希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

僕が最初の勤め先を辞めようと思った瞬間のことを書いてみる、という件

何度もこのブログに書いているが、僕は大学を卒業してある政令指定都市の公務員となった。平成になったばかりの頃のことである。

僕は高い志を持って公務員になったわけではない。

民間企業に入って会社の利益を上げるためだけに働くのもどうかなぁといった思いを持っていたし、さりとて大学院に進んで研究者の道を進む覚悟も持てない。そういった中で消極的に公務員にでもなるかと思い、採用試験を受けたのである。

 

なんだかんだで運よく採用試験に受かり、僕は公務員として働きだしたわけである。

多少の期待はあったのも事実である。働き始めたら仕事を楽しく思えるのではないか、自分の人生をかけてもいいと思える何かに出会えるのではないか、と。

しかし、いざ働き始めても、ただつまらないと思う日々が続いた。

すぐに辞めたくなった。

ただ、辞めるにしても、次に何をすればよいのか皆目分からない。

僕は退職を先延ばしすることにした。

今の職場から異動すれば、次の職場では仕事の面白みを見つけることができるかもしれない、という淡い期待を抱いて。

入職して4年目に異動があり、僕は意に反した、最も行きたくないと思っていた職場に移った。

 

当時のその市役所の人事労務管理は「希望した部署には行かさない」といったものだった。僕だけではない。同僚や同期生もほぼ皆、希望した部署には異動できていなかった。

僕の気持ちは日を追うにつれて、辞める方に傾いていった。

 

ある日、仕事がひと段落ついたので喫煙所でタバコを吸っていた。その時、窓の外から夕暮れの日の光が差し込んできた。それをぼんやりと見ていて、僕は「もう辞めよう」と決心した。理由は今もって分からない。その時、はっきりと辞めてしまおう、もう無理だ、との思いが僕の心に充満したのだ。

僕はその日に帰宅してからすぐに退職願を書き、翌日上司にそれを提出した。

不安はあったが、不安よりも今の状況から抜け出したいという思いの方が強かったのである。

 

僕は今もあの時の夕暮れの日の光の色合いや空気感を鮮明に覚えている。

人が何事かを決心するときなんてこんなもんである。

ちょっとしたきっかけで心が大きく動く。

僕たちはこういったものの積み重ねの人生を送っている。

 

 僕は公務員を辞めてから後、もし辞めていなかったらどうなっていたかと考えたことはない。

そんな人生は考えられないからである。

フラフラとして、腰を落ち着けない生き方が僕には似合っている。

本当にそう思う。

経済的な安定と引き換えに僕は多くのものを得たと思っている。

半分は強がりであり、半分は本音である。

 

「庶民のリアリズム」なんてもはや幻想に過ぎないのではないか、という件〈再掲〉

権力者が変わろうとも自分の生活を成り立たせるために知恵を絞り、したたかに生きる、という庶民像は過去の遺物なのかもしれない。

均質化され、為政者に都合よくコントロールされた烏合の衆、それが実像なのかもしれない。

 

初出 2018/11/22

 

僕はこのブログを始めたころに、僕の行動規範や行動の源泉は「庶民のリアリズム」であると度々書いていた。今もこれは変わりがない。

しかしながら、この「庶民のリアリズム」というものは実は幻想にすぎないのではないか、と最近思えて仕方がないのだ。

中間共同体が崩壊し、個人の自己決定・自己責任ばかりが問われる社会になっているからである。

 

高度経済成長期の頃まで、社会全体は貧しかった。社会保障制度や公的なセーフティネットは今よりも脆弱であった。なればこそ、貧しい庶民は助け合ってどうにかこうにか生活を成り立たせていた。迷惑をかけあって、その迷惑を拒絶せずに助け合っていたのだ。この迷惑のかけあいが庶民のリスクヘッジだったのである。

 

