基準を低く抑え、その結果「安かろう悪かろう」の精神科病院が林立することとなった。現在問題となっている「社会的入院」の根源はそこにある。

 

民営化とはビジネスの論理をその事業に適用することである。それは人件費や仕入れ等のコストを低く抑え、売値を高く設定して利益を出すことである。

公益性の高い事業にビジネスの論理を当てはめてしまえばどうなるか。

結局は採算の取れない領域でのサービスが低下し(時には撤退し)、受益者の利益が毀損されることになるのは火を見るより明らかである。

 

公益性の高い事業の民営化を殊更に唱える者は、それによって利益を得て既得権を作り出そうとしている輩である(例えば竹中平蔵のような)。あるいは国家や地方自治体の責任放棄を自己正当化しようとする輩である。

あるいは本当に民営化が問題解決のための有効な手段だと新自由主義イデオロギー

妄信している思考停止状態に陥っている輩である。

 

民営化をすれば事足りるという考えは、それ自体がひとつのイデオロギーと化している。

僕はそんなイデオロギーの犠牲者にはなりたくない。

それに抵抗する有効な手立てはないのかもしれない。

しかし、自分なりにあの手この手を使って抗っていきたい。

家族を解体するように誘導して、すべての責任を家族に押し付ける愚、という件〈再掲〉

家族に社会保障の代替をさせるように代々の自民党政権は誘導している。家族の機能を解体させるような政策を採り続けているのにも関わらずである。

新自由主義的な政策の負の面のツケを解体されつつある家族に担わせようとしている。

これほど矛盾を孕んだものはない。

 

初出 2018/7/5

 

殊更に「家族の大切さ」を説く人たちがいる。

自称保守派、民族派といった右寄りの人たちである。

自民党政権は代々家族というものに固執してきた。

高齢者介護、障がい者のケア、育児、教育といった問題の解決を家族に押し付けてきた。

 

近代以降、「個の確立」を押し進め、自己責任・自己決定イデオロギーが絶対善とされてきたが、それは地域共同体からの離脱を図ることとなった。同時に家族の解体を促す要因ともなった。

さらには資本主義体制の純化がそれをさらに促していった。

 

具体的な話をすることにしよう。

例えば家電製品のテレビ。

家族が仲良く過ごしていると居間に一台テレビがあれば事足りる。それでは需要がすぐに充足されてしまう。では家電メーカーは何を望むか。家族がバラバラになることである。ひとつの家の中で家族が自分の部屋を持ちそこに籠ることである。そうなれば、家族のひとりひとりがテレビを欲することになる。あるいは子供がある一定の年齢になれば、家族から離れて住むようになるように仕向けることだ。世帯単位の人員が少なくなればなるほど、ひとり暮らしをする人が増えれば増えるほどテレビは売れることになる。これは冷蔵庫や洗濯機等についても同様である。

 

資本主義体制の社会では大家族は悪なのである。

極端な話、核家族(しかも家族の成員がそれぞれバラバラの)とひとり暮らし世帯が増えることが都合が良いのである。

家電製品に限らず、様々なサービスが(たとえば家事代行サービス)旺盛に消費されるためには家族の単位が小さくなりかつ家族の成員がバラバラになればいいのである。

個人が良き消費者となるためには無償で提供される家族内の家事提供が障壁となるわけである。

 

近代社会の支配的なイデオロギー個人主義、自己責任・自己決定等)と資本主義の論理は家族の解体を促すことになる。この流れを完全に覆すことはかなり困難である。

ならば、従来家族が担っていたとされるもの、介護や育児、看護等は社会全体で担う方向に進めなければならない。社会保障の拡充を図るべきとなるはずである。

しかし、この国ではそうはなっていない。

介護の分野では介護保険制度が導入されて久しいが、そのサービス内容は質量ともに不十分である。

医療の分野では、在宅医療が推進されているが、これは表向きは住み慣れた家で療養することで個人の尊厳を尊ぶということになっているが、実際は医療費の削減を図るものである。

