希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

人は宗教やイデオロギーとは無縁ではいられないという件

僕は特定の宗教を信じていない。特定のイデオロギーの信奉者でもない。

いや、厳密に言えばそのように思い込んでいるだけなのかもしれない。

何々教を信じていないとか、何々主義者でもないという表面上のことだけなのだ。特定の宗派を信じているとか特定のイデオロギーを有している、などといったことは表層部分しか見ていないのである。

 

この国で生活している人たちは無宗教であるとよく言われる。イデオロギー色が薄い国民性だと言われている。

果たして本当にそうなのだろうか。

占いやジンクスを信じたり、パワースポット巡りをしたりすることは宗教と無関係だとは言い切れない。

資本主義体制を無抵抗に受け入れ、経済成長至上主義的な考えに疑念を呈することもあまりない。

 

この国では厳然とした宗教・イデオロギーが存在する。

特に戦後に顕著となったものであるが、「会社教」とも言うべきものであり、「労働至上主義」「勤勉至上主義」といったイデオロギーである。

高度経済成長期以降会社をはじめとする組織に属して働く人たちが大多数となり、会社が地域共同体の代替物としてその存在感を大きくしたのである。

多くの人たちは会社の中に埋没し、自律的に生きることを放棄し、会社の論理に盲従するようになったのである。

名経営者と呼ばれる人たちが「教祖」となり、多くの人たちはその教義を受け入れ、ますます「労働することが人生の目的」と化し、同時に労働至上主義イデオロギーに盲従することになったのである。

 

世の多くのサラリーマンは「自分はそんなイデオロギーとは関係ない」「好きで働いている、生活のために働いている」と言うだろう。

人はあるイデオロギーに盲従すると、自分はそのイデオロギーに基づいた価値観に縛られていることを意識できなくなる。この無意識の盲従が多数の人たちによってなされるとそのイデオロギーは無謬性を獲得する。

労働至上主義あるいは勤勉至上主義的イデオロギーは資本主義体制を維持するための必要不可欠なエートスであり、大多数の人たちはこのイデオロギーを知らず知らずのうちに信奉しているのである。

 

僕たちは宗教やイデオロギーという言葉を聞くと、何か特別なものであるという感覚を持つ。一部の狂信的な信者や主義者特有のものである、という思い込みをしている。

働くことは生活の糧を得るためのものと割り切っているように思っていても、実はその根底には労働至上主義的なイデオロギーがある、ということを忘れがちになっている。

働かない人、怠けているように見える人、ニートやひきこもっている人を目にしたら嫌悪感を抱く人が多いのはそれらの人たちが労働至上主義的イデオロギーに毒されているからである。

 

この世に絶対的に正しいイデオロギーなど存在しない。

労働至上主義イデオロギーも勤勉至上主義イデオロギーもそうである。資本主義が勃興し、資本主義を維持発展させるために都合が良いものとして生まれたものに過ぎない。

たまたまこれらのイデオロギーの信奉者が多数派になっているだけのことなのだ。

 

人は宗教やイデオロギーとは無縁ではいられない。

目に見えないものを信じ、絶対的な存在を意識することは悪いことではない。

絶対的に正しいとされる思想に従うこともまた悪いこととは言い切れない。

しかし、宗教やイデオロギーに基づく「正義」によって大量の人たちが殺戮されたことは歴史が証明している。この事実を忘れてはならない。こんなに大仰なことではなくても、イデオロギーに盲従することはそのことによって人を縛り付けることになりがちである。

 

僕が今信奉しているイデオロギーは「怠けていてどこが悪いねん、ダメ人間で悪いかよ」といった怠惰礼賛主義、ダメ人間肯定主義である。

このイデオロギーも当然に絶対的に正しいものではない。

 

「雇われて働く」と仕事をすることが苦痛になるという件〈再掲〉

全就労者のほとんどが雇われて働く形をとっている。「雇われて働く」ことが当たり前となっていて、サラリーマンがマジョリティとなっている。社会システムもこのことを前提として作られている。雇われる形で働くことに違和感を持っている人たちは少なくない、と希望的観測を僕は持っている。

 

初出 2017/9/14

 

僕は雇われて働くということがたまらなく苦痛である。

世のサラリーマンが長時間労働サービス残業をこなし、都市部では非人間的なラッシュの通勤地獄であっても日々休むことなく働き続けていることに敬意を覚える。

僕にはとてもじゃないができないことである。

 