「庶民のリアリズム」とは、為政者の首がすげ変わろうとも社会の変動があろうとも、それらに影響されずに友人知人や近隣の人たちと「迷惑をかけあう」というリスクヘッジを行って自分の生活を守るということ、と僕は考えている。

ところが、その前提となる「迷惑のかけあい」が忌避されるものとしてとらえられるようになっている。カネを持たない庶民にとって人とのつながりがどれほどあるかが生命線である。にもかかわらず、その生命線が絶たれようとしているのだ。

 

庶民のリアリズムに基づいた庶民像と対極にあるのが「孤立した群衆」である。今は多くの人たちがこの孤立した群衆になってしまっている。

「孤立した群衆」が大量に生み出されたのは社会の病理現象ではない。戦後のこの社会が目指してきた「個の確立」や「自己決定・自己責任」的な生き方、陋習にとらわれた中間共同体からの離脱といった目標が達成された帰結として孤立した群衆が大量発生したのである。

資本主義体制下では(特に新自由主義的な考えのもとでは)個人はモナドとなり、他者との紐帯が失われてしまうのだ。

 

弱い個人が孤立するのは最悪の生存戦略である。多くの人たちはこのことを頭では理解していても、何をどうすればいいのか分からない状態に陥っている。

いまさら「連帯」といってもその具体的な手立てが分からない。よりどころとなるべき様々な共同体は絶滅の危機に瀕している。

人は安心して我が身を置ける「居場所」がないと不安感が募る。

 

庶民のリアリズムなんて幻想にすぎないと述べたが、それを幻想にしない営為を続けるしか閉塞した状況を打破する手立てはないように僕は思う。

ひとつの方法としては、人とのゆるいつながりを作るということだ。また、自由なゆるいつながりをベースとした疑似共同体を作るという手もある。

あちらこちらで若者を中心としてこのような疑似共同体を作ろうという試みがなされている。この動きはとても良いことである。有効な生存戦略となりうるものである。

庶民のリアリズムなんて幻想だと切り捨てずに、再びそれを見直す試みを続けることこそが孤立から逃れられる術である。 

「空気の読めない人」こそが新しい何かを生み出せるのでは、という件

この社会は「みんな」と同じようにしろという同調圧力が強い。

僕たちは幼いころから、空気を読む力、周囲に溶け込む協調性を養われ続ける。

「個」の確立よりも、全体の中の一員であることを優先されるのである。

 

社会が発展するためにはイノベーションが不可欠である。従来の価値観に囚われずに新機軸を打ち出す人たちがいたことで社会は発展し続けてきた。

イノベーションを起こす主体は当然に人である。機械が勝手にイノベーションを起こすわけではない。

識者と呼ばれる人の中には、今はイノベーションを起こしうる人材が枯渇しているという論を張る者がいる。

果たしてそうだろうか。

ことはそう単純明快なものだろうか。

 

僕の勝手な想像だけれども、今までにイノベーションを起こしてきたのは「空気を読まない・読めない人たち」だったのではないだろうか。既存の枠組みを壊す営為ができる人というのは周囲の声に流されるような人たちではない。同調圧力に屈するような人たちではない。奇人変人扱いされたり、頑固者だと嘲られたり、極端な場合には精神に異常を来しているとレッテル貼りされたような類の人たちが常人には思い付かないようなことを思いつき、それらを実行に移したのだ。

 

歴史上傑物とされる人たちは、その行動様式を追ってみると大抵は「空気の読めない」あるいは「空気を読まない人」だったことが窺い知れる。

織田信長しかり、西郷隆盛しかりである(当然他にも歴史上の偉人はたくさんいる)。

歴史上の偉人とまでいかなくても、会社の創業者や研究者等の中にもこの手の人物は山ほどいるはずだ。

 

僕は凡人であるがゆえに、幼少時から人の顔色を窺い、空気を読んでばかりいた(今は若干変化してきてはいるが)。

その頃は確かに人の輪から外れるということはなかった。これは空気を読むことのメリットである。凡人である僕にとっての有効な生存戦略だったといえる。

でも、人生の折り返し点を過ぎた今となって、こうした自分のありようについてちょっとだけ後悔をしている。

 

