「苦労」すること、それを乗り越えることを賞賛する風潮に僕は違和感を覚える。悪しき精神主義に他ならない。
初出 2015/3/26
「苦労は買ってでもせよ」という言葉がある。
わりと頻繁に用いられている格言である。
人は苦労を乗り越えてこそ一人前になるという精神論である。
苦労知らずの人は人間としての重みがないともよく言われる。ならば今の総理大臣は全く重みのない人と言うことになる。まあ、実際そうなのだけれども。
僕は苦労なんてしなければそれに越したことはないと思っている。
人生のそれぞれの場面で壁に突き当たることがあるが、それを乗り越えることをいちいち「苦労」と呼ぶことに違和感を覚えている。
壁を乗り越えるのに「苦しむ」ことなく、「楽しんで」やればいいと思う。「苦労」ではなく「楽労」である。
何事かを為すときにはプロセスを経なければならない。この社会ではそのプロセスを汗水流して苦しみながら克服することが尊いという風潮がある。涼しい顔をしてさらりと克服しても評価されないなんてこともある。
これは悪しき精神論と勤勉至上主義的な考え方にこの社会が毒されていることを意味する。
会社の人事評価にもこの風潮は影響を与えている。本来は仕事の成果・業績のみを評価すべきなのに、意欲ややる気・勤務態度を評価の対象にしている。同じ成果を上げていても、やる気を見せて苦労して成し遂げた者(例えば長時間の残業によって)に高評価を与え、何事もないように達成した者には低評価を与えたりする。これは不条理なことだと僕は思っている。
なぜこの社会では進んで苦労をせよという、マゾヒズム的な精神構造があるのか理解に苦しむ。
野球道、茶道、柔道等何でも「~道」にしたがる国民性が関係しているのかもしれない。
ひとつのことを究めることが至上の価値だとする風潮が関係しているのかもしれない。
何でもかんでも精神論で片付けようとする単細胞な輩が跋扈しているからなのか。
ある課題があり、それを分析し効率的に解決する方がよいはずである。
無駄な努力や苦労をしない方がよいに決まっている。合理的思考がすべてに勝るとは思わないが、この世はあまりにも非合理的な物事に覆われているように思えてならない。「苦労は買ってでもせよ」というメンタリティはその最たるものである。
僕は「苦労」が嫌いだ。
僕は「苦労」なんてしたくない。
苦労人が人格者なんて幻想に過ぎない。
先人の智慧に学び、歴史に学び、人生の谷に至ったときには涼しい顔をしてやり過ごしたい。