希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

嫌いな人と付き合う必要はないという件〈再掲〉

僕たちは「好き嫌いを言うな」と幼少の頃から教えられる。

食べ物の好き嫌い、人の好き嫌い、いずれも好ましくないこととされている。

好き嫌いを言うことが単なる我儘とされる社会は何となく息苦しく感じられる。

 

初出 2017/9/28

 

人との付き合いは厄介なものである。

相性が悪い人もいるし当然に好き嫌いもある。

真っ当な社会人ならば、特にサラリーマンならば好ましく思わない人とも付き合っていかなければならない。

人はひとりでは生きていくことができない。自分以外の人たちと色々と関わり合ってしか生きていくことができない。有史以来人間という生き物に課せられた十字架、それが人付き合いというものである。

 

僕がいやだなあと思う言説は「嫌な人と付き合うことで成長し人格の陶冶がなされる」といった類のものである。あるいは嫌な人とも付き合えるのはその人の器量が大きいことの証であるといった類の物言いも嫌である。

この手の言説が正しいという根拠はない。

嫌な人と付き合う「我慢」が尊いという精神主義的言説に過ぎない。

 

僕がサラリーマン的な働き方を忌避する理由のひとつは嫌いな人とも付き合わなければならないということにある。

サラリーマンが嫌いな人とも付き合わなければならないということは自明のことである。その代償として定まった時期・額の給料をもらっているのである。

世のサラリーマンはこのことを受け入れている。僕は受け入れることに我慢がならなかった、ただそれだけのことである。

 

嫌いな人たちと付き合うということは、「不快な人間関係に耐える」耐性を身に付けるということである。この耐性は明らかに有害なものである。

しかし、一般的には「不快な人間関係に耐える」耐性を涵養することは善だとされている。人の好き嫌いを行動のベースに置いてはならない、そんなことをする人はまともな大人ではないとみなされるのだ。嫌だと感じる人とも涼しい顔をして付き合えないような奴はロクなもんじゃないとされるのである。他方で嫌いな人と涼しい顔をして付き合える人は立派な大人とみなされる。

そして、「不快な人間関係に耐える」ことが次第に自己目的化するのである。

 

そんなに嫌いな人と付き合えることが立派なことなのだろうか。

嫌いな奴とは付き合わないということが子供っぽい振る舞いなのだろうか。

嫌いな人とは付き合わないでいることによって生じるリスクを取るという行為は、それはそれでなかなか大したもんじゃないか、と僕は思う。

ビジネスであるいはプライベートで、嫌な人と付き合うことによって得られる利益を放擲してもいいとするメンタリティを持つことは気概のある証左だと思うのだけれども、僕の偏った考え方なのだろうか(おそらくそうだろう)。

 

今の僕は極力嫌な人とは付き合わないような生活を送っている。

今のところはとても快適である。

かつてサラリーマン時代、フリーランスのときは嫌だな感じる人たちともすすんで付き合っていた。前述のように、嫌な人たちとも付き合うことで人間的な成長があるはずだと思い込んでいたからだ。また、嫌な人たちと付き合うことによって得られる目先の利益を追いかけていたからだ。結果、僕は疲弊し、すべてのものを失うことになった。

何度もこのブログに書いているが、僕はあるときに開き直り、それまでに積み上げたものをガラガラポンすることにした。そのときにこれからは嫌な人とは付き合わない、と決心した。

この決心が正しいものなのかどうかは分からない。

得られるものもあれば失うものもあるだろう。

たとえ失うものが多かろうとも、僕はこの決心によって至った心境を大切にしたい。

面白く、楽しく、僕の一生を全うするために。

 

 

 

社会システムの機能不全は個人の資質向上なんかではカバーできないという件

この社会には様々な矛盾や歪みが存在する。

その多くは既存の社会システムが機能不全に陥っていることに由来する。

厄介なのはシステムの綻びがなかなか可視化せずに取り返しのつかない状況になってようやっと多くの人たち気づくことである。

 

