希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

中間管理職なんて本当に必要なの、という件

僕の職業生活の大半はフリーランス非正規雇用である。

正社員のサラリーマンとして働いた期間は長くはない。

そのサラリーマン時代にはロクな上司に当たらなかった。信頼に足ると感じた上司・管理職は2,3人程度で他は仕事以外では絶対に付き合いたくないと思うような人たちであった。

 

僕が公務員時代の最後の方で関わった直属の上司は最悪であった。

以前のブログにもちょっとだけ書いたけれども、この最悪な上司はまさに「昭和的な」労働観の持ち主だった。この上司は僕が前任者から引き継いだ仕事の効率化を図って残業を大幅に減らしたことに怒りを露わにし、様々な嫌がらせを僕にした。勤務時間内に決済印を押さない、退勤時間間際にどうでもいいような仕事を今日中にやれと振ってくる、などなど僕に残業させようとあの手この手を使ってきた。果ては「そんな仕事のやり方では出世できないぞ」と説教までする始末。この最悪な上司がいたおかげで僕は公務員に見切りをつけることができたので、今となっては感謝している。

 

僕の全くな個人的な経験だけを基にして僕の考えを表明するのはどうだかなぁとは思うけれども、やはり言いたいことがあるので言っておきたい。

「そんなにたくさんの中間管理職なんて不要だよ」と。

僕が正社員として勤めたのは役所(規模が大きい)と中小企業という両極端な組織であって、特殊なケースなのかもしれない。

僕が勤めた中小企業ではワンマン経営のところが多く、自分の意見がダイレクトに経営者に届いて、それはそれでよい面があった。しかし、経営者の意向がすべてだということでもあり、弊害もある。

 

やたらと中間管理職の多い会社は組織の維持にはうってつけかもしれないが、経営環境や社会の変化に対応できないし、さらなる発展がしにくいのではないか、と思う。全くの僕の独断と偏見ではあるけれども。

巷に流布する経営論等では分厚いミドル層こそが日本的経営が成功した要因であると述べられていた。一旦はこの論は衰退し、フラットな組織でないと会社は発展しないとなった。ところが、また中間管理職のポストを再び増やす傾向にあるという。

 

組織をフラット化し役職を減らすと、個々の管理職の仕事が増えて管理しきれないことになった、ということで再びミドル層の見直しが行われている。

これはおかしい。

部下に適切に権限や裁量を委譲できてないだけのことである。いや、部下に裁量を与えることで管理職の権限が奪われると思い込み、それができない無能な管理職が多いだけなのである。

また、中間管理職に就くことによって得られた好待遇を手放したくない、つまり既得権を手放したくないと考えている中間管理職たちが、屁理屈を並べ立てて自分の地位・既得権に固執しているのである。

また、中間管理職の数が多くなると「口出し」をする人が多くなり組織が硬直化する。下手をすれば「中間管理職たちを食わす」ために会社組織が存続することにもなりかねない。本来の意味でのマネジメントができる資質や経験を有する管理職だけがいれば十分なのである。

 

僕のような正社員としてのサラリーマン経験が少ない者が中間管理職なんて必要最低限でよい、殆どの中間管理職なんて不要だ、と言っても説得力はないのかもしれない。

しかしながら、サラリーマン根性に毒されていない、組織の論理に絡め取られていない(と勝手に自負しているだけだけれども)奴の言葉にも耳を傾けて欲しい。

 

「人権」はイデオロギーのひとつに過ぎないけれどもやっぱり大切なものという件

「人権」という概念はひとつのイデオロギーに過ぎない。普遍的な絶対的な真理ではない。人権思想を金科玉条とすると、「人権教」という宗教となり、人々はその教義に盲従するようになる。これはとても危険なことである。

 

僕は何も人権思想を否定しているわけではない。むしろ逆でとても大切な考え方だと思っている。ただ特定のイデオロギーを盲信することは危険だし愚かなことだと言いたいだけだ。

 

この国で基本的人権の尊重が広く受け入れられるようになったのは日本国憲法の制定以降である。戦前の明治憲法では「臣民の権利」という留保付きの人権が認められていたに過ぎない。国情が変化すると国民の権利は制限されたのである。人権思想が普遍的な真理のようなものになったのは戦後70年ほどの浅い歴史しかない。

 