僕がサラリーマンをしていた頃は常に「やらされ感」がつきまとっていた。

割り当てられたほとんどの仕事はつまらなくて誰がやっても同じじゃないかとネガティブな思いで何とかこなしていた。

このことは僕がたまたま面白い仕事に当たらなかっただけなのだと思うこともあるけれども、いや違う、世の仕事なんて似たり寄ったりで面白くて創造性のある仕事が出来る人なんてレアケースなんだとも思ったりもしている。

 

僕はフリーランスで仕事をしていた期間が結構ある。社労士事務所を自営していたときはまさにフリーランスだったし、非常勤で専門学校や職業訓練校の講師をしていたときは雇われてはいたけれども裁量の余地が大きい形で働いていた。

これらの仕事をしているときはほとんど「やらされ感」はなかったように思う。

業務の締め切りが重なって連日夜遅くまで仕事をしていても精神的な疲労は少なかったし変なストレスを感じることもなかった。

 

僕は社労士事務所を辞めてから幾つかの介護福祉関連の事業所に勤めたが、どこも長続きしなかった。自分が並々ならぬ興味を持った業界であるにも関わらず。その理由としては劣悪な労働条件や人間関係等があげられるが、それはどの業種・業界でもあることである。やはり「雇われて働く」こと自体がとても苦痛だったのだ。

 

現代社会では雇われて働くことは当たり前のことである、とみなされている。仕事をしている人たちの殆どが組織に属している。仕事をすることほぼイコール雇われて働くことなのである。会社やその他の役所や団体等に雇われて働くことができない人たちは少数派であり、いわば真っ当ではない人たちなのである。雇われて働くことによって奪われる自律性、自由などは物の数ではない、そんなことは当たり前だと受け入れなければならない。そんなことに苦痛を感じているようでは、この社会でまともに生きてはいけないのである。

 

ならば、僕は「まとも」には生きていけないことになる。若い頃から薄々は感じていたことだけれども、それを全面的に受け入れることはかつては嫌だった。たとえ生きづらさを感じていても我慢して人並みかあるいは人並み以上の経済的豊かさや社会的地位を得ようともがいていたのだ。

雇われて働くことに苦痛を感じ、無理してそれを続けると心身共に異常をきたすことを繰り返して、やっと自分は「まとも」に生きることは無理であることに気付き、別の生き方を探そうという考え方に変えざるをえなくなった。

僕はこれで良かったのだと思っている。苦痛を感じながら、面白くもないことを延々と続けることなんて限られた人生・時間の浪費である。

 

僕は今、僕なりの「真っ当」で「まとも」な生き方を模索し続けている。

多くの人が当たり前にできることが僕にはできないことに悲観はしない。

カネはなし、社会的地位や名誉もなし、社会的信用もなし、それでもいい、面白くて楽しい人生を送ろうとあれこれ思いを巡らせながら実践している。

雇われて働くことを苦痛に感じる体質(?)に生まれついたことも悪くはない、思っている。かなり強がり・自己正当化が入っているけれども。

薄っぺらい正義がまかり通る社会は息苦しいという件

僕はほとんどテレビを観ない。

週刊誌の類も読まない。

芸能人や政治家のスキャンダルやゴシップは嫌いではないけれども、その報道姿勢が気にくわないのである。

それは相対的に弱い立場の人には執拗に絡み続け、強い立場にある人はスルーすることである。また、スキャンダルを起こした人に対して「正義」を全面に出して糾弾することである。薄っぺらい正義を振りかざして。

 

スキャンダルの定番のネタとして不倫問題がある。

確かに不倫行為はほめられたものではなく、「悪い」ことである。

しかしそれは不倫の当事者間の問題に過ぎないものである。第三者があれこれとやかく言う筋合いのものではない。色恋沙汰に他人が首を突っ込むのは「野暮」というものである。

 

他の定番ネタとしてはカネを巡るトラブルがある。借金未済とか税金の滞納で資産を差し押さえられたといった類の話題である。

これも不倫と同様に当事者間の問題に過ぎない性質のものである。

特に借金の相手が金融機関ならばこれは「契約不履行」の問題に過ぎない。借金を返さないような奴は人でなしであるかのように扱うのはおかしいことである。

それにたかだかカネを返す返さないといった話で人格攻撃をすることは明らかに間違っている。

 

