多くの人たちは生活の安定を求めている。
しかし安定とは幻想に過ぎない。
諸行無常なのだ。
初出 2015/7/2
僕たちは常に何らかの不安を抱えながら生きている。
病気になったら、会社が潰れたら、老後はどうなるか、などなど考え出したらキリがない。
これらの不安を打ち消すために、「安定」を得ようともがくのだ。
学歴を得る、大きい会社に勤める、正社員になる、貯蓄に励む、結婚して子を得る、といったように。
しかし残念ながら「安定」を得ようとすればするほど不安は増大していく。際限なく増大する不安感を払拭しようとさらに安定を求めてもがき続ける。
僕はかつて安定の代名詞的な公務員をしていた。
そこで出会った人たちは世間の噂通り、かっちりと生活設計をしている人が多かったように思う。20代のうちから住宅財形貯蓄をして貯め込んでいる職員もざらにいたし、まだ定年には程遠いのに自分の退職金を計算している人たちも多くいた。独身なのにローンを組んで持ち家を購入している人もいた。
何より大半の職員は、自分の今の生活が永遠に続くということに疑いを持っていなかった。安定を自明のものとしていた。大過なく職業生活を送ることを旨としていた。僕はこの雰囲気に最後まで馴染めずにいた。
公務員ほど極端ではないにしても、多くの正社員は似たようなメンタリティを持っているのではないだろうか。大企業といえども安泰ではない、リストラに遭う可能性が高くなっている、という事実に対してどこか対岸の火事のように思っている人たちが多いのではないだろうか。「安定」という幻想に縋り付いている。
「安定」を得ようとして、その方策を実行していくと、知らず知らずのうちに自分の生き方の幅が狭くなっていく。毎月一定の収入を得るために今勤めている会社に居続けなければならない。ローンを払い続けるため、今の生活水準を保つためにやはり今の仕事を変えるわけにはいかない。安定した生活を守るために雁字搦めになっている今の状態を受け入れなければならない。
僕は「安定」という幻想を捨て、その縛りから逃れる生き方もありなのではないかと思っている。
人とは大したもので、ずっと不安定な状況が続くとそれが当たり前となり、不安定さを感じなくなってくる。下手をすればその不安定な状態が心地よくなってくるものだ。
安定と不安定の間に大きな溝などなくて、両者の間には薄壁1枚の隔たりがある、その程度のものである。
「安定」を捨てるとそこから何かが始まり、新しい風景が見えてくることがある。月並みな表現だが、「自由」らしきものを得られることがある。
「安定」を得るためにあくせくすることと、それを捨て楽しく生きること、どちらが良いとは一概には言えない。人それぞれの価値観による。
僕は「安定」はなくても楽しく人生を送りたい。