希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

「霊が見える人」には温かく接しようという件

僕は心霊やUFOといったオカルトものがあまり好きではない。若い頃は結構好きでオカルト関連の書籍やテレビ番組をよく読んだり観たりしていた。特に精神的に不安定な時期はオカルトにすがっていたような気がする。

 

メディアにはよく霊能者を自称する人が登場する。その霊能者を見て僕は胡散臭いなあ、眉唾ものだなあという感覚を持っていた。

僕の周囲にも霊が見えるとか霊感が強いといった人たちがいた。僕はそれらの人たちに対して「何だかなぁ」という感じで接してきた。

霊なるものが実在するのか僕には分からない。霊の存在を僕は「信じない」というだけの話である。

科学がもっと進歩し、霊というものが目に見えないエネルギー体とか波動とかであると証明される日が来るのかもしれない。僕は目に見えない想念や情念がそこら中にうろちょろしていることに耐えられないのである。気色悪いのである。だから僕は霊の存在を「信じない」のである。霊が存在するかしないのかではなく、信じる信じないのレベルの話にしておいて、何となく安心感を得ようとしているだけの話だ。

 

霊が存在するかどうかということではなく霊が見える人の方に僕の個人的な興味が向いている。

霊が見えると主張している人たちが相手の弱みに付け込んで暴利を貪ったり、悪い霊が憑いてると言って不安に陥れたりするような行為は当然に是認できない。

みんなで集まっているところで「あそこに見える」とか言ってワーワー騒ぐ程度のことは罪がなくて悪いことではない。その程度の「遊び」は目くじら立てずに認められるような「ゆるさ」があってもいい。

 

霊が見えるというのは何の取り柄もない人が他者との差別化・差異化を図るための手軽な手段のひとつとして用いられるものである。身も蓋もない言い方ではあるが、全く的外れなものだとは言えないと思う。

自分は人とは違うと言いたいがために「霊が見える」と言い募る。僕はかつてはこのことが許せなかった。普通の人には見えないものが自分には見えると言い張って優越感に浸るという行為が許せなかったのだ。

しかしながら、今はかなりこの心境に変化が生まれてきている。

 

霊が見えるという人がいても別にいいんじゃないか、と僕は今は思っている。霊が見えるという人たちを気持ち悪がったり、自己顕示欲の塊だと一方的に非難するのは「大人」のする態度ではないのではないか、と思うのである。

霊が見えるという人がもしかしたら何らかの精神的なトラブルや何らかのトラウマを抱えているのかもしれない。あるいは本当にその人だけに霊のようなものが見えてしまって苦しんでいるのかもしれない。他人には見えないものが、自分だけは見えてしまうというのはとても怖いことである。

 

僕たちは学校で(特に義務教育機関で)「均質化」を強いられ、みんなと同じようにしろといった同調圧力に晒される。ところが高等教育機関ではあるいは社会に出てからは他者との差別化がなされなければ生き残れない、とのプレッシャーを受けることになる。しかも「個性」がすべて認められるわけではなくやはりある程度の「均質化」「同質化」の下での差異化を求められる。

全ての人が他人と明らかに違う強い個性を持っているわけでもなければ、人より優れたもの(才能やスキル等)を持っているわけでもない。

ある人が自分の個性を表出させるひとつの方法として「霊が見える」ことにしても、誰もその人を責められない。

 

僕は霊の存在を信じないけれども、霊が見えるという人に対してはできるだけ暖かい態度で受け入れるようにしたいと思う。

霊が本当に存在するとかしないとか、は大した問題ではない。

霊が見えるという人がいても、実害を被らない限りはその人と関わり合うことに何の問題もない。

霊が見える人は「ちょっと変わった」人というだけのことである。「ちょっと変わった」人なんてこの世にはごまんといる。

「ちょっと変わった」人を「まあ、そんな人もおるわな」といった感じで鷹揚に構えるのが大人の態度である。

 

 

「正しい生き方」なんてこの世には存在しないという件〈再掲〉

高校や大学を出てすぐに正社員として勤め、結婚し、持ち家を所有し、老後は年金で悠々自適、という生き方がモデルケースになったのはそう遠い昔の話ではない。

均質的で画一的な生き方を強いられる社会は健全ではない。

 

初出 2017/6/20

 