保育所の待機児童の問題は解決されないままでいる。

要するに資本主義の論理を突き進めて家族の解体を図り、様々な問題が生じたらこれまた資本主義の論理でその解決を家族に押し付けているのである。

 

新自由主義を信奉する人たちは公的な社会保障制度が人心を荒廃させ、社会システムを壊すと主張する。

保守的な陣営に属する人たちは家族が大切であり、社会的な問題については家族が担うべきだと主張する。

これらは明らかに矛盾している。これに気付かないのはなぜだろうか。

あえて問題の根底にあるのを隠蔽しているか、あるいは本当に矛盾に気付かないほどに知的な劣化が起こっているのかである。

 

現行の資本主義体制を受け入れている限り、家族の解体という流れを押しとどめることは困難である。社会保障の拡充にも限界がある(しかも現政権は社会保障の切り下げを志向している)。

どうすればいいのか僕には分からない。

ただ、今の社会システムは家族を解体させる圧力が働いているということを自覚するしかないように思う。そのうえで自分なりの家族観を持ち、自分ができうるかぎりの自助努力を果たすしかないように思う。自分がどれほど家族を大切に思うかということである。決して「上から」の「家族は大切」というイデオロギーの押し付けに屈せずに。 

「苦労の押し付け」をする輩はみな老害であるという件

この社会では未だに根性主義や精神主義が蔓延している。

「やる気を出せ、やる気を見せろ」とか「やる気があれば何とかなる」といった類の言葉を浴びせられた人は多いと思う。

 

度が過ぎた精神主義は思考停止の状況に陥ってしまう。また、実証性や客観性を軽視する反知性主義へと至ることにもつながる。

 

僕が若い頃、先輩や上司といった年長者からたびたび「苦労すること」を押し付けられた。意味のない長時間の残業や理不尽なクレーム対応など、それらが意味のあることでそれらをこなしてこそ成長するんだと教え込まれた。また、一見つまらなさそうに見える仕事にも意味があって、疑いを持ってはいけないとも言われた。

今となっては長時間の残業なんて単なる時間の浪費だし、つまらない仕事は無意味だったと断言できる。

 

なぜ、多くの年長者は若年者に苦労を押し付けたがるのか、僕には理解できない。

僕ならば、年長者の智慧を活かし、いかに効率よく無駄な回り道をしないで成果を出すかを若い人たちに伝えようとするだろう。苦労が成長につながるなんて根拠のない戯言である。

 

昨今のスポーツの領域において、結果を出しているチーム(駅伝の青山学院やラグビー帝京大学等)は従来の体育会的な指導法から脱し、またきつい上下関係を廃しているという。科学的なトレーニングを重視し、しごきや長時間に及ぶ練習をやめて、それによって良い結果が出ている。

スポーツの世界では長い間精神主義が蔓延していた(今も残っている)。

しかし、一部でそれらを変えて、楽しみながらスキルを上げようとする流れが出てきている。これは良い傾向であると思う。

スポーツ以外の他の領域でも、この流れが加速すればよい結果が出ると思う。

 

「苦労は買ってでもしろ」という言葉はもう死語にしてもいい。

そもそも、ある目標に達するまでのプロセスを納得してしていれば、苦労だなんて感じることはない。それを苦労していると感じているということは、どこかに無理があるということである。

 

苦労の押し付けをしたがるオッサン連中が絶滅種になれば、この社会の未来は明るいものとなるはずである。

まだまだこの手の連中は数多くあちらこちらに棲息している。現在の閉塞感をもたらしているひとつの要因はこの手のオッサンが社会のあちらこちらに居座っているからである。苦労の押し付けが好きなオッサン連中を一気に排除するのは可哀そうなので(彼らはは居座ろうと強く抵抗するはずである)、旧来の価値観を変えるような流れを地道に作り上げるような営為を続けるよりほかに手立てはない。

 

僕は苦労の押し付けをするようなオッサンにならないように心しておかなければならないと強く思っている。

別に若者に迎合するわけではない。

自分がされて嫌なことはしない、ただそれだけのことである。

老害にだけはなりたくない、ただそれだけのことである。

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