希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

「内輪の論理」に隷従する人が増えると歪な社会になるという件

僕たちはある組織や共同体に属するとその内部を統制する規則や内規に縛られることになる。このこと自体は当然のことである。組織の成員がてんでばらばらの方向を向いていたらその組織は成り立たなくなる。

問題なのは、ある組織や共同体にどっぷりと浸かり、その組織の論理に絡めとられてしまい、社会との齟齬が生じるケースが多々あることだ。

 

まともな知性が備わっている人ならば、自分が属する共同体の論理と社会の常識とをうまいこと使い分けることができる。特定の組織の規範と社会一般の常識やルールとの間に乖離があれば、ケースバイケースで頃合いを見計らった対応を採る。

しかし、多くの人たちは社会常識やルールよりも組織のルールを優先させるふるまいをしてしまう。内輪の世界に閉じこもっている度合いが高ければ高いほどそうなる。これは昔からずっと続く悪弊であると僕は考える。

なぜそのようなことになるのか、は僕には分からない。様々な領域で検証・研究はされているが、僕にとってすとんと腑に落ちる答えはない。

 

僕が社労士事務所を営んでいるとき、ちょくちょく営業マンが事務所にやって来た。先物取引をはじめとする金融関係の営業が多かったように記憶している。僕は投資等にはまったく興味がないのでほとんどの場合取り合わなかったが、たまに暇つぶしに営業マンの相手をすることがあった。

ある時、先物取引の会社の若い営業マンの相手をしたことがあった。その彼はマニュアル通りに商品説明を続けた。僕は性格が悪いので、投資のリスクや運用実績を開示して損をした人の実態を教えてくれと茶々を入れた。すると彼はしどろもどろになり、「社内規定でお教えできません」と答えたのである。僕は呆れて、怒ったふりをしてその彼を即追い返した。その営業マンはおそらく社歴が浅いのに、もう会社の論理に絡めとられいるのだな、と思いちょっと哀れに思えたのである。

僕は「社内規定」を盾にして、情報開示を拒んだり、こちらの要望を門前払いする態度が大嫌いである。そこには会社の傲慢さが見て取れて、さらに会社のルールに盲従するサラリーマンの卑俗さを感じるからである。

 

僕もサラリーマンの経験があるので、組織の論理に従う態度を採る理由は理解できる。そうしないと組織に自分の居場所がなくなってしまうとの恐れを抱く気持ちも分かる。組織あっての自分というメンタリティをついつい持ってしまうに至ることもこれまた分かる。

しかし、本当にこれでいいのか、と世間からちょっと離れた位置にいてダメ人間である僕はそう思う。組織や共同体から一歩離れたダメ人間であるがゆえになおさら強くそう思う。

 

内輪の論理に絡めとられて、それに疑いを持つことすらしない人が増えると間違いなくこの社会はおかしなことになる。その兆候はあちらこちらで散見されている。

だからこうしろ、という処方箋はないのかもしれない。

人はひとりでは生きていけず、群れをなしてしか生きていけない。狩猟採集の時代からずっとそうだ。

ただ、言えることは特定の組織や共同体の論理にどっぷりと浸かっている自分というものを客観的に見る態度を涵養するしか手立てはない。

ある共同体のこうしたルールはおかしいのでは、社会と乖離しているのでは、と社会常識と突き合わせて自分の頭で考え判断するだけで状況は変わってくるはずである。

問題の解決策を個人の資質に委ねるのは僕が好まないところではあるけれども、である。

人事の社員や上司に「人を見る目」なんてないという件〈再掲〉

人事考課ほど胡散臭いものはない、と僕は思っている。

人が人を査定し選別するなんておかしいし時に滑稽に思える。雇われて働くことに息苦しさを感じるのは、このしょうもない人事考課が実際には働く人たちの生殺与奪を握っているからだ。

 

初出 2018/1/9

 

就職活動や転職活動をしていて不採用ばかりが続くと、自分という存在を否定されたような気になってしまう。特に新卒の就活の場合においては職歴を持たないが故に「人間性」を試された感じになってしまいその傾向が強まる。

僕のように世間ずれした人間からすると、会社に採用されない程度のことでは落ち込まない。採用担当者に見る目がなかっただけさとうそぶくだけのことである。

 

