希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

会社に雇われて働くことが当然であるという「常識」を問い直すという件

僕たちはある「システム」や「ルール」に後れて参加していて、それを自明のものとしている。

「会社に雇われて働く」ということが初期設定になってしまっている社会において、そのことを疑いもせずに当然のものとして受け入れているのだ。

確かに現況は何らかの組織(会社や役所等)に雇われて働く人が勤労者の9割近くに達していて、雇用者はマジョリティを形成している。

現行の社会システムはこの雇用者をモデルケースとして形作られている。

 

人はなぜ働くのか、という根源的な問いには唯一の正解はない。「正しい」と目される答えが幾つも存在し、僕たちは常にそれらの中から自分に「しっくりとする」ものを選んでいるだけなのだ。

人はなぜ生きるのか、人はなぜ学ぶのか、といった根源的な問いと同質のものである。

 

仮に人は働くことが当然であるという前提の下で論を進めてみる。

 

働き方は人それぞれが自分の能力や希望や目的に応じて自由に選択し得るもののはずである。時間や場所に縛られることが苦痛と感じる人は雇われない働き方を選択し、そのことによってハンデを背負うことになってはならない。

多くの人が高校や大学や専門学校を卒業して新卒として会社に採用されて働き始めることが当たり前のものになっていて、このパイプラインシステムから外れた人たちはかなりの不利益を被ることになってしまう。この事実は強固な既成事実と化していて、疑問に感じる人はそれほど多くはない。逆に真っ当とされるレールから外れた人が「異端」であり「問題がある人」とであるとレッテル貼りをして時には人格攻撃をして、「システム」そのものに疑義を挟むようなことをすること自体が憚られる雰囲気に覆われている。

 

会社に雇われて働くという形がディフォルトになったのは戦後の経済成長期以降のことに過ぎない。「総サラリーマン化社会」は普遍的事項ではなく、ただ単に資本主義体制下に生まれたひとつの存在形態に過ぎないのである。近未来にはこの「総サラリーマン化社会」が解体することもありうる。現にその兆候が局地的に表れている。

 

今のこの社会が閉塞感に覆われている要因のひとつが「総サラリーマン化社会」にあるのではないか、と僕は思っている。生き方・働き方の多様性を阻害しているのである。見せかけの「安定」や物質的な豊かさに目をくらまされているのである。

 

「総サラリーマン化社会」にはメリットもある。特別な専門知識や技能がなくても、そこそこの学校を卒業してそれなりの会社に属することができれば生活は安定する。会社や役所に寄りかかっていれば大過なく人生を過ごすことができた。

しかし、人が皆組織に属し、組織の論理に絡み取られて働くことを良しとしているわけではない。会社に雇われることによって得られるかりそめの安定よりも別の「何か」を求める人たちもマイノリティながらも少なからず存在する。

 

従来は人々は地域共同体やその他の中間団体に属し、そこに居場所を確保してそれなりに楽しく生きていけたのだ。ところが、それらの共同体や中間団体が解体され、会社がその代替物となったのである。利益集団(利害に基づいて結合している団体)に過ぎない会社というものがそれ以上の役割を担い果たす、という事態は異常であったといえる。この異常さを異常と感じない鈍感さこそがこの社会の閉塞感を作り出しているのである。

 

会社に雇われて働くことが当然である、という「常識」が果たして正しいのか、という問いをしてみることが必要であると僕は常々思っている。

その問いかけに対する正解は出ないかもしれない。

正しい答えなんて出なくても良い。

問い続ける態度こそが大切なのである。

あるひとつの「常識」に盲従することほど恐ろしいものはない。

「ビジネス・マインド」は限定的にしか通用しないという件

最近はあまり耳にしなくなったが、一時期「民間活力」の導入が殊更に取りざたされていた。民間にできることはすべて民間企業でやるべきだという言説だ。構造改革のキモである。

民間活力とはつまりはどんな事業もビジネス・マインドをもってあたることである。

この言説は一見正しいもののように思える。

 

ビジネス・マインドという言葉は耳ざわりの良いものではあるが、要は「カネ儲け」至上主義の考え方である。

資本主義体制下の社会ではこの「カネ儲け至上主義」自体は悪ではない。

利益を得てそれを極大化するために会社組織(主として株式会社)を利用し、組織を増大化させることを最大の目的とする、ということが資本主義体制下では善なるものとなる。

 