僕は人権イデオロギーを「使い勝手の良い」概念だと思っている。一見普遍的な真理のような仮面をかぶったイデオロギーは様々な場面でその力を発揮する。

社会保障、特に生活困窮者の支援について考えてみる。

生活が困窮している人たちを助けるべきというコンセンサスは一応存在する。ただし、最底辺の労働者以下の処遇でも構わないという「劣等処遇」の原則を貫徹せよと考えている人たちは未だに多い。働かない人たちを怠け者だと断罪し、それらの人たちは野垂れ死にしても構わないという労働至上主義的なイデオロギーが未だに幅を利かせている。その労働至上主義的イデオロギーに対して「人権」という「強い」イデオロギーが社会政策を実施するうえでは必要となってくる。この強い人権イデオロギーによって人は誰でも人間に値する健康で文化的な生活を営むべきだという考えが導かれ、またその考えが正当化される。

この世知辛い世の中で何とか社会保障が実行され、生活困窮者が助けられているのは、生存権という強い人権イデオロギーに基づく権利が周知されているからである。

 

時折噴出する生活保護バッシングは生存権という強い人権イデオロギーに違和感を持ち、庶民の肌感覚としてある「働かざる者。食うべからず」という労働至上主義イデオロギーが顔を覗かせて、ふたつのイデオロギーがせめぎ合いを起こすことに端を発している面がある。

 

人権を錦の御旗に掲げて活動している市民運動に僕が違和感を持つのは庶民のリアリズムと乖離しているからだと思う。

また、これまで述べてきたように人権思想が単なるイデオロギーに過ぎないのに、「人権教」の信者となり何事も人権ありきという思考様式、行動様式を採る人たちに不信感があるからである。

社会運動は今、そこにある問題を解決するために行うものである。生きづらさを失くし、「生存」の危機を失くすためのものである。人権イデオロギーを広めるためのものでもなく、「人権教」の布教のためのものでもない。

 

ここまでつらつらと人権イデオロギーの負の面を述べてきたが、何だかんだ言って「人権」思想は大切なものであることには変わりはない。

人権イデオロギーを盲信するのではなく、ただ「使い勝手が良い」イデオロギーであると割り切ることも必要である。

この世に真の正義、普遍的な真理などないのだから。

真っ当な生き方をしなくても、楽しく生きていけるという件

世間で言うところの「真っ当な生き方」をしていれば大過なく人生を送ることができる。

世間との軋轢も避けることが出来るし、社会的信用もそこそこついてくる。

ある組織に帰属して「安定」した地位と待遇を受けていれば安泰だとかつては考えられていた。この組織は大きければ大きいほど良いとも思われてきた。

組織の一員としての自分、というアイデンティティを持つことが推奨されていた。自分という「個」を強く押し出すと、わがままだの扱い難いだのネガティヴな評価を受けるケースが多く見られた。

 

この社会は同調圧力が強く個人に圧し掛かる。

皆と同じがよい、横並びが普通でまともだと思われてきた社会である。

「意識の高い人」(良い意味で)は自分が抑圧され、能力が発揮できないと考え、ついには組織を飛び出すことになる。

僕のように意識の低い人間は違った意味で組織にい続けることが息苦しくなり、やはり組織から零れ落ちることになる。

いずれにせよ、両者とも「真っ当な」社会のレールから外れた生き方をせざるを得なくなる。

 

「真っ当」とされる生き方から外れても、そのことによって不幸になるわけではない。ちょっとだけリスクが高い生き方になるだけである。

起業したり、フリーランスになって成功すれば、組織人のときには考えられないような報酬や名声を得ることができる。一方で失敗すれば多大な負債を負う可能性もある。また、「安定」からは程遠い状態をずっと続けなければならない場合もある。

 

組織に留まって相対的に安定した生活を続けることが「真っ当な生き方」だと世間的に是認されている社会では、それを拒み違った生き方を選択することはいわば「逆張り」であるといえる。

当然にリスクは大きいし、不安定なものになりがちである。

成功する保証はどこにもない。

僕は公務員を辞めてフリーランスとして生きることを決めたときには、最悪の場合はホームレスになることを覚悟していた。まあ、実際はその当時は両親が健在でそこそこの生活レベルにあったので、何もかもを失った時には両親の許にやっかいになっていただろうけど。

 

僕はずっと「逆張り」の生き方を続けているわけだけど、意外と居心地が良いと感じている。確かにビンボー生活がずっと続いているけれど、悲壮感とは無縁である。少しばかりの「自由」があるのが何より嬉しい。将来はなるようにしかならないと、開き直っている。社会的な地位や信用は無きに等しいが、そんなものは屁でもない。