だからといって、いきなり空気を読まないような行動様式に変えることはできない。無謀すぎる。僕の性質や資質にも合わない。

できることはといえば、空気を読まない人や空気を読めない人に会ったら、壁をつくらずに良好な関係を築くように努めることである。そうした人たちの出会いによって、化学反応なようなものが起きるかもしれない。

未知の世界に誘ってくれるかもしれない。

何かワクワクするような楽しいことが始まるかもしれない。

元々僕は変わっているといわれる人が好きなので、できないことではない。

 

世の中全体の雰囲気がもっと異物的なものを受け入れる「ゆるさ」や「ゆとり」があればいい。

たかだか「空気が読めない」「空気を読まない」程度のことで、それらの人たちを排除するなんてばかばかしいことだ。

何か新しいものが創造されるその芽を摘む行為でもある。

そのような愚かな行為に加担しないことが、僕のような凡人の嗜みである。

 

 

僕はカネの話しかしない人を信用しないという件

僕は長らくビンボー生活を送っている。

それがゆえにカネのありがたみをよく理解していると自認している。

日常生活には支障がないが、ちょっと値がはるもの、パソコンやエアコン等の耐久消費財が故障したりすると、途端に困ってしまうことになる。昨年、パソコンとエアコンが壊れて難儀した。使いたくはないクレジットカードのリボ払いを使ってどうにかしのいだが、まとまったカネがあればなぁとため息が出たものである。

 

カネのありがたみを骨身にしみて痛感している僕だけに、そして元来のひねくれ者であるがゆえに、カネよりも心が大切だとか、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大切だといった類の言説には素直に頷けない。

「世の中、所詮はカネだ」との思いが心の奥底で渦巻いている。

 

しかし一方で、カネの話ばかりしかしない人を全く信用しない自分がいる。

カネ儲けは汚いことなんて考えているわけではない。資本主義体制のこの世の中で、カネ儲けを全否定したら生きていけない。

 

僕が社労士事務所を営んでいるとき、ちょくちょく色々な異業種交流会や勉強会に顔を出していた。その際に、よく儲け話を持ち掛けられた(僕の風体から「カモ」だと思われていたのだろう)。

なかでもマルチ商法(それをしている人たちはネットワークビジネスだと言い張っていた)の誘いがとても多かった。僕はそのビジネスを全否定しているわけではない。やりたい人はお好きにどうぞというスタンスを採っている。

僕がその手の話を聞いて(僕は人が良いのでわりと話を聞いていた)、モヤモヤとした違和感をいつも抱いていた。彼らは年収〇千万も夢ではないと熱く語るとともに、「仲間ができる」とか「夢がかなう」といった話も熱く語っていた。

そのときに僕は人が良いので(実は人が悪いので)、あなたの夢は何ですか、どんな夢が 叶いましたか、と問い返すことが多かった。そして、大半が「外車を買った」とか「海外旅行に行った」といった類の答えが返ってきた。カネで買える夢ばかりの話しか出なかったのである。結局はすべてがカネに還元する話だったわけである。

「夢」や「感動」、「仲間との絆」を強調するのはマルチ商法の常套手段である。そしてそれらはブラック企業のマネジメントにも通じている。

僕はこの手の「夢」や「感動」話を受け付けない体質なのである。

それらがたとえマルチ商法ではなく、一見まっとうなビジネスであってもである。

 

僕は市場原理主義的あるいは新自由主義的な考え方に懐疑的なのは、つまるところはカネの話しかしていないからである。

医療や福祉や教育、あるいは社会共通資本を効率性でしか考えず、民営化すればすべてよしとするイデオロギーは、結局はカネの話になるがゆえに僕は否定的な立場を採るのである。

市井に生きる人たちの安全や健康、生命、安心等をカネに換算するという姿勢がどうにも馴染めないのである。

 

