希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/医療人類学/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケイシー/生きづらさ/シャーマニズム

なぜ公務員バッシングが繰り返し起きるのか、という件

就職先として国家・地方問わず公務員の人気は相変わらず高い。

自分の子供が公務員になりたいと言い出して「そんな仕事なんか止めとけ!」という親はいるだろうか。よほどの変わり者ではない限り、そんな人はいない。

昔、僕が公務員試験に受かったとき、両親は大喜びしたことを覚えている。おそらくこれで一生安泰だと思ったのだろう。

 

僕が就活をしていた頃はバブル真っ只中であったこともあって、それほど公務員の人気はなかった。確かに試験は高倍率ではあったけれども、今ほど過熱したものではなかった。多くの業種では初任給や生涯収入が公務員のそれを上回っていた。経済面で考えればそれほど公務員という仕事はおいしいものではなかったのだ。

 

なぜ公務員バッシングがたびたび巻き起こるのかと言えばまずはその安定した待遇に対する嫉妬や羨望によるものである。国際競争にさらされず、ぬるま湯のような環境にあって、しかもそこそこ給料が良い、となれば昨今の経済事情、労働環境を鑑みれば羨ましくもなる。

地方に行けば県庁や市役所の職員の待遇は地場企業のそれに比べるとかなり良いという。地方では公務員(教員も含めて)は特権階級なのである。

よほどのことがない限り定年まで勤めることができる。

まず潰れることはない。

「安定」を求める人たちからすれば、公務員という仕事は垂涎の的なのである。

 

「自分たちだけおいしい思いをしやがって」という嫉妬によって、ちょっとした問題を起こしただけでも公務員バッシングが起こる、というメカニズムは分かりやすい。

けれども、一見「おいしい思い」をしていると見える仕事は公務員以外にもたくさん存在する。肉体的な負荷は大きくないと見えて、多額のギャランティを得られる仕事はいくつもある。芸能人や医者や弁護士、世襲の経営者・政治家などなど枚挙にいとまがない。

 

僕たちは公務員、特にエリート官僚が本能的に嫌いである。

それは公務員という存在が僕たちの収入から税金という形で「収奪」をし、国家や自治体に「寄生」する存在だからである。しかも権力や権限を握っている。国家や自治体の寄生虫のくせして偉そうにし、僕たちを統制しようとする。

公務員は例えば年収600万円の収入を確保しようとするとき、600万円以上の額の税金を取り立てる。直接的に公務員の給料分の税金を払え、となると国民・住民は必ず反発する。そこで、仮に1500万円の税金を取り立てたとして、600万円は自分の給料に充てて、残りを社会インフラの整備や社会保障などに充てる。しかもその配分は公務員の権限として自分たちで差配する。

まさに公務員は税金に寄生して生きている存在なのである。

 

公務員バッシングの根底には、上述のような公務員の存在意義、つまり税金に寄生していてしかも税金を好きなように分配する権限をもつ存在である、という根源的な不信がある。

単なる嫉妬や羨望だけでは説明がつかない根深いものがあるのだ。

逆に言えば、税金に寄生できて、税金の使途を差配できる権限を持っている仕事ということで、自分の子どもだけはそのような「おいしい思い」をさせたい、と願う人たちが多いのである(本来ならば、自分自身がおいしい思いをしたい)。

このような錯綜した思いが公務員バッシングを生み出し、問題をややこしいものにしているのである。

 

公務員は必要悪である。

国家や自治体の存在があるかぎり、それらを存続させるためには公務員の存在は必要不可欠である。

共同体があり、その維持運営の実務をボランティア的な人たちが担えば公務員は不要となる。しかし、現実的にはそんなことは無理である。

だから、「公務員」という存在を認めざるを得ない。

公務員という存在を認め続けている限り、これからもずっと公務員バッシングは起こり続ける。

ただ、この公務員バッシングが「庶民の不満のガス抜き」で留まっているうちは大勢に影響はないし、社会の秩序が壊れることはない。

そして、公務員バッシングを自分の人気取りの手段とする政治家は最も警戒すべき存在であり、ろくでもない存在である。

上司の大多数はどうしようもない奴らであるという件

僕のサラリーマン時代を振り返ると上司に恵まれなかった、という思いが強い。僕がダメサラリーマンだったということを横に置いといて、上司や中間管理職がなぜこんなにバカが多いのかということを独断で書いていきたい。

 

ダメとされる上司は元々が仕事ができない、能力的に劣っているというわけではない。逆に仕事がそこそこできたからこそ管理職に昇進したのだろう。おそらくこの国の会社組織では上司をダメにする何かが存在すると考えた方がよい。