たびたび人事のプロだとか採用のプロだとか自称する輩がメディアに登場する。彼らはそれらしきことを言い立てている。

僕はその手の人物を全く信用していない。「人を見る目」なんてちょっとやそっとのことでは身に付けられないものである。たかだか20年や30年会社という檻の中で養った力なんて限定的なものである。

 

会社の人事関連部署に属する採用担当者が見極められるのは、自分の会社でうまくやっていけそうかどうかだけである。自分が所属する会社に合うかどうか程度のものである。それさえも良く間違う。面接の相手がイノベーションを起こせそうな人物か、会社を背負って立つほどの人物かなんて分からない。

ある会社の採用試験に落ちたって、その人の価値を毀損するものではない。その会社のローカルな判断基準にマッチしなかった、それだけの話である。それも「人を見る目」がない担当者によってなされるものであるから、全く気にすることはない。

 

採用担当者と同様に殆どの上司も「人を見る目」なんて持ってはいない。

「うちでやっていけないような奴はどこへいってもダメだ」といった物言いをするバカ上司がいる(僕もかつてよく似たことを言われたことがある)。この手の物言いをする上司は無能だと断言できる。その会社のローカル・ルールしか知らず、その会社で「うまくやってきた」だけで管理職になった程度の人間に「人を見る目」なんてないのである。部下の能力をその会社の度量衡にあてはめることしかできないのだ。あるいはそれさえできず、自分の主観(それも狭量な価値観に基づく)でしか判断できないのである。

 

「人を見る目」とは、様々な人たちとの関わりの中で人というものはいかなるものかを深く掘り下げてとらえる営みを不断に続けることによってようやく身に付けられるものである。時には裏切られたり、時には手を差し伸べられたりしながら、人の持つ高潔さや猥雑さを実感しながら、肌感覚で身に付けるものである、と僕は思っている。

 

「人を見る目」とは、その相手が自分たちが属する共同体において自己利益を極大化するのではなく、共同体を維持し発展させるためにパフォーマンスを最大化し、そのことによって共同体の利益に資することができるような人物であると見抜くことである。

 

「人を見る目」を持っている人なんてそうそういない。だからこそ希少価値がある。

経営者や人事採用担当者や上司といった人たちに「人を見る目」なんてないのは当然であって、そんなことまでを求めるのは酷なことである。 

それゆえに、上司や人事採用担当者が下した人物評に一喜一憂することなんてないのである。

家族を解体するように誘導して、すべての責任を家族に押し付ける愚、という件

殊更に「家族の大切さ」を説く人たちがいる。

自称保守派、民族派といった右寄りの人たちである。

自民党政権は代々家族というものに固執してきた。

高齢者介護、障がい者のケア、育児、教育といった問題の解決を家族に押し付けてきた。

 

近代以降、「個の確立」を押し進め、自己責任・自己決定イデオロギーが絶対善とされてきたが、それは地域共同体からの離脱を図ることとなった。同時に家族の解体を促す要因ともなった。

さらには資本主義体制の純化がそれをさらに促していった。

 

具体的な話をすることにしよう。

例えば家電製品のテレビ。

家族が仲良く過ごしていると居間に一台テレビがあれば事足りる。それでは需要がすぐに充足されてしまう。では家電メーカーは何を望むか。家族がバラバラになることである。ひとつの家の中で家族が自分の部屋を持ちそこに籠ることである。そうなれば、家族のひとりひとりがテレビを欲することになる。あるいは子供がある一定の年齢になれば、家族から離れて住むようになるように仕向けることだ。世帯単位の人員が少なくなればなるほど、ひとり暮らしをする人が増えれば増えるほどテレビは売れることになる。これは冷蔵庫や洗濯機等についても同様である。

 

資本主義体制の社会では大家族は悪なのである。

極端な話、核家族(しかも家族の成員がそれぞれバラバラの)とひとり暮らし世帯が増えることが都合が良いのである。

家電製品に限らず、様々なサービスが(たとえば家事代行サービス)旺盛に消費されるためには家族の単位が小さくなりかつ家族の成員がバラバラになればいいのである。

個人が良き消費者となるためには無償で提供される家族内の家事提供が障壁となるわけである。

 