現行の社会システムではビジネス・マインドそのものは必要不可欠なものである。ただし、市場経済システムになじむ競争がなされている領域での話である。コストを最小化して利益の極大化を図るという行為が是認されている領域での話である。

医療、福祉、教育、芸術、社会的共通資本等は元々ビジネス・マインドにはなじまない領域である。市場の論理を適用すれば、破綻をきたすか、あるいはサービスの不均衡が生じる領域である。

これらの領域ではビジネス・マインドは全く通用しないか、良くても一部のみしか通用しない。

 

構造改革民間活力導入市場原理主義的な路線によって医療や福祉、教育、社会的共通資本などの領域では当初の意図に反してサービスの質の低下を招いている。

医療・福祉の崩壊、教育に関連する問題の頻出する要因はすべてではないにしろビジネス・マインドへの盲信によるものである。

この世に存在する商品やサービスがすべてカネに換算されるという考え方自体が歪なものなのである。

 

例えば街中に市民の憩いのスペースがあったとする。そこでは子どもが野球やサッカーに興じたり、市民が散策したり休憩したりしている。このままでは「利益」が出ないと判断して、その場所を有料化し遊具を備えたり、あるいは会社に売却して一部の人にしか利用できない施設にして利益を出すようにする。土地の有効活用を図るのである。これがビジネス・マインドである(実際にあった話である)。

ある歴史のある大学でのエピソードも挙げておこう。その大学の校舎は世界的な建築家が設計した校舎を有しており、その校舎の美観は優れていて文化的価値は高い(しかし老朽化している)。ある時その大学は経営刷新のためにコンサルタント会社に委託したところ、美観と伝統を誇る校舎を資産価値ゼロと査定し、全面的な移転を提案したという。これこそまさしくビジネス・マインドの限界を露呈し、ビジネス・マインドがもたらす空虚さを露呈したものだといえる。

 

繰り返すが、ビジネス・マインドなるものは限定的な場でしか通用しないものなのである。なのに、あらゆる領域でビジネス・マインドを適用させようとし、そのこと自体が正しいと妄信することが今のこの世の中にまかり通っている。市場経済の中でしか通用しないことを、すべての領域で適用させようとしていることは愚かであるとしか言いようがない。

政治家や官僚をはじめとする公の仕事に従事する者たちが(公共心が必要なのに)ビジネス・マインドに侵されていることが、社会システムの不調を引き起こしている要因のひとつとなっている、と言えるのではないだろうか。

 

ビジネス・マインドへの盲信は、イデオロギーと化している。その弊害はこの社会の至るところに顕れている。

ビジネス・マインドは絶対的なものではなく、限定的にしか通用しないものだと僕たちは心しておく必要がある。

 

 

 

 

すぐに役立つ知識は実はすぐに役に立たなくなるという件〈再掲〉

高等教育において「職業教育」「実学」を重視せよとの言説は正しいようでそうではない。仕事に必要な知識やスキルは実際に働いているうちに身に付ければよいのではないかと思う。即戦力的人材は賞味期間が限られている。

 

初出 2017/6/8

 

僕は社労士事務所を営んでいるときに専門的な知識を得ようとして勉強を続けていた。労働法、判例、行政通達、公的保険の実務、人事労務管理の知識等を日々勉強していた。実務に直結するような知識、つまりカネになる知識を優先して学んだのだが、今となってはそれらの「すぐに役立つ」知識の殆どは忘れてしまっている。それともう「使えない」知識に成り下がっている。一方ですぐにはカネにならない知識はまだ頭に残っている。

 

社労士事務所を畳んで全くのフリーとなってから僕は「働くこと」の根源的な意味は何かについて問い続けている。この問いかけの答えを自分なりに得るための学びは実生活にすぐには役立たない。役に立たないどころか、「働くこと」の意味を問えば問うほど賃労働に懐疑的になり、もともと勤労意欲が低いことも相まって「まとも」に働くことができなくなってきている。

 

少し前に国立大学の人文科学系の学部を廃止・縮小するとの話題があり、その是非が問われたことがあった。僕はなんと愚かなことを考えるのだと溜息をついた。

哲学、倫理学、文学、言語学歴史学等の人文科学の領域に属する学問をしてもすぐには実生活には役に立たない。すぐに役に立たないからと言ってそれらの学問を究める大学の学部を失くせとは暴論である。反知性的である。人間とは何か、この社会の成り立ちはどうなっているかを問うことは人の存在意義に関わる大切なことである。

