希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

ヒマ人的生き方は楽しいという件〈再掲〉

僕はヒマな時間が多い生活は「豊か」だと勝手に思っている。

世間におけるヒマ人に対する評価は最悪だ。そんな世間の評価軸がおかしいのであって、どこか狂っている。

一人でも多くの人たちがヒマを謳歌できるようになれば、生きやすい世の中となる。

 

初出 2018/1/18

 

僕はここ数年「ヒマ人的生き方」を満喫している。

当然に懐具合は寂しいけれども、まあ何とかやりくりして生活している。

毎日馬車馬のように働いてカネを稼ぎ、消費生活を送るなんていう生活にはもう耐えられない。

 

以前にこのブログで書いたことだが、僕は大学生のときには周りの人たちからヒマ人と呼ばれていた。定期的なアルバイトをするわけでもない、面白くない講義には出ない。サークルの部室にたむろして、同類のヒマ人とつるんでとりとめのない話をしたり、思い立って梅田にあった安い映画館(二本立てで800円位で名画が観られる)に行ったりして時間を潰していた。

僕は大学生の時のこのような過ごし方を経験したことによりヒマ人的な生き方の楽しさを知り、またヒマ人的行動様式が身に付いたのだった。

 

僕は大学を卒業すると(魔が差して)就職することになった。真っ当な社会人となるレールに乗ってしまったのだ。本当はしばらくはブラブラとしたかったのだけれども、親の意向や世間の同調圧力に負けてしまい、真っ当に就職する道を選んだ。

当然のことながら、サラリーマンになってしまったらヒマ人的な生き方はできない。その後に自営業に転じても同様にヒマ人にはなれない。

僕はカネを多く稼いで、ある時期にさっさとリタイアしようと目論んだ。しかし、その目論見は見事に失敗した。ならば必要以上には働かないビンボー生活を受け入れてみようと試み、今はその通りの生活を送っている。

 

僕はヒマ人ではあるけれども決して退屈はしていない。退屈を感じるようならば、ヒマ人的生き方はできない。退屈だと感じないことが、ヒマ人的生活を送るための最低条件なのだ。

ヒマ人とはいえすることはたくさんある。僕の場合は本を読むこと、ふらりと町をぶらつくこと、ブログを書くこととそのネタを考えること、ラジオを聴くこと、ネットを見たり動画をみたりすること、などなどである。それらの合間に仕事をする、というスタンスである。

決して「真っ当な生き方」ではないと自覚している。人様に勧められるものではない。世間に向かって自慢など到底できない。でも、今のこの生き方が僕にマッチしているのは確かだ。元々が勤労意欲が低く、成長志向もなく、意識の低い人間なのだから仕方がない、と開き直っている。

 

ヒマ人的生き方をすることの効用みたいなものはある。

人並みに働いている頃よりも社会問題に対する意識が高くなった。

物事を深く掘り下げて考えるようにもなった。例えば「労働」の本質的意義とは何か、とか「学ぶ」ことの本来的な意味とは何か(これは教育の問題にも関わってくる)といった正解のないあるいは「正しい」答えが幾つもあるような問いについて自分なりに考察をするようになったのである。

このことが良いことなのかは一概には言えない。世の中には深く考えない方が良いことがある。僕は何も考えずに大勢に流されるよりは、自分なりの考えを深め、それによって少数派になったとしてもそのことを受け入れるという生き方をしたいと思っている。

 

僕が今のヒマ人的生き方ができているのは、僕の環境が恵まれているからである。今の状況が続く限りはヒマ人であり続けたい。

もし、今の生活を形作っている状況が変化したときは・・その時になって考えよう。

おそらくは変化に応じて、またヒマ人的生活を送るだろう。

僕は根っからのヒマ人的体質なのは間違いない。 

社会全体が貧しくなるのは悪いこととは言い切れないという件

僕たちは物質的に恵まれた豊かな社会に生きている。

色々と問題もあるけれども、大半の人たちはこの豊かさを享受している。

豊かなことが善であり、貧しいことは悪という共通認識を多くの人たちは共有し、この社会を築いてきた。

 

