以前のエントリーで人間を「選別」することについて少しだけふれてみた。僕はこの「選別」という言葉が嫌いである。選別する側にもされる側にもなりたくない。
しかし、現実として人はその人生において「選別」され続けなければならない。入学試験、入社試験、昇進試験などが典型的な例であり、結婚もそうだろう。遺伝子工学がさらに発達すれば、生まれる前から選別される社会になるかもしれない。
資本主義社会は人間を「選別」することが前提である体制だという側面があり、僕たちは選別されることから逃れられない。特に新自由主義・新市場主義的な考え方のもとでは、さらにその側面が強くなる。
僕は人間の「選別」を無くせと主張したいのではない。「選別」のない社会はそれはそれでアナーキーな社会になると思うからである。
入学試験という「選別」の場では、学力のみ(ただし入試科目について一考する余地がある)を測るべきだと思う。ある人間のもつ能力の一つに過ぎない学力で優劣をつけても、それが即その人の価値を決めるものではないからだ。
一時期問題になったミス・コンについても同様である。人間の美醜もまた、人間の有する能力のひとつに過ぎない。なまじ、コンテストの選考基準に教養だの人間性などを重視すると、人間そのものを「選別」することになってしまう。
就活で内定を得られなくても気に病むことはない。たまたまその会社の「選別」の基準に合わなかっただけなのだ。入社試験もまた人間の一部の能力を見て合否を決めるにすぎないものなのだから。
つまり、ある人間の存在意義を全否定する「選別」はあってはならないということだ。
また、「選別」の基準が国家権力やエスタブリッシュメントによって恣意的に決められる社会になってもならない。上述した遺伝子による選別なんてもっての他だ。
ナチスドイツによるユダヤ人・ロマ人・身体障害者や精神障害者に対する虐殺は歪んだ価値観に基づいた「選別」によるもので、二度とあってはならないことである。
僕たちは選別されることに慣れすぎてしまっているのかもしれない。
選別されることが当たり前になっているのかもしれない。
入試や入社試験等のように、便宜上選別されることは是としながらも、人間としての全存在を否定されるような選別は断固として拒否するべきなのだ。
人は元来、何者かによって「選別」されるために生まれてきたのではない。
人は皆それぞれに、何人にも侵されない自由と尊厳がある。