近代社会の支配的なイデオロギー個人主義、自己責任・自己決定等)と資本主義の論理は家族の解体を促すことになる。この流れを完全に覆すことはかなり困難である。

ならば、従来家族が担っていたとされるもの、介護や育児、看護等は社会全体で担う方向に進めなければならない。社会保障の拡充を図るべきとなるはずである。

しかし、この国ではそうはなっていない。

介護の分野では介護保険制度が導入されて久しいが、そのサービス内容は質量ともに不十分である。

医療の分野では、在宅医療が推進されているが、これは表向きは住み慣れた家で療養することで個人の尊厳を尊ぶということになっているが、実際は医療費の削減を図るものである。

保育所の待機児童の問題は解決されないままでいる。

要するに資本主義の論理を突き進めて家族の解体を図り、様々な問題が生じたらこれまた資本主義の論理でその解決を家族に押し付けているのである。

 

新自由主義を信奉する人たちは公的な社会保障制度が人心を荒廃させ、社会システムを壊すと主張する。

保守的な陣営に属する人たちは家族が大切であり、社会的な問題については家族が担うべきだと主張する。

これらは明らかに矛盾している。これに気付かないのはなぜだろうか。

あえて問題の根底にあるのを隠蔽しているか、あるいは本当に矛盾に気付かないほどに知的な劣化が起こっているのかである。

 

現行の資本主義体制を受け入れている限り、家族の解体という流れを押しとどめることは困難である。社会保障の拡充にも限界がある(しかも現政権は社会保障の切り下げを志向している)。

どうすればいいのか僕には分からない。

ただ、今の社会システムは家族を解体させる圧力が働いているということを自覚するしかないように思う。そのうえで自分なりの家族観を持ち、自分ができうるかぎりの自助努力を果たすしかないように思う。自分がどれほど家族を大切に思うかということである。決して「上から」の「家族は大切」というイデオロギーの押し付けに屈せずに。

「普通の人たち」の善意がこの社会を狂わせることもあるという件

戦前の軍部では「動機が善ならば、何をしても許される」という空気が蔓延していたという。

「お前のためを思って~」という善意の押し付けがパワハラまがいの相手への抑圧を生むこともある。

善意によって生み出された言動によって、相手に害を与えてもそれは許されるという風潮はとても危ういものである。

 

戦前のこの社会においては普通の人たちが善意をもって体制に従わない人たちに対して「非国民」のレッテル貼りをした。この自分はお国のためを思い、お国のために働いているのに、お前はそうではない、と相手を詰り、自分の善意(それは偏狭な価値観による自意識に過ぎないが)を相手に押し付けるという行為が正当化されていたのである。

また、戦前のドイツにおいてナチスを熱狂的に支持したのはいわゆる普通の人たちだった。

 

繰り返し巻き起こる生活保護バッシングもその主体は「普通の人たち」である。生活保護受給者を責めることで得をするわけでもないし、邪悪な心をもって貧困者を貶めているわけでもない。バッシングをする多くの人たちは正義感とか善意の心によって、受給者を叩き、自分を「正義の側」に置くことによってカタルシスを得ているのである。

 

体制にまつろわぬ人たちに非国民呼ばわりするのも、生活保護バッシングをするのも善良な市民である。また、禁煙ファシズムとも呼べる喫煙者バッシングに興じるのも、これまた善良な市民である。

これらの「善良な市民」は、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた人々である。

 

社会的弱者やマイノリティに属する人たちを執拗にバッシングする人たちは、扇動者やイデオローグに一方的に踊らされた人たちではない。

一見「善良な市民」と思しき人たちが、善意の気持ちから(あるいは善と信じて)あるカテゴリーに属する人々を執拗に叩くこと自体に危険性を孕んでいるのである。

善良な市民はマジョリティに属する人たちである。マジョリティがマイノリティを抑圧することは実は民主主義社会ではしばしば起きることである。民主主義とは、建前では少数者の意見を尊重するということになっているが、実は多数派が少数派を抑圧するシステムに過ぎないのである。

 

確信犯的なイデオローグや扇動者だけの力では社会は変わらない。善良な市民が暴走することによって、変革(良い意味でも悪い意味でも)が起きるのである。

マジョリティがマイノリティを抑圧することを正当化するためのイデオロギーが民主主義には内在している。一旦、マジョリティが寛容さを欠くような事態に陥ると、どのような社会でも一元化された価値観に基づく「一定の流れ」に雪崩を打つ危険性がある。