 

未だにほとんどの会社では管理職に昇進する際に「年次」を重く見ている。年功序列の処遇方法が問題視され、改まる傾向にあるとは言え、それがすべて払拭されたわけではない。中には「年功」のみによって管理職の座に座る人も出てくる。まあ無理もない話である。ある人のマネジメント能力を測ることは困難なのである。欧米諸国の会社のように専門的にマネジメントを学んだ人たちを選別して管理職にするという割り切った方法をこの国の会社では採用していない。新卒総合職として一括して採用し、その中から管理職に登用する方式を採っている限り当たりはずれが出てくるのはやむを得ない事である。

 

僕はこのエントリーでこの国の会社の管理職・上司の育成・登用の方法やマネジメント能力をいかにして高めるか、といったことは書かない。そんなものは本屋に行けば溢れるほどの関連書籍が並んでいる。

僕は世の上司がなぜバカになるのか、どのようなバカな行動様式を取るのか、そのバカ上司にどう向き合えばいいのかを自分なりに考えていきたいのだ。

 

バカ上司はおそろしいほど部下のモチベーションを下げることが上手である。それは多くのバカ上司が「やる気至上主義」や悪しき精神論に毒されているからである。業績をあげるためには適切な戦略と戦術が必要不可欠である。できない上司は稚拙な戦略・戦術を変えるのではなく、部下のやる気を鼓舞することにしか気が向かない。そのやる気の鼓舞がさらに部下のやる気を失わせ、業績が悪化する。このことに気付かないのだ。戦前の軍部のように精神論で乗り切ろうとする愚行を繰り返している。

また、異常に管理をしたがる。仕事の進め方に留まらず、私生活にまで、あるいは服装までに目を光らせあれこれ口を出してくる。独身の部下に対して早く結婚しろと迫ったりするようなバカげたこともしたりする。

管理職とは「役割」に過ぎないのに、バカな上司は勘違いして自分は部下よりも優れているのだと考えたり、部下を奴隷のように扱ったりする場合もある。あるいは上司は部下の仕事をスムーズに進めるための手助けをする存在なのに、部下を成長させるのは自分だと張り切ってドツボに嵌ったり、むやみやたらと干渉して成長の芽を摘んだりする。

本来は管理職は「仕事の管理」をすべきものなのに、「人の管理」が管理職の仕事だと思い違いをしているのである。それがゆえにバカ上司は部下の内面、やる気までをもコントロールしようとし、部下から嫌われるのである。

なぜ元々優秀な人がバカ上司になるのかといえば、上司は人の管理ではなく仕事の管理をするものだという根本原則を理解していない人が多いからである。その無理解がやたらとやる気を出させようとしたり、内面や私生活を管理するといったバカ上司に堕すのである。

 

世のサラリーマンはバカ上司に遭遇する確率は高いと観念しておかなければならない。できる素晴らしい上司に巡り合うのは稀で、もし良き上司に巡り合えばとてもラッキーだと捉えておいた方が良い。

普段の仕事ではバカ上司の指示に従うふりをしておいて、常に自分の策を準備しておくことだ。仮に取引先とトラブルになったときに、「上司の指示なので」といった類の言い訳は絶対にしてはならない。相手は不満の矛先を上司にではなく、あなたに向けるからである。ひいてはそれが会社自体への不評へとつながる。

 

実際問題としてバカとはいえども上司は上司である。人事考課を行うのもそのバカ上司である。その上司が異動するまでは付き合いが続く。

そのバカ上司に反抗しても無意味である。バカ上司に正論は通じない。せいぜいが悪い人事考課を付けられて、処遇が悪くなったり左遷されるのがオチである。

上司に深くコミットするのではなく、あくまで自分の仕事にコミットするという態度を貫くしか手立てはない。

あるバカ上司が異動しても次の上司が輪をかけたバカ上司ということもありうる。

殆どの上司はバカだと割り切っておくしかない。

その前提で自分の仕事に深くコミットしつつ、汎用性のあるスキルを磨く、といったところが僕が考えるサラリーマンの処世術である。

 

  

「楽しさ」を感じられない労働は「苦役」であるという件〈再掲〉

労働は苦役である、と同時に喜びをもたらすものでもある。

欧米的価値観が絶対的に正しいとは思わないが、労働は苦役であるという側面は無視できない。一方で労働は尊いという価値観がこの社会を覆っているという事実も無視できない。

 

初出 2017/2/2

 