人の生き方は千差万別である。

どのような生き方を選択するかは人それぞれの自由であり、他者にとやかく言われる筋合いのものではない。

何を当たり前のことを言っているのか、と思われるかもしれないがこの当たり前のことが蔑ろにされがちなのである。

 

僕たちは幼いころから学校教育を通して「~してはならない」とあるいは「こうあるべきだ」といった類のことを強いられている。同時に親の価値観の強要にもさらされ続けている。

確かに社会に出てからスムーズにその一員となるためには最低限のルールやマナーを身に付ける必要がある。場面に応じた挨拶や言葉遣い、立ち居振る舞いなどはどんな職業に就いていても必要なものである。

 

自分がどのように生きていくか、どういったことに重きを置くかといった価値観・人生観はひとりひとりが自由に形作っていくものである。

仕事中心の生き方を選んでも良いし趣味三昧の日々を送っても良い。カネ儲けに邁進しても良いし、家族や友人との関わり合いを大切にしても良い。

 

今は生産労働人口の8割以上の人たちが雇われて働いている。会社員(僕は労働者と呼ぶべきだと思うが)中心の、会社員がマジョリティの社会となっている。

そうなれば、大抵の人たちは雇われて働くことが当たり前との認識を持つことになる。雇われて働いている人たちの多くは自分の働き方や生き方に疑問を持つことなく、さも当然のことだととらえることになる。

どっぷりと会社に依存した状態が続くと、自分の生き方が「正しい」と思い込むようになる。

サラリーマンが自分の生き方こそが正しいと思うことは構わないし、それは自由である。なにせこの社会のマジョリティなのだから。

 

僕がなんだかなぁ~、勘弁してくれよ、と思うのは自分が信じる「正しさ」を押し付けてくる輩がいることである。

僕はサラリーマン的生き方を拒んでいる。傍から見ればフラフラとしている。決して真っ当といわれる生き方をしていない。

さすがにこの歳になれば、正面切って僕の生き方を否定されることはない(肯定されることも滅多にないけれども)。

若い頃はそうではなかった。例えば、僕が公務員を辞めようとしたとき、当時付き合っていたガールフレンドは僕を強く詰り、母親は強硬に反対した。僕がこれ以上こんな仕事はやってられないといった思いは無視されて、「正しさ」の押し付けをされたのである。

フリーランス的な働き方を選んだときに、一部の知人・友人は僕から離れていった(ついでにガールフレンドも)。

今も交友が続いてる友人連中は自分の「正しさ」を僕に押し付けず、僕の生き方を受け入れてくれた。

自分の正しさを押し付けようとする人たちは、その行為を悪意によってなしているわけではない。殆どが善意からである。しかし、その善意が他者を雁字搦めにし苦しめるという想像力を欠いている。

自分の正しさを押し付けたがる人たちは狭量であり、視野狭窄に陥っていて、そのことを自身で気付いていないのである。

 

絶対的に「正しい生き方」なんかこの世にはないのだ。

正しい生き方を国家が決めるなんてことがあってはならない。そんな社会はディストピアそのものである。

正しい生き方を何となく「世間」が決めて、それに従わないと肩身が狭い思いがするような社会なんて息苦しくてたまらない。

死の間際になって、なんとなく良い人生だった、そこそこ楽しめた人生だったと思うことができれば、それが自分にとっての「正しい」生き方なのである。

 

 

「ズル休み」をすることは楽しいという件

この社会では「休む」ことに対して寛容ではない。多少の体調不良では無理してでも学校や会社に行くことが当たり前のことになっている。ましてや「ズル休み」となれば、そんなことをしてしまいバレてしまったら極悪人の扱いを受けてしまう。一日や二日ズル休みをしてそれがバレたら人格攻撃に晒されることもある(僕の実体験である)。そんな怠け癖のある奴は社会では通用しないぞ、という説教を喰らうのである。

 

確かに会社の経営者や職場の管理者目線からすると、急に理由もなくサボられたら事業の運営に支障を来すことになるので、ズル休みなんかする人間は許されないことになる。まあ尤もな言いぐさではある。

しかしながら、一人や二人が急に抜けただけで事業運営に支障が来すのは、その職場のリスク・マネジメントがなっていないだけの話である。いつもギリギリの人員で仕事を回しているから、いざという時に対処できないのである。人件費をケチったことのツケが回ってきただけなのである。労働者の責任ではない。誰かが休むことありきで人員配置をしない会社が悪い、と働く者は開き直ればいいのである。