僕は「逆張り」の生き方を勧めているわけではない。真っ当に生きることが出来る人は、真っ当に生きた方が良いに決まっている。

真っ当に生きることは「王道」であると僕は思っている。

 

僕もかつては「真っ当に」生きようとしていた。自分にはそれが出来て当たり前だと思っていた。

けれども、どうも怪しいぞ、僕はダメ人間らしいぞ、と悟ったときに腹を決めて「逆張り」人生を進むことを決めたのだ。いや、違う、そうならざるを得なかったという方が正しい。

 

逆張り」人生もなかなかに面白い。  

僕はひきこもり体質である件〈再掲〉

僕は出不精であり面倒くさがりである。

だから意識しないとひきこもり的な生活になってしまう。

僕の場合の「ひきこもり」は病的なものではなく体質的なものである。

 

 

初出 2016/9/29

 

僕は短期間ではあるが何度かひきこもり生活を送ったことがある。その原因は不登校であったり、働くことに疲れてうつになったことである。

運が良いことに僕のひきこもりはこじらせることなく済んでいる。ある一定の期間をひきこもっていると「このままではいかん!」という気持ちが湧き上がってきて何らかの形で社会復帰の動きをし始めるのである。

ただ、安心してはいけない。

僕はどうやら「ひきこもり体質」らしいからだ。ちょっとしたきっかけでまたひきこもり生活に舞い戻る可能性を秘めている。

 

僕はかつてはこの自分のひきこもり体質を毛嫌いしていた。こんな調子ではまともな社会人になれないと恐れていた。社会での競争から脱落してしまい役立たずな劣った人間になってしまうと思い込んでいた。

僕は今では自分のことをダメ人間であると受け入れている。他者から怠惰な人間、やる気のない人間だと見られても何も感じなくなっている。馬車馬のように働き続ける人生に懐疑的になっている。人は働くためだけに生まれてきたのではない、との信条を持っている。

 

僕の全くの個人的な考えであるが、健全な(?)ひきこもり生活を送るためには「自己肯定感」が必要であると思っている。自己否定を伴い、社会を世間を呪ってのひきこもりはこじれてしまうからである。一度こじれてしまうと元に戻ることは困難となる。無理してこのどうしようもない社会に適応することはないとは思うけれども、何とか世間や社会と折り合いをつけて自分なりに楽しく生きていくためには少なくとも自分という存在を認める必要がある。

自己肯定感を持ち続けていれば、傍から見てどうしようもないような状況であっても悲観することはない。

 

僕はひきこもりやニート的な生き方をすべて肯定するつもりはないし、また全否定する気もない。もし、一生食うに困らない資産があるのならばひきこもりを続けても良い。

このエントリーはひきこもり問題の解決云々を述べるものではない。また、僕にはひきこもりやニートにかかる問題の解決を図るような意見を持ち合わせてはいない。

 

僕は自分がひきこもり体質であることを自覚してから、少しだけ生きやすくなった。親に多少の迷惑をかけても、親子関係が破綻するような事態に陥らないのならば、時と場合によってはひきこもり生活をしてもいい、と思えれば気が軽くなった。

母親には諦めてもらおう。

世に言う成功者とは縁遠い生活をしているこのバカ息子、ダメ人間の僕という存在を認めてもらおう。

 

何かの弾みでまた僕はひきこもり生活を送る羽目になるかもしれない。そのときは自己肯定感を失うことなく、心地よくひきこもり生活を送りたい。ただ、僕はまだ終わっていない、僕の人生はこれからだ、という思いを強く持ち続けながら。

 

なぜ生活保護の現場がうまく回らないのかという件

生活保護行政の第一線に立つケースワーカーの仕事はハードである。

僕がある政令指定都市の職員をしていたとき、同期生である何人かはケースワーカーの仕事に就いていて、その仕事の精神的負荷がいかに高いかを見聞きした。

僕はある区役所の国民健康保険を担当する課に配属されたのだけれども、そこでさえも日々の業務は精神的に疲弊するものだった。生活保護行政を担うケースワーカーの仕事は僕のいた国保の比ではない。

 

生活保護の申請をさせない「水際作戦」や強圧的な指導等で悪い評判が立ってばかりのケースワーカーだが、なぜ現場がスムーズにいかないのか、元公務員の視点で以下に述べていきたい。

