希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

仕事を最優先することが当然のことなのか、という件〈再掲〉

僕は「仕事だから」と言って友人との約束をキャンセルしたりデートをキャンセルすることが当然という風潮が嫌いだった。

私生活は仕事と同等のものである。

仕事に最上の価値があり、そういう考え方が当たり前だとされる社会は僕にとっては生きづらい。

 

初出 2016/10/11

 

僕はこのブログで仕事は人生の一部に過ぎないと何度も主張してきた。僕にとっては人生=仕事という考え方はどうしても受け入れがたいものなのだ。

とは言え、生活を成り立たせるため、社会とのつながりを保つためにも何らかの形で仕事をしなければならない。仕事によって得られるものはカネだけではない、と分かっているつもりだ。

 

問題は仕事の優先順位をどこに置くかである。

プライヴェートとの兼ね合いをどうするかということだ。昔は「親の死に目にも会えない」ほどに自分の仕事を優先することが称賛されていた。配偶者や子どもが病気であろうと子どもの学校行事があろうと、そんなことはあくまで私用であって仕事の方を優先すべきだとのコンセンサスがあった。今はそのような考え方は緩んでいるように感じられるが、僕が社会人になった頃は仕事を最優先すべきだとの考え方は随所に生きていた。

あるときに僕は有給休暇を取ってガールフレンドとデートをしたのだけれども、運悪く二人でいるところを同僚に見つかって気まずい思いをしたことがある。この「気まずい思い」をすること自体僕が仕事最優先の考えに毒されていたことを表している。

この国では未だに有給休暇の取得率が低い理由は、仕事最優先主義的な考え方が根強く残っているからだといえる。

 

僕は今はこの仕事最優先主義的なものの考え方を取っていない。私用と同じ程度に見ているかあるいは私用を優先することもある。

雇われて働いている場合、自分ひとりが休んでも会社の業務に大した支障は起きないものである。社員ひとりが休んだくらいで業務に支障が出るような会社はマネジメントがなっていないだけの話である。休んだ社員に責任はなくて、経営者や上司に責任がある。

 

仕事最優先主義の考え方はサラリーマンに甘えを植え付けることにもなる。仕事さえしていれば他のことはどうでもいいという甘えだ。家庭のことや社会の様々な問題から目を背けてそれで事足れりとする「社畜」「会社人間」と呼ばれるサラリーマン根性の塊と化すのだ。このことはサラリーマンには限らない。フリーランスや職人的な仕事をしている人にも当てはまる。「仕事一筋○○年」なんて人たちが世の賞賛を集めることがあるけれども、僕からすれば「仕事しか」してこなかった極端に偏った人にしか見えない。仕事にのみ注力していれば人間的にも成長するなんて単なる幻想である。

 

仕事を最優先することが当たり前だと考えている人たちがどれほどの多数派なのかは分からない(少数派ではないことは確かだ)。

僕は仕事を最優先すると信じている人たち、あるいはそうせざるを得ない人たちを否定する気はさらさらない。労働を神聖視したり仕事が人生の最重要事だとの考えは資本主義体制が存続・発展するためにはなくてはならないものだからだ。

しかしながら、僕はこのイデオロギーに抗いたい。

仕事は確かに重要視すべきものだけれども、大切なものは他にいくつもあるはずだと、僕は信じている。

  

「働かざる者、食うべからず」は残酷な言葉であるという件

ニートやひきこもり、ホームレス等の人たちに対して「働かざる者、食うべからず」という言葉を持ち出して非難する人たちが未だにたくさんいる。非難するだけならまだましな方で、支援策など無用だとかひどい場合には野垂れ死にしてもやむを得ないという極論を吐く輩もいる。

先人たちが血と汗を流して獲得した「生存権」という権利は不可侵のものだと僕は思っている。僕は人権思想そのものはひとつのイデオロギーに過ぎず、神聖視するのはいかがなものかという考えを持っているが、こと生存権に関しては絶対的なものだととらえている。

 

世の中には働けない人、働かない人が必ず一定数存在する。分かりやすいところでは、高齢者・障がい者・重い病気の人、子ども等々である。これらの人々に対してはさすがに「働かざる者、食うべからず」と言いたがる人たちも何らかの社会保障公的支援策が必要だと認めるだろう。