もはや経済成長は望めない状況となって、これ以上の物質的な豊かさを追求することに疑問を持つ人たちが増えてきている。

若い人たちを中心として、「所有からシェアへ」を好んだり、田舎で農業を志したり、雇われて働く形以外での働き方を模索したり、と従来の価値観とは異なる行動様式を選択する傾向がみられる。

一概に貧しいことが悪であって、経済的成功が善だといえなくなってきたのである。

いわば「共生の原理」を選び取り、競争から共存へと生き方をシフトしているのである。

 

社会が貧しいと、経済的な理由による犯罪が頻発したり、少ないパイを奪い合う不毛な競争が激しくなる、とついつい考えがちとなる。実際にそうした面は否定できない。

しかし、庶民レベルでは皆が貧しいと互助の精神が顕在化する。人々は助け合うようになる。そうすることが生存戦略上有利になるからだ。少ない資源のパイを奪い合うよりも、分かち合う方がそれぞれの人にとって利益になるからだ。

他方、豊かで生命の危機に瀕する機会が少ない社会では競争が激化し、それにつれて格差が増大する。

社会全体が豊かだけど格差が大きい社会と貧しいけれども平等な社会、どちらがいいとは一概には言えない。ただ、カネが溢れている社会がバラ色で貧しい社会が灰色だという単純な世界観を是とするような考え方に同意する人は多くはないだろう、と僕は考える。

 

これからのこの国の経済状況は悪くはなりこそすれ、良くはならない。現状維持ができれば御の字と考えなければならない。いわゆる中流に属する層のボリュームゾーンは細り、富める者とそうでない者との二極分化が進む。後者が圧倒的な多数派となる。

資本主義体制が続く限り、特に新自由主義的な経済政策をこのまま続けるとごく少数の富裕層と圧倒的多数の貧困層という二極化が進むことになる。

 

資本主義体制に変わる新しい経済システムは今のところ見当たらない。ならば、現行の体制下で庶民は現実を見据えて生き延びる手立てを講じるしかない。

しかも、この社会は今後全体として貧しくなる可能性が高い。現にその兆候はあちらこちらに顕れている。

そうなるとこれまで正しいとされてきた生き方や行動様式、競争に勝つことによって利益を手中にすること、自己利益の極大化のみを図ること、といった私的利益のみを追求することにあくせくとする生存戦略を考え直す必要がある。

社会全体が貧しくなっても、自分や関わりあう人たちがそれなりに幸福感を抱けるような日々の生活を送ることができれば万々歳である。そのためには、助け合いとか分かち合いといったメンタリティを持つことが必要となってくる。

こんなことを言うと、「何を甘いことを言っている」といった批判を受けるだろう。しかし、この「甘さ」を蔑ろにした結果が、殺伐とした世の中を作り出しているのだ。

分かち合いや助け合い、共存や共生を志向することが人として真っ当なあり方だと多くの人たちの共通認識になれば、未来は明るいものとなる。

 

世が世なら、僕は間違いなく早死にしていたという件

僕はたまにこの社会(豊かな、消費資本主義社会)に批判的な記事を書いている。ただ、よくよく考えてみれば、この社会が物質的に豊かなおかげで生き延びることができてきたことも確かである。

科学技術や医療が進歩し、物質的に恵まれているがゆえにどうにかこうにか生きていけているのに、その豊かな社会に呪詛の言葉を吐く、というのは何だかモヤモヤとした思いがする。

 

人が生き延びる条件としては色々と考えられるが、僕は次の3点に絞られると考えている。

まずはどこでも寝ることができること。

次に何でも食べられること。

さらには誰とでも仲良くなれること。

これらの条件が備わっていれば、大概のことには耐えられる。

 

僕は幼少のころから神経質で、枕が変わったら寝ることができない。偏食気味で好き嫌いが多く、食べることができないものが多い。また、人見知りで人と仲良くなるのに時間がかかる。

僕は上述した生き延びる条件を全く満たしていない。

さらには子供の時から歯が弱く虫歯だらけで、胃腸が弱くてすぐに胃が痛くなったり下痢をしたりする。

僕は進んだ医療技術と都市機能のおかげでどうにかこうにかこの歳まで日常生活を送れてきたのである。

 