ある領域でのシステムの機能不全が白日の下に晒されると、多くの場合その綻びをなんとか取り繕おうとすることしかされない。システム自体が不調に陥っている根本的な原因を追究することなく、当事者のがんばりや資質の向上なんかで乗り切ろうとするのである。

 

貧困問題、経済的格差の拡大は無視できない段階に至っている。

これらの問題は明らかに政策の失敗によるものである。富が偏在し、再分配政策がまともに機能していないのである。しかしながら、社会的な強者や支配層に連なる者たちは自己責任によるものだと強弁する。

 

昨今の教育問題にしても様々な要因はあるが、教育の劣化は新自由主義的な政策によって引き起こされている部分が大きい。

教育制度や理念そのものに瑕疵があるのに、個々の教員の資質や生徒のやる気や意欲や資質の向上をもってして事足れりとするのは明らかに間違っている。

 

働きすぎ、過労死・過労自殺等の問題にしても同様である。

個々の労働者の意識改革でお茶を濁すようではいつまでたっても良い方向には向かわない。この社会を覆っている労働観(労働至上主義や勤勉至上主義等)に基づいて設計されているシステムそのものを変えなければ、根本的な解決は叶わない。

 

確かにかっちりと構築されているように見えるシステムの再構築は困難なことである。

元々のシステムによって恩恵を受けている人たち、既得権者が多くなればなるほど再構築を阻む圧力は強くなる。

 

もうそろそろ社会システムの機能不全を個人の頑張りや意欲で補って良しとするようなことはやめにしないといけない、と僕は思う。

システムを構築する者、既存のシステムを固守し既得権にしがみついている者の責任逃れにしかなっていないのだと知るべきなのである。

個人の資質向上の営為は続けるべきなのは当然のことである。しかし、それはシステムの綻びを隠蔽するためになすことではない。ひとりひとりがより良き生を全うするためのものなのである。

 

機能不全に陥ったシステムの再構築の主体を「お上」のみに頼っていてはどうにもならない。そのことは理解はしているが、根源的な解決策は僕には分からない。

粛々と自分のなすべきことをやり続け(資質の向上に資することも続けながら)、ひとりひとりの声は小さくても「声を上げ続ける」しかない、としか言えない。

システムの再構築は大掛かりな営みだけれども、そのベースとなるのはやはりひとりひとりの日々の営みの積み重ねしかないのだから。

 

 

 

「言葉にできないこと」は山ほどある、という件

ヒトという種がこれほど進化し繁栄を謳歌できるのは言葉を身に付けたからだと言われている。

コミュニケーションの手段は幾つもあるが、言葉がその主たるものであることは確かである。言葉の持つ力は大きなものだ。

 

ところが、言葉は人の思考をすべて表せるわけではない。この社会で起きている出来事をすべて的確に表現できない。言葉の持つ力には限界がある。

この世には言葉で言い表せないことが沢山ある、ということだ。

当然と言えば当然のことだけれども、僕たちはしばしば言葉の持つ力を過大評価する。自分の思っていることはすべて言葉にできる、この社会の姿を言葉で説明できると思い込んでしまう。

 

恋愛において、時としてそれが不毛なものに感じられたり、ディスコミュニケーションが生じるのは言葉に過剰に寄り掛かっているからである。

自分の思いが言葉にすればそれが陳腐なものと化してしまうことは多くの人たちが経験していると思う。自分の本当の感情が半分も表現できないと臍を噛むような思いをすることが多い。言葉は万能なものではないし、ありえないのである。

 

僕はブログを書くたびに自分の考えていることが十分に表現できていないとの思いにとらわれる。それは僕の文章能力が稚拙であるということは論を待たない。

僕の表現力が稚拙であることを考慮しても、それにしても自分の思いがうまく文章にならないことに苛立ちを覚えてばかりいた。

伝えたいことがあるのに、それをうまく伝えられない。言葉という強力な表現手段があるのにそれを上手に使いこなせない。一見自分が言いたいことを表現できたような文章を書いても、読み返してみると粗が目立ち不満が残る。この繰り返しである。

 