これらの「分かりやすい人たち」に対しては手を差し伸べることが当然という考え方は一見真っ当なものである。しかし、この考え方は国家や自治体、コミュニティが手を差し伸べるべき人を「選別」することにつながる危険性を秘めている。例えば劣悪な労働条件下で働き続けて心身に病を抱えて働けなくなった人たちはどうなるのか。弱った体に鞭打って仕事を探して再就職しようとしている健気な人には支援をして、働く気がない人たちは放置する、ということになりかねない。どちらも生活に困っているのに、選別するということは果たして正しいことなのだろうか。

 

ニートやひきこもりのように働けない人にとって「働かざる者、食うべからず」という言葉は残酷なものである。この言葉は一見真っ当でケチのつけようのない正論であり、反論することすら憚られる。

しかしながら、「正論」を無条件・無批判に受け入れ思考停止することはとても危険なことである。そんな風潮が蔓延している社会はロクなものではない。

労働至上主義、勤勉至上主義がはびこっているこの社会では、この正論を振りかざし悦に入っている者がマジョリティとなっていて、「働かなくてもいい」なんて言葉を吐くと異端視され、ひどい場合には排除されてしまう。まるで人は働かなければ生きている価値がない、とでも言いたげに。

 

人は無条件にその存在を肯定される、と僕は思っている。たとえ働かないでいようが、一見無為な時を過ごしていようが人は生きていても構わないのだ。働いているから生存を認められる、あるいは他者から生きる価値があると認められるから生存を許されるなんてことは絶対にない。

「働かざる者、食うべからず」という言葉が死語になった社会が誰にとっても生きやすい、寛容さがあり、健全な社会である。

もう少しだけ「学歴」の話をしようと思う件(高校編)

僕は学歴至上主義者ではないが、やはり学歴に関してはこだわりがある。

仕事を得る際には「選別」を受けざるを得ないけれども、その基準として学歴を用いるのは悪いことではない。家柄や生まれ、あるいは階級などを基準とする社会よりはよっぽどましであると考えている。

 

僕が学歴というものを意識し始めたのは高校入試のときである。僕は公立高校で家から近いところに行きたかったのだけれども、当時の担任や周囲の人たちは学区のトップ校に是非に行くように僕に勧めたのだ。

僕はそのトップ校に憧れを持っていたけど、いざ入学してついていけるのかが不安だった。中学校の時には塾にも通わず、予習復習の習慣を持たないままやり過ごしていたので、急に日常生活に勉強が入り込む生活が想像できなかったのだ。

 

なんだかんだで結局僕は学区のトップ校に進学した。

入学してからしばらくはカルチャーショックの連続だった。

まず、授業をクラスのみんなが静かに聞いていることに驚いた。僕が通っていた中学は校内暴力の嵐が吹き荒れていて、半分くらいの授業が成立していなかったからだ。

次に授業の進度が、特に数学と英語のそれが異常に早かったことである。1年生の2学期の途中までに1年生の内容をすべて終わらせる進度だった。

それに加えてそんな進度の早い授業にほとんどの生徒が難なくついて行っていて、先生からの質問にすらすらと答えていたことも驚きだった。

僕は「えらいこっちゃ」と思い、英語と数学は予習するようになった。そうしなければ授業についていけなかったからである。僕は生まれて初めて毎日家庭学習をするようになったのである。

 

僕が入った高校は明治時代に創立された旧制中学であって伝統校で進学校であった。ただ、大阪の郡部に位置していたので大阪府のトップ校(北野高校や天王寺高校のような)ではなくローカル進学校ではあったけれども。

大阪の公立のトップ校はどこも自由で生徒の自主性を重んじる校風である。僕が入った高校も自由で校則らしいものもほとんどなく、居心地の良いところであった。勉強も強制されず、よく言えば「自由放任」悪く言えばほったらかしであった。そのことによって僕の学校嫌いはかなり矯正された。

 

かの高校の良いところは、文化祭や体育祭のような行事に真剣に取り組むことであった。これらの行事の前には夜遅くまで残って準備をしていた。たとえ大学入試を控えている3年生であってもその期間は勉強を犠牲にしても文化祭や体育祭を盛り上げることに注力する生徒が多かったのである。