一般的にこの国の人たちは勤勉だとみられている。また勤勉が美徳だという価値観・労働観が浸透している。

多くの会社や経営者は「働く喜び」「働けることへの感謝」などを繰り返し説いて労働者を酷使している。

 

欧米では労働は苦役である、とされていたという。

ただ、プロテスタントの一部の派が勤勉が美徳であるということを教義に取り込み、「勤勉革命」が起き、産業革命へとつながり資本主義社会が誕生したと言われている。

ただし、欧米では労働は苦役だという考え方は根強く残っていて、一般的な労働者の働き方は仕事は生活費を稼ぐための手段に過ぎないと割り切ったものになっている。

 

僕はこの国の人たちが元々勤勉だったなんて嘘だと思っている。

勤勉が美徳なんて明治維新以降に近代国家を作り上げるために動員されたイデオロギーに過ぎない。あるいは功利主義的な思考法が紛れ込んできて個人の利益の拡大が善となり、そのためには勤勉さが必要不可欠となったものである。

 

「労働」なんて突き詰めて考えれば決して楽しいものではない。

資本主義体制下の賃労働では搾取され放題である。

雇われて働くと自分の好きなようには仕事ができないし、自分の好きな仕事もできない。労働者は会社に首根っこを押さえられていて、働く場所や職種さえも勝手に決められてしまう。

 

労働が全くの苦役であるなら話は簡単なのだけれども、時々「働く喜び」を感じたりするから話はややこしくなる。

クリエイティブな仕事をやり遂げて達成感を得るといった類の話は稀にある。これはこれで分かりやすい。一方で創造性とは対極にあるルーティン・ワーク的な仕事をやり遂げても達成感を得られることがある。自分なりに創意工夫をしたなら尚更である。

 

そう、僕たちは働くことが楽しいと感じることがたまにあるのだ。

たとえブラック企業で酷使されていてもこの種の楽しさを感じることがある。客観的な事実としては労働者が楽しさを感じて働けば働くほど搾取の量が増大する。一流とされる経営者は労働者に働く楽しさを感じさせるように仕向けて搾取量を増やし会社の利益の極大化を図るのである。

労働者の側としても、どうせ働くなら楽しく働いて給料をもらった方が良いと考える。これを合理的な選択だと思い込んでいる。ある会社のある部署で働いていて苦痛を覚えると人事異動によって解決しようとする。それでも楽しさを感じられないのならば転職して会社を変えることによって苦痛から逃れられると思ってしまうのだ。いくら会社を変えても労働者が持つ「宿命」からは逃れられないのは自明のことである。でも、それを言ったら身も蓋もない。せめて労働の喜びとまではいかなくてもささやかな楽しさを求めるのである。

 

労働者が大同団結してゼネストが行われず、革命なんて起きる気配すらないのは、労働者であり続けるメリットがあるからだ。あちらこちらに楽しさを感じられるような仕事がまだ残っていて、運よくそのような仕事に就く可能性が個々の労働者に開かれているからである。

楽しさを感じながら働ける労働者がいるうちは現体制はそのまま維持され続くことになる。

楽しさを感じられない労働は単なる苦役となる。

苦役と感じる労働が大半となった世の中になるとどうなるか、僕には分からない。社会の大変動が起きるか、ディストピアの世の中が続くかは人々が「変化」を求めるか「安定」を求めるかどちらが多数を占めるかで決まってくるだろう。

僕は「安定」なんて幻想に過ぎないと思っている。 

いつの間にか自分というものについて考えなくなっていたという件

人間以外の生物は自分の子孫を遺すことと生き延びることを目的として生きている。生殖の相手と食料を追い求めるだけの一生だと言ってもいい。

人の場合はそうはいかない。

なかなかシンプルな生き方ができないのだ。

自分とは何か、自分はなぜ生きているのか、生きることの意味は何か、などの小難しいことを考えてしまう。人間とは厄介な生き物である。

 

特に若い頃は答えのない問いを悶々と続ける。そういうことをすると何だか自分が高尚な人間だと勘違いをするのである。

殊更に「自分らしさ」を追求したりしてドツボに嵌ることもある。

本来あるべき真の自分というものがあると思い込み、現実とのギャップに耐えられなくなり、現実逃避的な行動を取ることもある。

 

僕も30代の頃までは自分らしさや他者との差異化にこだわり続けていた。

自分にしかできない仕事があるはずだ、自分らしい生き方があるはずだと信じて日々もがいていた。

当然にこのような思いを強く持つと何事も空回りする。

無力感に苛まれるし、時には自己否定をしてしまう。

現実の世界で自分が取るに足らない存在であることを認めたくないけれども、実際はその他大勢の取るに足らない存在であることを思い知らされる。そんな悶々とした気持ちを抱いていたらちょっとだけ精神を病んでしまった。