もし、僕が医療技術が未発達の時代に都市以外の場で生を受けていたのならば、かなりの高い確率で早世していただろう。

いわば、僕は「生命力」が弱い存在なのである。天変地異や大規模な社会変動があれば、僕は真っ先に死んでしまう弱い存在である。

 

僕はそのように自分が脆弱な存在ということをついつい忘れがちになってしまう。

今、ここに、何不自由なく生きていることが当たり前だと思い違いをしがちになる。

これではいけない。と、たまに思ったりする。

自分の弱さを直視し受け入れることによって、生存確率を少しでも上げるようにしなければならないな、と思う。

だからと言って、具体的にどういう行動を採っていいのか正直なところよく分からない。今更体を鍛え上げるのは面倒くさいし、鍛えたところで限度がある。神経質的な性格も直すことはほぼ無理だ。唯一の方法としては、もうちょっとだけフレンドリーになって人と仲良くなれるようにすることだ。これならできるかもしれない。

 

僕が採るべき生存戦略は自分自身を強くすることではなく、自分の弱さを受け入れて、僕以外の人たちを頼ることである。もちろん頼るだけではダメで、僕もできうる限り他の誰かの手助けをする。

ゆるいつながりのネットワークを築き、ゆるいコミュニティを創ることが僕の生存戦略としての最適解である。このことが叶えば、僕は多分生き延びることができる。

死ぬほど働いても、それは無意味だという件〈再掲〉

以前に某居酒屋チェーンの創業者が「死ぬまで働け」と言ったかどうかが話題となった。こんな人でなし発言をしても国会議員となれるのがこの国のクオリティである。

今や過労死が起こっても大きなニュースにはならない。

人は生活のために働く、ただそれだけの話なのに、労働至上主義的イデオロギーは未だにこの社会で幅を利かしている。

 

初出 2018/1/11

 

僕が一番嫌だなぁと思う死に方は過労死である。

働きすぎで死ぬなんて考えただけでもゾッとする。

人は生きる糧を得るために働くのであって、働きすぎて命を奪われるなんて本末転倒である。

 

自分の生命や心身の健康さらには尊厳と引き換えに会社の利益を増大させることに意味はあるのか、と問われれば多くの人は「否」と答えるだろう。しかし、現実社会では「死ぬまで働け」と社員に過剰な労働を強いる会社が少なくない。

 

僕は何も働くことに意味はない、と言いたいわけではない。

労働は生存のために必要不可欠な営為である。同時に労働によって得られるものは報酬以外にも色々とある。多くの人たちは働くことに喜びを見出したり、やりがいや生きがいを感じていて、それはそれで健全なことであると思う。

しかしながら、ものには限度というものがある。

労働がそれ以外の生活の領域を侵食する事態になると、労働が持つ害悪が前面に出てくる。

 

僕は昨今しきりに叫ばれている「ワーク・ライフ・バランス」という言葉があまり好きではない。その議論が主として「労働ありき」になっているように思えるからだ。

仕事・労働は人生の一部に過ぎない。仕事や労働ありきで人生を語ることが「常識」になっていて、僕はそれに違和感を覚えるのである。

 

繰り返すが、僕は仕事それ自体に、労働そのものが無意味だと言いたいのではない。

巷で言われている「働くこと」の意味が狭く捉えられてはいやしないかと思えてならないのだ。

確かに今は全労働人口の9割が「雇用者」言い換えれば労働者である。会社や役所等に雇われて働く形で仕事をしている人たちが圧倒的にマジョリティになっている。サラリーマンとしての働き方がデフォルトになっているのだ。

働き方の多様化といった言説はあるにはあるが、そのベースには雇われて働くことがデフォルトとなっている。

 

この社会は「総サラリーマン化社会」となっている。ゆえに圧倒的多数派のサラリーマン的な価値観が常識的なものとなって、それがこの社会を覆いつくしている。

そしてこの社会の根底には労働至上主義、精神主義といった土壌がある。これらとサラリーマン的価値観が融合すると「気合で、死ぬほど働け」といった僕からすればバカバカしい労働観もどきが生まれるのである。