 

本来はケースワークの仕事は社会福祉に関する専門知識を有する専門職である。大学や専門学校で社会保障制度、社会福祉に関する法令、ケースワークの技法等を学んだ人たちが従事することが望ましい。

僕が採用された市役所では大卒採用の同期生が100人前後いたが、殆どが行政職採用であった。社会福祉職採用は数人程度であった。これらの社会福祉職採用の職員の全員が生活保護を所管する福祉事務所に配属されるわけではない。児童相談所や母子福祉センター等の福祉関連部局に専門職として配属されることが多い。福祉事務所に配属される社会福祉専門職職員はわずかに採用された人たちの内のまた一部である。

実際は福祉事務所に配属されるのは行政職・一般職の職員である。

 

一般的に福祉事務所のケースワーカー社会福祉生活保護に精通し、カウンセリングやケースワーク技法を身に付けた職員であると思われがちだが、そのような職員は一部だけ(各自治体によってその比率は異なる)なのである。

ケースワーカーとして働く職員の多くは、前の職場では例えば住民税の取り立てをしていたとか、住民票を発行していたとかの「お役所的」な仕事をしていて、人事異動で仕方なく福祉事務所に配属されたというケースが多いのである。どの自治体でも福祉事務所は不人気の職場である。福祉専門職ならともかく、一般職採用の職員にとっては「行きたくない」職場である。福祉専門職ではない職員のモチベーションはなかなか上がらない。おそらくは少しでも早く他の部署に異動したいと思っている。そんな中でトラブルが多く、一筋縄ではいかないケースばかりの生活保護行政の現場で格闘するわけである。

 

元々公務員をしている人たちの多くは「自律的」に創造的に働くといったメンタリティを有していない。上から決められたことを決められた通りにつつがなくこなすことを是としている。このことを一概に悪いことだとは言えない。公務員は法令に基づいて決まっていることをその通りに遂行しなければならないのである。

 

自治体の上層部が生活保護費の抑制を指示したとき、「水際作戦」が横行しがちとなる。

これは凡そ次のようなメカニズムによる。

生活困窮者や生活保護受給者に寄り添った支援をしているケースワーカーよりも上からの指示通りに水際作戦を厳格に実行しているケースワーカーの方が人事評価が高くなる。人事評価が良ければ次は良い職場に異動する可能性が高くなる。

また、水際作戦を履行していれば新たな生活保護受給者を出さなくて済み、仕事の量が増えることもない。

水際作戦によって人事考課が良くなり、仕事も増えない、これらは一挙両得となる。

 

また、水際作戦を強いられていない自治体においても以下のようなことが起こり得る。

福祉事務所は不人気部署ゆえに希望する職員が少ない。在籍するケースワーカーにおいても他の部署に異動したいと思っている人も多い。そのためにある職員が熱心にケースワーカーの仕事に取り組むとその部署に留め置かれることになる。他方、不真面目で熱心でない職員ほど不適格とされて他の部署に異動する確率が高くなるという事態が生じる。熱心で意欲のある職員であっても(一般職・行政職なら尚更)、ずっと同じ部署にいればモチベーションが下がり、疲弊することもある。熱心に働けば働くほど自分の意に反して異動の芽を摘み取られてしまえば、いつかはその意欲も喪失する。これはどの自治体の福祉事務所も抱えているジレンマである。

 

生活保護の現場で起きている様々な問題を安易な公務員バッシングで済ませては何も解決しない。

根本的な解決策はどのようなものなのか僕には分からない。

対症療法的になるけれども、専門職としてのケースワーカーの人員を増やすしかないように思う。学卒者の新卒採用に頼るのではなく、福祉関係の職歴を有する専門職を中途採用する。この中途採用もよく散見される低待遇の短期雇用の非正規職員ではなく、正職員に準じた待遇をもって採用する(5年や10年の中期の非正規雇用でもいいと思う)。

 

ここまで福祉事務所で働くケースワーカーがどのようなメンタリティを持っているか、それが個々のケースワーカーの働きぶりにどのような影響を与えるかに焦点を当てて述べてきた。

ただし、生活保護行政の現場が必ずしもうまく回らないのは、制度やシステムが破綻しかけているからであって、個々のケースワーカーの資質や働きぶりのみにその原因を求めてはならない。

現状のまま放置し、個々のケースワーカーの頑張りや意欲にもたれかかったままでいれば、近い将来に現行の制度は破綻する。

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