特にこの国は付和雷同的性質が強い。

 

善良な市民は常に暴走の危険性を孕む存在である。ひとりひとりは常識や良識を持つ良き市民ではあるけれども、ちょっとしたきっかけで弱者やマイノリティを執拗にバッシングする存在に変わりうる。

このマジョリティに属する「普通の人たち」の善意がこの社会を誤った方向に押し流す可能性を常に秘めている。

これらのことを押しとどめる方策は僕には分からない。

ただ、言えることはマイノリティや社会的弱者に対する「想像力」を欠かさないことではないかということだ。決して同情や共感ではない。

自分とは価値観や感じ方が違う人たちがいる、いてもいい、という構えを取るだけでも十分である。かなり楽観的な考え方ではあるけれども。

「取り越し苦労」なんてしすぎない方が良いという件〈再掲〉

先のことなんて分からない、と頭では理解していても僕たちはついつい取り越し苦労をしてしまう。これは人としての本能なのか、あるいは後天的に身についた行動様式なのか、僕には分からない。

いずれにしても、先々のことをあれこれ考えて自分の行動にブレーキをかけるのは、賢明ではないと思う。

 

初出 2017/12/21

 

この先どうなるかなんて誰にも分からない。

分かり切った話である。

しかしながら、予測がつかない未来のことについてあれこれと考えて「取り越し苦労」をする人が多い。

一方で今の状況が過去の時点においての未来予測の内容と食い違っていることが殆どである。未来なんて予見不可能なものである。

 

取り越し苦労は未来予測が可能という前提の下で成り立っている。

老後の生活を若い時分から心配して老後資金はいくら必要なのかと気を揉む。

今の楽しみを放棄しても将来のために我慢を重ねる。

今勤めている会社にずっと働き続けられるのか分からない、リストラされるかもしれないと恐れて自己啓発に励む。

未来予測は不可能だと頭では分かっていもついつい取り越し苦労をしてしまう。

このジレンマはなぜ起きるのか。

色々と要因はあるけれども、そのひとつとして「不安感」を払拭したいと切望するからである。将来の見通しが立たないと人は不安になる。その状態に耐えられないのだ。

 

ビジネスの領域では、ネガティブな未来予測を立てて、そのリスクに備えることが善とされている。リスク・マネジメントができない会社あるいは個人はビジネスの能力に欠けるというレッテルを貼られるのである。

確かにリスクに対する備えは必要である。リスク・マネジメントができない会社には未来がないと言われている。

しかしこのことはあくまでビジネスの世界での話であって、人の生き方・生き様にすべてを適用することはできない。

 

とはいえ、人は取り越し苦労をすることによって生き延びてきたことは否定できない。分かるはずもない未来についてあれこれと思いを巡らせ、その度ごとに最悪の事態を回避してきたと言える。

他方で取り越し苦労をすることによって行動の選択の幅が狭まり、それによって自分の行動が縛られがちだとも言える。

取り越し苦労という思考法・行動様式は取り扱いが難しいものなのである。

取り越し苦労を全くしない人はただの能天気であり、それをやりすぎると極度の心配性となる(時として神経症的になる)。

 

今のこの世の中で僕たちは取り越し苦労ばかりをさせられて生きている。

個人の性格や資質によって取り越し苦労の度合いも変わってくるのだろうが、やはりこの社会のありようによってそれの度合いが決することが多いと思う。

いつのどの時代においても人は程度の差こそあれ「取り越し苦労」をしてきたはずである。人が作り上げた社会というものは不確定要素が多すぎて、その社会の中で生き延びていくためにはできないとは分かっていても常に何らかの未来予測をしてきたのである。

 

僕たちはこれからも(社会がどのように変化しようとも)「取り越し苦労」をし続けなければならないのかもしれない。

良いように言えば、取り越し苦労をするということは生きている証なのである。

しかし、ものには限度がある。

取り越し苦労ばかりをしすぎるのもどうかと思う。

先のことなんて分からないけれども良い意味でも悪い意味でも「なるようにしかならない」と開き直るメンタリティをもっと持ってもいいのではないかと思えてならない。

そして大抵の場合は「なるようになって」、「何とかなる」ものである。

楽観的に過ぎる考え方かもしれないけれども。

  

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