フランス革命後の王政と共和制が交互に入れ替わった混乱期、かの国では王政期に人文科学を弾圧したことがある。支配者層が人民が変に知識をつけてしまうと己の地位が脅かされると恐れたからである。人文科学系の学問はすぐには役立たないが、社会を根底から覆すような力を持っている。

もし、この国の支配者層が己の既得権を保持する私利私欲のために人々が人文科学を学ぶ機会を失くそうとしているならば、この暴挙には徹底的に抗わなければならない。経済成長に直接資することがないものは排除するというのならば、その浅はかさを糾さなければならない。

 

確かにすぐに役立つ「実学」はなくてはならないものである。多くの人たちはすぐに役立つ知識をベースにして自分の食い扶持を稼いでいる。

しかしながら、すぐに役立つような、成果が目に見えて数値化できるような知識ばかりに偏重してしまえば知の空洞化が起こる。そして、それは社会の弱体化につながるのである。

 

何よりすぐに役立つ知識はすぐに陳腐化し役に立たなくなってしまうおそれがあることを忘れてはならない。流動性が高く、変化のスピードが速い現代社会においては特にそうである。

僕の実体験からもそう言える。

僕は今でも時折人から相談を受けてアドバイスをしたりすることがあるが、その時に役立っているのはすぐには役立たないと思われた知識やスキルである。

 

僕はこれからもずっとすぐに役立たないような知識、でも社会の成り立ちの根源を問うような、人間とは何かを深く追求するような知識を身に付けるために学び続けていきたい。

 

 

「ニート」や「ひきこもり」はこの社会が変わりつつあることの表象だという件

ニートやひきこもりとなる人たちが増加していることは社会問題だと捉える向きがある。

同時に個人の資質の問題だとする言説も多い。コミュニケーション能力の欠如だとか精神疾患によって表れた行動だとする。

いずれにしても現代社会が生んだ社会病理だという見方が大勢を占めている。

 

ニートやひきこもりが顕在化したのは社会が豊かになったことの顕れである。

昔から働かない人やフラフラとして生活が定まらない人は一定数存在していた。夏目漱石の『それから』の主人公は「高等遊民」を気取っていた。今で言うなら立派なニートである。生家が裕福で働かなくても生きていけたというだけの話である。

社会全体が物質的に豊かとなれば、働かなくても何とか生きていける人たちが増えてくるのは自明のことである。

ニートやひきこもりが「社会問題」とみなされるのはその社会を覆っている労働観をはじめとする価値観によって決せられているだけのことである。

 

昨今はニートになったりひきこもりになったりすることは絶対的に悪いこととはみなされない傾向にはなってきている。

労働環境の劣化、経済のグローバル化等によって昔に比べて働くことのハードルが上がってきているのはどうやら確かなようだ。一昔前ならどうにか一人前に働けた人が今の労働需要にはマッチせずに排除される、といったところである。

「総サラリーマン化社会」となったら、それに適応できない人たちは増えていく。「総サラリーマン化社会」は多様性を失った均質的な社会である。従来はそのような社会に順応することが当たり前であって、不適応をきたす人たちはその人自身に問題があると切り捨てられる傾向にあった。極言すれば国の経済成長に資することができない人たちは無用の長物扱いされてきたのだ。

 

かつては圧倒的な少数派だったニートやひきこもりの人たちが無視できないほどの数となってきて「社会問題化」し、全面的ではないにしろその存在が認められるようになってきた。ニートや引きこもりの人たちを支援する制度や施策が公共機関・民間問わずに次々と登場している。中にはニートやひきこもりの人たちを労働市場に送り出すことに主眼を置いた旧態依然とした支援もあるが、一方でその人の状況に応じた「自立」を促す支援が増えてきている。

 

誰でもニートやひきこもりになる可能性がある。特別な人だけがニートやひきこもりになるのではない。多くの人たちがそのように認識するようになったことは大きな前進である(一部には単なる怠けだとか病気だと捉える人もいるが)。