 

僕は学校や会社をとことんサボれと煽りたいわけではない。

あまりサボると内申書にも人事考課にも響くし、不利益を被るリスクがある。

けれども、一方で休むことを罪悪視する風潮には抗いたい。

多少の迷惑をかけても、気の乗らない時にはズル休みができて、そのことを殊更に責めたてない程度の「ゆるさ」がなければ息苦しい社会となる。

 

僕が「ズル休み」をすることの快楽を覚えたのは高校生の時だった。僕が通っていた高校は生活指導がいい加減というか殆どそれが無いという誠に素敵な高校だったのだ。

一日全てを休むということはあまりなかったけれども、面白くない科目の授業を中抜けするということはよくやっていた。僕が通っていた高校は城に隣接していていて、その城の周辺にはサボった学生がたむろするスペースが沢山あったのである。

この僕の出身高校のいい加減さというか自由さのおかげで、今のダメ人間である僕の基盤ができた、といっても過言ではない。

 

僕は働きだしてからも、時折ズル休みをしてガス抜きをしていた。働く前から薄々気付いていたことだけれども、僕はサラリーマンという雇われて働くという働き方がどうにも性に合っていなかったのだ。フリーで働くための経験もスキルもない。ならば、時々ズル休みをして息抜きをし、自分の精神のバランスを保つしかなかったのである。自己正当化ではあるれけども。

 

ズル休みにはいくつかの効用があると僕は思う(これも自己正当化だけど)。

ズル休みをすることによってリフレッシュできるとともに、同僚が働いているのに自分だけズルして休んでいる「疚しさ」も生じる。それらによってちょっとだけ明日以降の労働意欲が湧いてくる。

また、自分が休むことによって職場が少しでもバタバタすれば自身の存在意義みたいなものがあるのではという思いを抱くことができる。 

一方で、自分ひとりがいなくても職場は回るということも確認できる。過度のプレッシャーを感じなくて済むのである。

仕事なんかに全精力を注ぎこまなくてもいいという考え方ができる、と同時に自分も少しは役に立っているという思いを抱くことができる。

これらを総合して、仕事なんか人生のほんの一部に過ぎない、ということに思い至るのである。

 

何がしかの「疚しさ」を乗り越えて、ズル休みをすることが楽しくなれば、人生の達人に一歩近づくことになる、と僕は勝手に思っている。

ダメ人間の戯言だと思われても、でもある。

 

 

 

人手不足の会社は自業自得である、という件

人手不足に陥って事業の継続に支障をきたしている会社が多いという報道が散見される。

アベノミクスを賞賛する人たちは好景気の証だと吹聴している。実質賃金が上昇していない事実をどう見ているのだろうか。

労働力人口の減少による不可避な現象だとも言われている。こんなことは人口動態を見れば自明のことで、「何を今さら」という感はぬぐえない。

 

人手不足に至ったのはそうなってしまった会社の自業自得である。

労働条件の切り下げを続け、非正規雇用社員ばかりを増やし、人件費をコストとしかみなさない、そのような搾取の度合いを強め目先の利益ばかりを追い求めた会社に下った天罰だと言ったら言い過ぎだろうか。

 

僕は社会保険労務士として多くの会社の採用業務に関わった経験がある。

その当時から人手不足に悩む会社はあった。他方で一切人手不足で悩まない会社もあった。

その両者を分けた要因は何だったのか。一概に給料の多寡だとか、労働時間や休日の多少だけではなかった。業種や仕事の内容も関わってくる(人気不人気の業種・職種がある)が、同一業種でも人手不足に陥る場合もあればそうでない場合もあり、似たような職種でも同様である。

僕の皮膚感覚としては、「まともに」入職者を遇している会社は人手不足に陥るケースが少なかった。受け入れ態勢がそこそこ整っていて、入職者を戦力として(単なる人手ではない)扱う態度をきちんと示しているような会社は採用には苦戦しなかったのである。

これは理想論だという人もいるだろう。しかし、この程度のことが「理想論」とされること自体が異常なのである。

 