僕はこの点にトップ校・伝統校の美点があり、また矜持が存するように思う。

勉強に限らず、物事に取り組む「意欲」が高いところがキモなのである。

大学への進学実績が高いことや社会に出てリーダー的な存在になる生徒が多いのは単に学力の差だけではなく、このような「意欲」、物事に取り組む姿勢の差によるものなのである。

僕の友人たちを振り返ってみても、いわゆるガリ勉タイプの奴は皆無で、適当に勉強をして、適当に遊んでいるような奴らであった。クラブ活動に熱心に取り組んだり、ちょっと難解な本を読んだり、映画や音楽に熱中したり、と決して勉強オンリーの高校生活ではなかったのである。

 

僕は何も自分の通った高校自慢をしたいわけではない。

僕は運良く良い高校に入れたこと、そこでナイスな友人たちと出会えたことをただ感謝しているのだ。僕の人生に多大な影響を及ぼしていることを今になって再確認している。

学歴と言えば出身大学を問われることが多いけれども、出身高校がどんなところであったか、どのような高校生活を送ったかも重要なことなのである。

 

僕は100%の高校生活を送れたわけではないけれども、なかなかに素敵な高校生活だったと今も思っている。

今の僕の「自己肯定感」はこの高校時代に育まれた部分が多い。

今はビンボー生活を送り続け、ダメ人間まっしぐらの僕ではあるけれども、何とかプライドを保ちながら、自分を見失わずにいられるのも、あの高校3年間があるからだ、と確信している。

遅刻に殊更厳しく、時間厳守ばかりが問われる社会は息苦しい、という件

社会人としての最低限のマナーとして時間厳守がある。時間にルーズな人はなかなか信用されないようになっている。

 

会社や役所に勤めるようになると、あるいはアルバイトやパートでも、始業時間までに必ず出勤しなければならない。酷い職場では始業時間の30分前や1時間前に出勤することが慣習になっていたりする。これは当然にサービス残業である。

どの職場においても遅刻は厳禁である。一部フレックスタイム制等の例外はあるが、遅刻は制裁の対象となる。特定の業種に比較的「ゆるい」職場があるにはあるが、一般的には始業時間の管理は厳しくなされている。

 

欠勤については遅刻以上に厳しい対応がなされる。急病等のやむを得ない理由による欠勤でも普通の感覚を持っている労働者ならば肩身の狭い思いをする。無断欠勤でもしようものならば、まるで罪人のような扱いをする。

会社組織の管理運営上、遅刻や欠勤を戒めることは理に適っている。遅刻や欠勤が野放しにされていたら企業活動の効率性が悪くなるのは自明のことである。統制が取れなくなるのは致命傷にもなりかねない。

 

ここまで述べてきたことはあくまで会社側経営側にとっての理屈である。労働者は働きたくないときでも所定労働日ならばイヤイヤでも仕事をしなければならない。例えば、ある程度の期間の生活費を賄えるほどの賃金を確保したから、残りは仕事を休むという選択はできない。尤もこれは正社員の話であり、パートや派遣等の非正規雇用ではできない相談ではない。

日雇い的な働き方では、ある程度のカネができれば仕事をしないという手もある。その日暮し的生き方だ。ただ、世間ではその日暮らしをする人たちはネガティヴな評価を受けやすい。怠け者だの意欲がないとかの言葉が投げかけられる。

 

戦前までの社会では、一部のホワイトカラーの「月給取り」を除いて、渡りの職人や工員は日給で働いていた。今で言う不安定雇用層が大企業の現場職や中小企業の社員の主力層であった。

当時は欠勤や遅刻など日常茶飯事だったのである。また当時の現場では「親方制」を採っていて親方が仕事を請け負う体制が主流であった。労働者を直接統制するのは親方であり、会社が直接に労務管理を行う体制になったのは戦時中である。

親方たちは請負業務を完遂するために色々な手段で労働者を働かせるように仕向けることになる。いちいち欠勤や遅刻を詰っていては、他の職場に移ってしまう。おそらくは欠勤者がいることを前提として、人員のやり繰りをしていたものと考えられる。皆勤手当や歩合給等の上乗せ分を支払って、労働者のやる気を引き出したりした。

 