カネやカネ儲けは一義的なものではなく、副次的なものである、とどうやら僕は考えているようだ。このことが正しいのかどうか僕には分からない。おそらく「甘い」のだろう。世知辛い、カネがあってなんぼという世の中においては、僕のような人間は落ちこぼれてしまうのだろう、かなりの確率で。

それでもいい、と僕は覚悟し諦念している。

カネの話しかしない人間になるよりは、陋巷でくたばった方がいい。

 

 

学歴の高さと仕事の能力とは相関関係があるのか、という件

僕は労働問題や貧困・格差の問題に興味があり、同時に教育についても関心を持っている。

教育問題についてあれこれ考えていると、どうしても「学歴」の話に行き当たる。

学歴の効用は何か、それが本当に顕在化するほどのものなのか、社会の中で生きていくうえでどれほどの重要度があるのか等々である。

 

学歴が高いほど仕事の能力が高まるのか。この話題については昔から侃々諤々の議論がなされている。

学歴が高いほど仕事の遂行能力が高まるという人もいれば、学歴と仕事の能力とは無関係だと言い切る人もいる。

メリトクラシー(業績主義・能力主義)の世の中では学歴の高さは無関係とは言い切れない、といったあたりが議論の落としどころのような気がする。

 

僕の実体験から言うと、学歴と仕事の能力との間には「うっすらとした関係」があるのは否定できない。サラリーマンをしていたときも社労士事務所を自営していたときもそう感じていた。

僕は新卒で役所に勤めることになった。その役所は学閥といったものはなく、割と能力主義的な人事をしていたのだが、幹部職員の殆どは特定の数校の大学出身者だった。

社会保険労務士にしても、僕の知る限りでは殆どの人がある一定レベル以上の大学の出身者だった。

これらの事実だけを持って学歴と仕事の能力とは相関関係があると断定はできない。さりとて無関係だと断言もできない。

 

一般に難関とされる大学を出た人たちは仕事が出来て当然だという風潮がある。高偏差値大学の出身者でも中にはイマイチ仕事が出来ない人がいる。そういった人たちは目立つがゆえに、安易に高学歴者は仕事が出来ないという言説が生まれがちになる。一方で学歴のない「叩き上げ」の人たちも一定数存在する。その例外的なケースを挙げて、やはり学歴と仕事は関係ないという言説が生まれてくる。

 

そもそも「仕事の能力」といったものにはっきりとした基準があるわけではない。問題に対する処理能力やコミュニケーション能力等が度量衡となるわけだが、これらについても会社や部署によって異なる相対的なものである。当たり前の話だが、研究職や営業職、管理職、経理財務職、企画職等のそれぞれは求められる能力が変わってくる。

学歴の高さと仕事の遂行能力の間に相関関係があるかどうかなんて大した問題ではないと思えてくる。その職務に「嵌っているか」「嵌っていないか」だけの話になってくる。

 

話がややこしくなるのは、会社の社員採用時、特に新卒社員を雇い入れるときに(特に大企業では)学歴あるいは学校歴が採用基準のファクターになっていることだ。

採用時に学歴・学校歴を考量するということは、学歴と仕事の能力に何らかの関係があると多くの会社が認めているということである。この事実に対する当否については何とも言えない。会社が社員を採用する際の基準は会社それぞれが自由に決めることであり、外野の人たちが口出しすることはできない。

 

このエントリーの結論的なこととは、学歴の高さと仕事の能力との間には相関関係があることもあればないこともある、ただそれだけのことだ。

自分が属する組織、業界によって変わってくるものとしか言いようがない。

ある人が人事上不遇をかこっていて、自分は○○大学出身者でないから出世できないという逃げ道を設けている、といった程度の学歴の効用はありそうな気がする。

ただ、企業社会はメリトクラシーが貫徹されているわけでもなく、完全に学歴主義でももないとは言えそうである。このあいまいさをどうとらえるかはその人の属性や価値観によって決まるものである。

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