確かに産業構造の変化や労働力人口の減少といった「大きな」外的要因が人手不足を招いているという面はある。しかしながら、一会社の自助努力で何とかなるはずである。

実際に大多数の会社が人手不足に陥っているわけではない。

人手不足に陥っている会社あるいは業種はそうなることに内在的な要因、構造的要因、根本的な欠陥を抱えているのではないだろうか。このことに目を背けて外的要因ばかりに人手不足となる理由を求めるのは怠慢である。

また、これ以上待遇を良くすれば経営が立ち行かなるという話をよく聞くが、そのような会社は冷酷なようだけれども市場から退場しなければならない。社員に劣悪な待遇を押し付けて、そのことによってようやく存続しているような会社には未来がないのである。

 

人手不足の会社は「自己責任」でそれを解消する手立てを講じなければならない。

人手不足という事態に何の対策も取らず、外的要因に責任転嫁しているような会社が事業継続に支障を来すことは自業自得である。

弱者の救済は強者による「恩恵」であってはならないという件〈再掲〉

未だに社会福祉生活保護は政府による恩恵的施策だと思い込んでいる人が多くいる。

社会的弱者が権利を主張すると「弱者権利」を盾にした横暴だと言いたがる輩もいる。

人が人に値する生活を希求するのは普遍的な「権利」である。

 

初出 2017/6/15

 

先進国では社会福祉社会保障制度による救済を受けることは固有の権利だとされている。仮に自分の生活が困窮したとしたならば、生活保護を受給することは当然の権利の行使となる。

しかし、未だに生活保護を受給することは「国に厄介になる」ことであり「恥」であるという意識が残っていて、そのことが受給者にスティグマを刻印することになっている。この国の支配者層はこのような意識を悪用して、社会保障費の削減を常に目論んでいる。古来から「政(まつりごと)」とは民の平穏・安寧を保つこと、具体的には持たざる者たちに対して人としての尊厳を保つ程度の生活を保障することである。過度の競争を強いて「働かざる者、食うべからず」として飢餓の恐怖を煽るような政策を採る政府・権力者は為政者としての資質・資格に欠けているのである。

 

弱者に対する救済は単なる恩恵なのではない。恩恵であってはならない。

生活に困窮する人たちが増えてくると社会が弱体化し崩壊する。

弱者の救済は共同体(国家・社会)を存続させるために必要不可欠なものなのである。

この視点は重要である。

国家による社会保障制度(公助)だけでなく、時には共助も必要となり、最低限の自助努力も必要となる。

権利の行使による個人の生活保障というだけではなく、僕たちが依って立つ共同体を維持し発展させるためにも弱者を放置していてはダメなのである。

 

人は誰でもちょっとしたきっかけで弱者になってしまうという事実を忘れてはならない。失業して収入が断たれたり、病気になったり、老いることは誰にでも起こりうることである。これらのきっかけを「自己責任」として突き放すのは容易いことである。ただの責任放棄である。

また、弱者を「厄介者」扱いし、上から目線で施してやるという態度も共同体の機能を弱体化させる。共同体の成員間で階層が生まれ、分断化され、連帯感を喪失するからである。

 

かつては社会保障社会福祉は国家による恩恵だとされていた。かつての救貧制度は貧困者を厳しく選別し、救済に値する者とそうでない者を仕分けし、救済に値しないとされた人たちを放置していた。

国家による恩恵なのだから、救済を受けるに値する者だけを助ければ良しとされていたのだ。

強者の恩恵による弱者の救済はこのような「選別」の論理による人の値踏みが行われることに大きな問題点・欠陥がある。

 

現行の我が国の弱者に対する救済制度は表向きは生存権を保障することを旨としている。しかしながら、内には強者による恩恵、人を選別する論理が潜行している。ちょっとしたきっかけでこの内なる論理が噴出する危険性がある。繰り返し起こる生活保護バッシングはその最たるものである。

 

生存権社会権といった権利は先人たちが血と汗を流してようやく獲得したものである。権利ばかりを主張するな、という俗論に惑わされてはならない。国家の論理に迎合してもならない。

自分たちが依って立つ共同体の維持・強化のためにも弱者の救済をなおざりにしてはならないのである。同時にいつでも自分は弱者となり得る、「明日は我が身」という意識を持ち続けることも大切である。

強者による恩恵の論理に絡め取られないためにも。

 

 

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