労働基準法の規定では、遅刻や欠勤に対する制裁が明文化されている。遅刻の時間分や欠勤分の賃金控除以外に1日の賃金相当分の50%を上限(一賃金支払期の10%を上限)として制裁を行うことが認められている。この規定以上のペナルティを課せば労基法違反となる。

つまり、遅刻や欠勤は強い表現を用いれば「処罰」の対象となることが、法律上(労基法上)担保されたことになる。

また、遅刻や欠勤が度重なれば懲戒解雇をなす正当な事由ともなる。

 

労働者は遅刻する「権利」や欠勤する「権利」は認められていないことになる。

さらに言えば、「怠惰の権利」「怠ける権利」が否定されていることになる。辛うじて年次有給休暇の権利が認められている。

労働者にとって、遅刻や欠勤は「悪」であるとの価値観を植え付けられることになる。

現行の資本主義体制において、労働者は「勤勉」さを求められていて、極言すれば体制に従順であることを求められている。学校教育においても体制に従順な人たちを生み出していくことが求められている。

まあ、当たり前といえば当たり前の話である。

しかし、ひねくれ者の天邪鬼である僕からすればまことに面白くない。

たかだか遅刻や欠勤しただけで罪人扱いされるのは息苦しいしゆとりのない社会だと思ってしまう。

労働条件や労働環境の改善を要求する手段として、職場の労働者が一斉に遅刻するという企てもなかなか面白いし痛快だ。

 

たまの遅刻や欠勤にいちいち目くじらを立てることは、あまりにも狭量である。

休まずに遅れずに働き続けることが尊いという価値観に違和感を覚える僕は、単なる怠惰な人間でダメ人間なのである。

 

   

働きたくないと思うのはある意味まともであるという件〈再掲〉

僕は雇われて働くことを忌避している。

典型的な怠け者のダメ人間である。

このブログはそのような自分を正当化するために書いているのかもしれない。

 

初出 2016/10/4

 

僕はこのブログでたびたび働きたくないと公言している。「仕事」をすることは嫌いではないけれども、雇われて働くことがたまらなく苦痛なのである。

世間の常識や良識からすると「働きたくない」と口にすることは自殺行為である。働きたくないと思っていることがバレてしまうと即「使えない人間」「怠け者」といったラベリングがされ人に非ずと非難されることになる。

 

世のサラリーマンは本当に働きたくないとは考えていないのだろうか。例えば宝くじで数千万、数億円というまとまったカネが入っても働き続けるのだろうか。たとえカネがあったとしてもブラブラしていたら世間体が悪いので働く、といった感じになるのだろう。

労働至上主義的な考え方が根付いているこの社会では働くことに拒否反応を示す人たちを異端視し時には排斥する。

 

僕のようなダメ人間でも働くことによって得られるものがあることは重々承知している。自分で稼いだカネで生計を維持することができると一人前になったなという感覚になる。働くことによって自分の居場所を確保できるという側面もある。

しかしながらである。

労働者として働くことによって失われるものがあまりにも多すぎる、と僕は思ってしまう。

わずかばかりの賃金と引き換えに自分の時間と精神、肉体を会社に差し出さなければならない。会社に生殺与奪を握られて会社に対して隷属的な立場に陥ってしまう。有体にいえば、自分の「自由」を奪われ、自分の「自由」を差し出すことによってようやく自分の立ち位置を確保できる。「安定」という幻想に縋りつきながら。

 

僕は自分のナリワイをきちんと持って仕事をしている人たちに憧れている。たとえ収入が不安定であろうと、仕事がいつ無くなるか分からない不安定さがあろうとも、雇われて働くよりは人間らしい生活であると思う。

かつてそう遠くない昔では、人々は自分のナリワイを持ち自律的に働いていた。会社や工場や役所等で働くことが多数派になったのは最近のことである。会社等に雇われて働くことが自明のものになった歴史はごく浅いものである。

僕は昔に帰れと言いたいわけではない。僕のように雇われて働くことを忌避している人間が生き延びることができる隙間みたいなものがあればいいと思っているだけだ。

 

僕は世間から後ろ指をさされることを承知で言いたい。

働きたくない、と思うのはまともな神経を持っているからだと。

僕は確かにダメ人間であるし世間から少しズレた感覚を持っている。しかし、それがゆえに異端視され排斥されるいわれはない。

僕は自分が「まとも」であると信じている。 

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