僕は「仕事だから」と言って友人との約束をキャンセルしたりデートをキャンセルすることが当然という風潮が嫌いだった。
私生活は仕事と同等のものである。
仕事に最上の価値があり、そういう考え方が当たり前だとされる社会は僕にとっては生きづらい。
初出 2016/10/11
僕はこのブログで仕事は人生の一部に過ぎないと何度も主張してきた。僕にとっては人生=仕事という考え方はどうしても受け入れがたいものなのだ。
とは言え、生活を成り立たせるため、社会とのつながりを保つためにも何らかの形で仕事をしなければならない。仕事によって得られるものはカネだけではない、と分かっているつもりだ。
問題は仕事の優先順位をどこに置くかである。
プライヴェートとの兼ね合いをどうするかということだ。昔は「親の死に目にも会えない」ほどに自分の仕事を優先することが称賛されていた。配偶者や子どもが病気であろうと子どもの学校行事があろうと、そんなことはあくまで私用であって仕事の方を優先すべきだとのコンセンサスがあった。今はそのような考え方は緩んでいるように感じられるが、僕が社会人になった頃は仕事を最優先すべきだとの考え方は随所に生きていた。
あるときに僕は有給休暇を取ってガールフレンドとデートをしたのだけれども、運悪く二人でいるところを同僚に見つかって気まずい思いをしたことがある。この「気まずい思い」をすること自体僕が仕事最優先の考えに毒されていたことを表している。
この国では未だに有給休暇の取得率が低い理由は、仕事最優先主義的な考え方が根強く残っているからだといえる。
僕は今はこの仕事最優先主義的なものの考え方を取っていない。私用と同じ程度に見ているかあるいは私用を優先することもある。
雇われて働いている場合、自分ひとりが休んでも会社の業務に大した支障は起きないものである。社員ひとりが休んだくらいで業務に支障が出るような会社はマネジメントがなっていないだけの話である。休んだ社員に責任はなくて、経営者や上司に責任がある。
仕事最優先主義の考え方はサラリーマンに甘えを植え付けることにもなる。仕事さえしていれば他のことはどうでもいいという甘えだ。家庭のことや社会の様々な問題から目を背けてそれで事足れりとする「社畜」「会社人間」と呼ばれるサラリーマン根性の塊と化すのだ。このことはサラリーマンには限らない。フリーランスや職人的な仕事をしている人にも当てはまる。「仕事一筋○○年」なんて人たちが世の賞賛を集めることがあるけれども、僕からすれば「仕事しか」してこなかった極端に偏った人にしか見えない。仕事にのみ注力していれば人間的にも成長するなんて単なる幻想である。
仕事を最優先することが当たり前だと考えている人たちがどれほどの多数派なのかは分からない(少数派ではないことは確かだ)。
僕は仕事を最優先すると信じている人たち、あるいはそうせざるを得ない人たちを否定する気はさらさらない。労働を神聖視したり仕事が人生の最重要事だとの考えは資本主義体制が存続・発展するためにはなくてはならないものだからだ。
しかしながら、僕はこのイデオロギーに抗いたい。
仕事は確かに重要視すべきものだけれども、大切なものは他にいくつもあるはずだと、僕は信じている。