僕は自分が言いたいことを言葉によってすべて伝えるのは無理だと半ば諦めている。

「言葉にできないこと」はこの世に山ほどあって、そのことを受け入れなければならないと思っている。言葉によってすべてのことを表現できる、と考えるのはとても傲慢なことなんじゃないかと思うようになってきた。たとえ今以上の表現技法を身に付けても状況は変わらない。

 

知的な営為とはこの世の中で複雑に入り組み錯綜した様々なことを言語化することである。

僕たちは先人の営みを後追いしているだけに過ぎない。その言語化されたものを借りて、それをさも自分のオリジナルのものと思い込んで用いているだけなのである。

僕たちは謙虚さを忘れている。

この世のすべてのものごとを言葉にできるはずだと思い込んでいる。

「言葉にできないこと」なんてあちらこちらに沢山あって当然なのである。

 

自分が思っていること・考えていることを言葉を使って表現することは面白い営みである、と僕は確信している。

それだけで十分なのではないか、とも思っている。

言葉にできないようなものごとに相対して、それを自分なりの言葉にしようと格闘することもまた面白い営みである。

言葉で表現することは奥が深い(当たり前のことを今さら言うな、という感じだけれども)。

どうやら僕はこの奥が深い営みに魅入られたらしい。

 

 

 

適度に「棲み分け」ができている社会が生きやすいという件〈再掲〉

人には得意不得意、向き不向きがある。

人それぞれが自分の適性に応じて、役割を果たして、自分の力を共同体に還元できているようになれば生きやすくなると僕は思う。

 

初出 2017/9/19

 

人それぞれが持っている価値観は異なっている。

得意分野不得意分野もそれぞれ違っている。

好きなこと嫌いなことも当然に違っている。

自分が大切なことだと考えているものも異なる。

とても当たり前のことを並べてみたけれども、今の世の中は人を均質化させようという強い作用が働いている側面があるように思えてならない。

 

野生の動植物は生態系の一部として「棲み分け」をして共存共栄している。

人も動物である。

人が作り上げた共同体の中でそれぞれその資質や適性に応じた棲み分けをして共同体の一員としての役割を果たしながら生き永らえてきた。

その棲み分けは時として「身分」というものを作ったり「階級」や「階層」を生み出してきた。共同体の成員間に「分断線」を作ってきてその弊害があったことは否定できない。

 

資本主義体制下では必然的に持つ者と持たざる者が生まれ、その両者の間に大きな経済的格差が生じることになる。貧しい者と富める者に分断され、それぞれが自身のテリトリーの中で生き、階級の再生産をすることは「棲み分け」と言えるのだろうか。

僕が言いたい「棲み分け」とはニュアンスが異なるものである。もっと実生活に根差したミニマムなものである。

 

僕たちはどんな形であれ、生活を営むためにはカネを稼がなければならない。資本主義体制の社会ではカネこそが万能の役割を果たしているからである。

本来なら人はカネを得るために、社会規範に反しない限り、いかなる手段を用いてもよいはずである。

だが、現実として大半の人たちが雇われて働くという形を取って収入を得ている。もちろん、サラリーマン(労働者)と言っても多種多様である。

仕事の内容や勤務形態等はそれぞれである。

大ざっぱなとらえ方になってしまうが、今は労働者中心の「企業社会」となっている。主だった社会システムもマジョリティが有する価値観も「雇われて働く」ことがデフォルトとなっている。

 

僕の全くな個人的な感覚なのだけれども、この社会では人々は「棲み分け」ができているようで実はできていない、と思われる。

これは僕が企業社会から逸れてしまって少数派に属しているから抱いてしまう感覚なのかもしれない。

企業社会ありきの棲み分けと僕が思う棲み分けは全く異なるものである。

 