ニートやひきこもりという事象について考えることは実は僕たちの「生き方」を捉えなおすことでもある。

多様化・多元化を希求しつつも内実は均質化に覆われているこの社会で一面的な価値観に囚われない生き方ができるのか、ということである。

働けない奴はダメだとか稼げない奴は価値がない、といった経済至上主義的な価値観の下で、それに疑問を持ち、その価値観に縛られずに好きなように楽しく面白く生きていこうとすることである。

ひとりひとりがそれぞれに異なる価値観を有し、それを互いに認め合って生きていくことでもある。

僕はこれらのように、社会が変わりつつあると信じたい。

 

ニートやひきこもりのような少数者や異端者が社会に包摂され、「居場所」が確保され、人としての尊厳が保たれて生きていけるようになれれば、と僕は切に願っている。

ニートやひきこもりの存在は、この社会が変わりつつあることの表象だと思いたいし、僕の独りよがりな希望的観測に終わらないことを切に願っている。

「手に職をつける」の本来的な意味について考えてみる件

昔から「手に職」をつけることが有効な生存戦略である、と繰り返し言われ続けている。確かに人には真似できない技能を持っていると食うには困らないように思われる。

ただ、この「手に職をつける」のイメージが最先端の技術や伝統工芸等の技能を習得するという意味に限定されがちである。僕は「手に職」の概念をこのように狭く解するのではなく、もっと範囲を広げて解すればいいと思っている。

 

競争社会の行き着く先はすべての働く人たちが「替えのきく」存在と化してしまうところにある。この「代替可能」とみなされた労働者の立場はより一層弱くなり、処遇は劣悪なものとなる。

「手に職をつける」ことは自分が代替不可能な存在にするための抵抗の手段であると言える。

 

「手に職をつける」を字義通りに解釈すれば、前述のように最先端の技術や伝統工芸の技能を身に付けることか、あるいは高い専門性を有する知識やスキルを身に付けるということになる。これは有効な生存戦略のひとつであることは確かだ。将来的にはAIに取って替わられるとか、知識や技術が陳腐化するといったこともあるだろうが、未来のことは誰にも分からない。

 

「手に職」的なものは最先端の技術や高い専門性を伴った知識・スキルに限らないように思う。

その人がいなければその場が盛り上がらない、その人がいればその場が盛り上がるといった的なことも大事なのではないか、と僕は思っている。場を盛り上げる「その人」は替えのきかない存在であり、その場にとっては有用な人なのである。会社をはじめとする組織を活性化させる「何か」を持つこともまた「手に職」的なものととらえる視点も必要である。対人スキル、コミュニケーション能力、オーガナイゼーション能力といったものである。ただしこれらは特定の組織のみに通用するものではなく、別の組織においても通用する汎用性を伴っている必要がある。

 

話題を変えて僕自身のことについてもふれてみる。

僕は公務員を辞めた後、社会保険労務士行政書士の資格を取得した。資格を取っただけでは「手に職」にはならない。

僕は資格を取った後に社労士事務所を営み、専門学校や職業訓練の講師をして、時にはセミナーやミニ講演会の講師もして多少は稼がせてもらった。当時の僕にとっての「手に職」は何らかの専門知識を身に付けて、その知識をベースにした実務経験を積み上げることによって得られる優位性だったのだ。

現在は国家資格を取ってその資格に基づいた仕事をして稼ぎ続けることはなかなかに難しい状況にある。社労士程度の専門知識ではそれ自体が「強み」になりにくい状況にある。社労士や他の国家資格取得者が行う実務のかなりの部分がAIに置き換わるという説もある。難関国家資格さえ取れば何とかなる、という幻想は捨てなければならない。けれども、何らかの優位性は依然としてあり続ける、といった認識にとどめておく必要がある。要は「使いよう」なのである。

 

「手に職」的なもの、余人には替え難い何か、といったものは「絶対にこれだ」と断言できるものはない。他者と比して若干の優位性を保ち続けられそうなもの、と言った程度のもので十分なのかもしれない。それは人それぞれであって、自分が興味を持ち続けられるもの、自分が得意なもの・できそうなこと、といった感じで選択せざるを得ない。

「手に職」的なものを身に付けると、少しだけ「まし」である、ちょっとだけ生存戦略上優位にはたらく程度のものであると観念しておいた方がよい。

他者よりも「絶対的に優位」に立とうとして際限のない競争に巻き込まれ疲弊するよりは余程ましである。

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