マスコミ等が舌鋒鋭く絡むのは相手が弱い立場にいるときに限られるのが僕は気にくわない。

芸能人のスキャンダルでも、ジャニーズ事務所をはじめとする大事務所に所属する芸能人に対してはスルーする。力の弱い事務所に所属する芸能人に対しては完膚なきまで叩く。

力のある政治家(某総理大臣など)がどんなことをしでかしてもスルーする。

小さな問題や個人的な問題には異常なまでのバッシングを続け、大きな問題には目を背け続けているのである。

 

スキャンダルを起こした人たち(それも立場的に弱い人たち)への執拗なバッシングが「正義」の名のもとになされているというところに問題の根深さがある。

決して「悪意」からはなされていないのだ。ヘイトスピーチと同様に。

 

僕たちは「薄っぺらい正義」に身を置くことに快感を得ているのだ。それも自分とは直接利害関係のない「外側」にいる人間として安全地帯に身を置いて、身近ではない人をバッシングすることで普段の不満や欝憤を晴らすはけ口としているのである。

この「薄っぺらい正義」がいつかは自分に向けられるかもしれないということに思いをはせることもなく。

 

 

「ブラック社労士」はこれからもずっと存在し続けるという件

ネットの記事で「ブラック社労士」のことが言及されていた。

NPO法人POSSE今野晴貴さんの手によるものだ。

昔に社労士業を生業としていた僕にとっては耳が痛い内容である。

 

社労士は主として会社と顧問契約を結ぶ。だからどうしても会社側や経営者側に立って業務をしがちとなる。顧問先の殆どが中小零細企業なので時として経営者個人と契約を交わしているという錯覚に陥る。経営者の意向を汲むのが第一となってしまいがちである。

 

社労士は会社から様々な種類の相談を受ける。社会保険や労働保険に関すること、社員の労働条件に関すること(賃金・労働時間・有給休暇等)、人事考課や給与制度に関すること、助成金に関すること等々である。

ここでは労働条件に関する相談に絞って論を進めていこうと思う。

多くの中小企業では労働基準法が守られていない。このことを気にしている経営者も多い。これらの経営者が社労士に相談するパターンは大方以下の二つに分けられる。ひとつは現行の労働条件を改善し、社員の待遇を本当に良くしたいと考える場合。もうひとつは「見せかけで」労基法を遵守しているように見せかけたいと考える場合である。前者ならば社労士としてはやりがいのある仕事となる。しかしながら、現実は後者のような相談が少なくなかった。

後者のタイプの依頼を受けると結果として労働者の利益を毀損することになる。僕もこのタイプの依頼を受けたことがある。むりやり「変形労働制」を導入したり、「みなし労働時間制」を導入したりといった風に。さすがに今話題の「裁量労働制」をねじ込んだりしたことはない。

 

社会保険労務士は本来ならば会社側(経営者側)と労働者の双方の利益に資するために働かなければならない。しかしこれはあくまで建前であり理想論である。会社・経営者と顧問契約を結び、会社・経営者から報酬を得ることになる関係上、どうしても会社寄りの立場に立つことになる。

 

僕が社労士業を始めた頃はまだ「古き良き時代」の名残があった。

それは社労士は社会保険の手続を代行し、就業規則を作ったり変えたりし、労基法を守るように指導・助言するだけで仕事を得ることができたのだ。顧問先の会社で何か問題が起きても、長期的な視点で問題解決に当たることができたのである。

それが2000年代の半ばころから風向きが変わってきた。社員のリストラに関する相談や社員の労働条件を切り下げる(どちらも「合法的」に)類の相談が増えてきたのである。牧歌的な時代が終焉したのである。

僕はこの手の依頼の多くは断った。僕に倫理観や正義感があったからではない。労働者を酷使するような会社は先がないと考え、そんな会社は近い将来には破綻し、そのような会社とは良好的な関係は築けないのでメリットがないと考えたからである。つまり報酬が長期間に渡って安定的に得られないと思ったからである。僕の「経営判断」である。結果としてこの判断は誤っていて、僕は社労士業を辞めることとなった。

 

要するに多くの会社は目の前の利益、短期的な利益に資する(人件費の切り下げ等)依頼を社労士に投げかけるようになったのである。

一部の社労士は集客のために仕方なく、あるいはそのような状況を「ビジネス・チャンス」と捉えた。このような労働者の不利益に直結するような案件を積極的に受注する社労士が出てきたのである。この点が「ブラック社労士」を出現させる要因となったのである。ある者は事務所を存続させるためにやむなく、ある者はより稼ぐためにすすんで「ブラック社労士」となったのだ。昔ながらの牧歌的な社労士業務は先細りという現状を鑑みて、「合理的な判断」でブラック色を強めていったとも言える。