僕が言いたい「棲み分け」は至ってシンプルなものである。

会社に勤めて働くことが嫌い、辛い、苦痛な人たちまでもが心ならずも会社勤めをしなければならない状況を何とかしたいというものである。

いや、僕に「何とかする」力も影響力もない。

僕自身や会社勤めに疲れて嫌気が差している周囲の人たちだけでも苦痛を感じないようなカネの稼ぎ方がないものかと試行錯誤し、その実践をしたいというものである。

企業社会から離れて、自己の領域で己の力で仕事を得て稼ぐ、そんなことができないか、ということである。

例えばphaさんやその周囲にいる人たち、松本哉さんの「素人の乱」、伊藤洋志さんが提唱する「ナリワイ」など、企業社会から一線を画した働き方や生き方である。

企業社会特有のイデオロギーに毒されない独自の働き方や生き方を実践すること、それが僕の言いたい「棲み分け」である(本来のこの語の用法とはかけ離れているのは承知の上である)。

 

会社や役所をはじめとする組織に属さないと世間では信用されないのも事実である。

なかなか「棲み分け」を実践することは難しい。

自律性と自己責任が要求される。

「安定」を捨てなければならない。

しかしながら、マジョリティの人たちよりも困難なことだと分かっていても別な生き方・働き方を選択せざるを得ない人たちがいる。

「棲み分け」によって自分の居場所を得ている人や得たい人が今よりもちょっとだけ社会に受け入れられるようになれば、随分と生きやすくなる。

「カネよりも命が大事」という当たり前のことを分かっていない人が多くいるという件

一番大切なものは自分の命である、というのは当たり前の話である。「命あっての物種」なのである。

カネは生きていくうえで大切なものではあるが、その優先順位は命よりも劣るもののはずである。

 

しかしながら、「命よりもカネが大事」と考えている御仁が多くいることも確かなようである。

無理もない話ではある。

資本主義体制の社会ではカネが至上の価値を持つものであって、命をカネに換える所業は否定されてはいない。

例えば原発の問題。

僕は反原発の運動の一部、イデオロギーを内包した活動には大いなる違和感を覚えるが、脱原発に舵を切らざるを得ないとの考えを持っている。

原発推進派の拠り所は原発が廃止されるとエネルギー効率が悪化し経済成長が阻害されるというものである。また、原発が有する膨大な利権を手放したくないという意図もある。いずれにしても、国民の生活の安全や命よりもカネが大切だということだ。

 

未だに無くならない過労死や過労自殺にしても、その根本にあるのは会社が労働者の健康や命よりも企業利益の確保が最優先事項としているからである。

財界がホワイトカラーエグゼンプションの導入や裁量労働制の拡大を目論んでいるのは人件費を削って利益の極大化を図りたいという理由からである。そこには労働者の健康や人としての尊厳は考慮されない。極言すれば、労働者が次々と過労死しても替えはいくらでもいて、労働者の命なんかよりもカネ儲けの方を優先するということだ。

多くの財界人・経営者は「命よりもカネが大事」という価値観を共有し、それが資本主義の社会では自明のことなのである。財界の利益擁護を党是とする現政権が続く限りこの状況は変わることはない。

 

今も昔も「人の命の価値」は重くはない。建前では人命は尊いというイデオロギーが流布しているが、実際は軽んじられている。

過労死に至った事案で会社側の責任が認められても、賠償額はそれほど高額にはならない。過労死した労働者の稼働能力に限定された額となる。それはそれで「合理的」な判断だと言えるけれども、その賠償額は会社にとっては(特に大企業にとっては)はしたカネに過ぎない。過労死を引き起こして負う賠償額と、労働者を死ぬまでこき使って得た利益を比較考量してみて後者の方が大となると、会社はどのような行動を採るかは自明のことである。過労死事件を起こすと一時だけその会社は世間の非難は浴びるが、時の経過とともに人々は忘れていく。電通なんかはその典型的な例である。

 

もしかすると多くの人たちは「カネよりも命が大事」ということを忘れがちになり、「命よりもカネが大事」という資本主義のドグマに毒されているのかもしれない。

自分の命があるいは人の命が一番大切なものであるという「常識」を血肉化して、カネの持つ魔力に相対しなければならないのではないかとつくづく思う。カネを稼ぎ、富をひたすらに蓄えることを至上の価値とする考えは決して品のあるものじゃないと、かつてはそうみなされていたように。

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