希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「空気の読めない人」こそが新しい何かを生み出せるのでは、という件

この社会は「みんな」と同じようにしろという同調圧力が強い。

僕たちは幼いころから、空気を読む力、周囲に溶け込む協調性を養われ続ける。

「個」の確立よりも、全体の中の一員であることを優先されるのである。

 

社会が発展するためにはイノベーションが不可欠である。従来の価値観に囚われずに新機軸を打ち出す人たちがいたことで社会は発展し続けてきた。

イノベーションを起こす主体は当然に人である。機械が勝手にイノベーションを起こすわけではない。

識者と呼ばれる人の中には、今はイノベーションを起こしうる人材が枯渇しているという論を張る者がいる。

果たしてそうだろうか。

ことはそう単純明快なものだろうか。

 

僕の勝手な想像だけれども、今までにイノベーションを起こしてきたのは「空気を読まない・読めない人たち」だったのではないだろうか。既存の枠組みを壊す営為ができる人というのは周囲の声に流されるような人たちではない。同調圧力に屈するような人たちではない。奇人変人扱いされたり、頑固者だと嘲られたり、極端な場合には精神に異常を来しているとレッテル貼りされたような類の人たちが常人には思い付かないようなことを思いつき、それらを実行に移したのだ。

 

歴史上傑物とされる人たちは、その行動様式を追ってみると大抵は「空気の読めない」あるいは「空気を読まない人」だったことが窺い知れる。

織田信長しかり、西郷隆盛しかりである(当然他にも歴史上の偉人はたくさんいる)。

歴史上の偉人とまでいかなくても、会社の創業者や研究者等の中にもこの手の人物は山ほどいるはずだ。

 

僕は凡人であるがゆえに、幼少時から人の顔色を窺い、空気を読んでばかりいた(今は若干変化してきてはいるが)。

その頃は確かに人の輪から外れるということはなかった。これは空気を読むことのメリットである。凡人である僕にとっての有効な生存戦略だったといえる。

でも、人生の折り返し点を過ぎた今となって、こうした自分のありようについてちょっとだけ後悔をしている。

 

だからといって、いきなり空気を読まないような行動様式に変えることはできない。無謀すぎる。僕の性質や資質にも合わない。

できることはといえば、空気を読まない人や空気を読めない人に会ったら、壁をつくらずに良好な関係を築くように努めることである。そうした人たちの出会いによって、化学反応なようなものが起きるかもしれない。

未知の世界に誘ってくれるかもしれない。

何かワクワクするような楽しいことが始まるかもしれない。

元々僕は変わっているといわれる人が好きなので、できないことではない。

 

世の中全体の雰囲気がもっと異物的なものを受け入れる「ゆるさ」や「ゆとり」があればいい。

たかだか「空気が読めない」「空気を読まない」程度のことで、それらの人たちを排除するなんてばかばかしいことだ。

何か新しいものが創造されるその芽を摘む行為でもある。

そのような愚かな行為に加担しないことが、僕のような凡人の嗜みである。