 

新自由主義的な価値観が社労士業界の在り方を変えたと僕は思っている。

あるいは「顧客至上主義」的な価値観が蔓延したことも社労士の在り方を変えたとも思っている。依頼者である会社の目に見える利益、短期的利益のみを叶える社労士が「できる社労士」という風潮となった。会社が安定的に長期に存続できるために労働者の労働条件を改善・整備するという悠長なことは言っていられなくなったのだ。

 

社労士業界は「ぬるま湯」に浸かっていたのだという批判がある。

牧歌的な時代には社労士業務を既得権として固守していたという批判もある。

それはそれで正当なものである、真っ当な批判である、と僕は思う。

しかしながら、顧客の利益すなわち会社や経営者の目先の利益のみを実現させることが正しいという新自由主義的なあるいは顧客至上主義的価値観に基づいた仕事をせよ、という考え方には全面的に首肯できない。

もし、そういった利益優先的な考え方が善とされれば、おそらく「ブラック社労士」なるものは増えこそすれ減ることはない。社労士ひとりひとりの資質の問題に還元しても何も変わらない。

「ブラック社労士」を跋扈させている根本的な要因は、「正しいとされている価値観」を疑うこともなく自明のこととしている多くの人たちの「ありよう」の問題なのである。

 

 

資本主義体制は「弱者」を次々と生み出すことによって成り立っているという件〈再掲〉

資本主義体制はごく少数の強者と多数の弱者によって成り立っている。

資本主義というものは常に市場を求め、経済的弱者を求めながら発展存続する。

資本主義を全否定することはできないが、その病弊は確かに存在する。

 

初出 2017/9/11

 

資本主義体制下では持たざる者と持てる者との格差は拡大する。弱肉強食、優勝劣敗が資本主義に内在しているためである。

ただ、格差を放置していると社会不安を招く。かつては社会主義共産主義革命が起こる可能性があった。現行の体制が崩壊しては元も子もない、とエスタブリッシュメントは当然に考える。

そこで社会保障制度を導入し、持たざる者たちのガス抜きを図るわけである。社会保険や福祉の整備は国民の幸福を思ってのことではない。あくまで現体制の維持を意図してのものである。

エスタブリッシュメントは本音としては社会保障社会福祉にカネを使いたくない。それらから生じる利権は貪るが、国民の生活がどうなろうと関係ない、自分たちさえ栄えれば良しと思っている。

 

新自由主義市場原理主義では弱者の救済はできない。いや、資本主義そのものが弱者救済とは相容れない代物である。

社会保障制度や社会福祉制度は資本主義体制を維持するために、社会主義社会民主主義の政策を一部取り入れたものである。革命が起きるよりはマシだと考えて取り入れたものである。

 

実は弱者救済や格差の是正を図るにはファシズム体制を導入することが手っ取り早いというジレンマがある。

戦前のこの国においても既成政党の腐敗、官僚の腐敗、著しい経済格差が問題となっていた。その解決のためには反資本主義的な政策が必要だとされていた。国家社会主義ファシズムが有効な政治思想だと考えられていたのだ。北一輝の思想に影響を受けた青年将校が起こした2・26事件はその典型である。

ファシズムは「ファッショ」、つまり国民を束ね、共同体の力を強くしていこうとする思想である。ファシズムでは社会的弱者は共同体の成員であり、彼らは救わなければならないと考える。生活が破綻する者がいれば共同体の力が弱まるからである。

ファシズムは弱者救済という一点のみに着目すれば、有効な政治思想である。しかし、その副作用があまりにも多く現れるために現実的ではない。

「個」は「全体」に奉仕しなければならないとする思想は個人主義とは相容れない。強い共同体志向は排外主義を引き起こす。「自由」が極度に制限されるおそれがある。

 

また、国家による弱者の救済を実現するためには、国家権力の個人への介入を認めなければならない。いわゆる福祉国家は国家権力の介入の度合いが大きい。

 

国家又は自治体による弱者の救済を拡充すれば公権力が個人の生活・個人の自由に介入し、公権力の肥大化を招く。公権力からの自由を重視するか、弱者の救済を重視するか、ジレンマが生じてくる。

 

公権力に頼らない新しいタイプの自助・共助をベースにしたシステムが必要となるのかもしれない。そのキーワードは「脱資本主義」であると僕は思っている。脱経済成長と言ってもよい。

今のまま、新自由主義や経済成長至上主義が続くと、安心して暮らせる社会には程遠い未来が待っている。  

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