 

現行の資本主義体制下では労働者は会社によって搾取される存在である。搾取されない労働者なんて一人たりとも存在しない。

サラリーマンたちは搾取された上に抵抗の術や抵抗する気概すらも削ぎ取られている。

少なくない数の人たちは死ぬほど働かないとまともな生活を成り立たせることができないという状況にある。これで本当に豊かな社会だと言い切れるのだろうか。どこか、現行の社会システムに歪みがある、としか言いようがない。

 

死ぬほど働くことが愚かでバカバカしいという共通認識が社会全体で共有できるようにならない限り、過労死や過労自殺はなくならない。

死ぬほど働かなければ生活が成り立たないという歪な社会構造そのものに疑いを持ち、それを少しずつでも良きように変えるためにひとりひとりが自分ができることを着実にこなすしかない。すぐにはこの世の中を変えることはできないことは分かり切っている。

まずは「死ぬほど働かない」ことから。 

困っている人を目の前にしたら、手助けするのは当たり前ではないの、という件

世の中には様々な理由によって困っている人たちが沢山いる。

自分の周囲にも悩んで困っている人たちがいるかもしれない。

僕は「困っている人がいたら、自分ができる範囲で構わないから助けなさい」という教えを受けてきた。この教えが当然のことだと思ってきた。

昨今の生活保護受給者バッシングをはじめとする弱者に対する無慈悲な振る舞いを見聞きすると暗澹たる気持ちになる。

 

生活に困窮している人を見たら、食べ物と着るものと寝る所を提供することから手助けは始まる。そして食つなぐことができるような仕事の紹介をする。

貧困の根源的な解決や経済的格差がなぜ起きるのかそれをどう解消するのかといった「大きな問題」としての問いかけは一先ず横に置いておく。一般論や本質論を語っても仕方がないし、している場合でもない。

成績が伸びずに悩んでいる生徒がいたら、勉強の効率的なやり方を教える。

「学ぶ」ということは一体どういうものなのか、学ぶことの本義を追求するなんてことは別の話となる。

親の介護に悩んでいる人がいたら、介護保険制度でどのような対応ができるかをまず考え、実際に申請して制度の適用を受けるようにする。これまた介護のあり方とか家族のあり方といった抽象的な論議は別次元の話となる。

 

実際になんらかの問題で困っている人がいれば、具体的な手立てを講じて、いまある状況を改善するようにしなければならない。

この手の話をすると、問題の根本的な解決にはならないとの批判を受けることがよくある。確かに制度設計や社会システムに手を入れなければならず、そうしないと同じような悩みを抱えた人たちが次々と生まれてくることになる。

しかし、政府や自治体の責任や不作為を言い立てるだけではどうにもならない。

今、この状況で自分ができることを確実にやってみる、という営為を続けることが問題解決の第一歩となり、その先にようやっと光明が見えてくるものである。

 

「ありあわせのもの」で何とかする、ということが大切な場面もある。ないものねだりでは何も解決しないケースも多々ある。

実際に目の前に困っている人がいれば、「ありあわせのもの」を寄せ集めて手助けをするしかない。このような「機能主義」的振る舞いが最も有効な手立てとなる。

現実に今ここにある救済策・手立てによって困っている人たちに対峙することは決して退嬰的な振る舞いではない。

 

昨今の風潮として、「迷惑をかけること」「迷惑をかけられること」を極度に忌み嫌うということがある。

人が生きていくうえでは、迷惑をかけて、迷惑をかけられてナンボなのではないだろうか。「迷惑」は人と人とをつなぐ媒介であって、決して忌み嫌うものではない。

 

僕は本音としてはあまり迷惑をかけられたくない。

実際に僕の目の前に困っている人が立ち現れたら、どこまで手助けができるか、あまり自信がない。

しかし、僕なりの「ありあわせ」のもので機能主義的に振る舞いたいとは思っている。

困っている人を見捨てたり、見放したりしたときの後味の悪さや後悔の念に捉われたくないから。

人として最低限の矜持を持っていたいから。

 

 

 

 

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