 

何度もこのブログに書いたことだけれども、僕は40代を迎えたときにキレてしまって自分の人生をガラガラポンすることにした。

思い余ってそうしたというよりも、自然にそうなってしまったという方が正しい。もう意志を持って、気力を充実させて事に当たることが辛くなったのだ。この世の様々なしがらみからの逃走を図ったのである。

結果、今の僕、つまりダメ人間この上ない自分になったのだ。

 

ダメ人間になってしまい、世間からちょっとズレた生き方をするようになって、いつの間にか変なこだわりがなくなったことに気付いた。

「自分らしさ」というものに何の価値も見出さなくなった。

「自分らしさ」なんて幻想に過ぎないと思うようになった。

僕は今の自分の在り方は「なるようになった」ものだと思っている。

自分らしさを追い求めた結果のものではない。

自分というものを突き詰めて考えたわけではない。

嫌なことや辛いことはしないと逃げて、気が付いたら今の場所にすっぽりとはまり込んでしまったという感じである。

 

僕のようなやり方が正しいとは思わない。

他の人たちに当てはめていいかというと、そうも思わない。

僕の持って生まれた資質、環境等の兼ね合いでこうなったのだ。

ただ、自分らしさへのこだわりをなくし、自分というものを殊更に突き詰めなくなったおかげでちょっとだけ生きやすくなったのは確かである。

こんなダメな自分が時々愛おしくなる。

これは歪んだ自己愛なのかもしれない。

会社を辞めることなんて大したことではないという件

会社勤めのサラリーマンで一度も会社を辞めたいと思ったことがない人なんているのだろうか。大抵の人たちはこんな会社辞めてやる、という言葉を飲み込んで我慢して勤め続けているのではないだろうか。

 

会社を辞めることはなかなかに難しい。とんでもないブラック企業に勤めていたとしても、あっさりと辞めてしまうことに躊躇する。

特に学校を卒業してはじめて勤めた会社を辞めることに逡巡する。何事も「一回目」のハードルは高い。結婚や離婚も2回目、3回目は軽やかにできる(そんなわけないか)。

 

会社を辞めることは単に仕事や職場を変えるということを意味するのではない。自分が所属する共同体から抜けること、自分の居場所を喪失することを意味するのだ。自分が依って立つ足場を無くすいうのはなかなかに怖いことである。真の意味での「個」が確立されていればそうでもないのだけれども、少しでも会社というものに寄りかかった生き方をしていれば、会社を辞めるということはアイデンテンティ・クライシスをもたらすことにもなる。

 

僕は最初の勤め先を辞めるのに、決心してから1年近くかかった。今の仕事を辞めてしまったら、自分に勤まる仕事なんて見つからないのではないかという不安が消えなかった。また、自分なんかにできる仕事があるのか、という不安もあった。さらには真っ当なレールから外れてしまったら、奈落の底に落ちてしまう、という強い不安もあったのである。それゆえに、退職を決心したもののなかなか重い腰があがらなかったのである。

 

何度かの転職を経験しフリーランスも経験した今だから言えることだけれども、会社を辞めることなんてどうってことはないことだ。会社を辞めても必要最低限の意欲さえあれば何とかなるものだ、と声を大にして言いたい。

勤め先なんてどこでも似たり寄ったりである。また、雇われて働くという形にこだわることはない。ちょっだけ人より詳しい分野があれば何とか自分ひとりが生活できるだけの稼ぎは生み出せる。確かに金銭的には恵まれないかもしれない。有体に言えばビンボー生活を余儀なくされるかもしれない。しかし、ビンボー生活に対する耐性をつければ何とかなるものだ。しょうもない世間体や見栄に囚われなければ、そこそこに楽しくて面白い生活を送ることができる。

 

とは言え、僕は会社を辞めたがっている人たちに「すぐに辞めてしまえ」と無責任なことは言えない。我慢できる程度の不満であるならば会社にしがみついていた方が良い場合が多い。自分が設定した一線(譲れないもの、価値観、労働観、人生観等)を越えた場合に会社を辞めたらよい。

僕の周囲を見渡すと会社を辞めて不幸になった人は皆無である。逆に会社にしがみついてドツボに嵌った人はいる。僕の見聞きした狭い範囲で起こったことを一般化はできないが、どうやら「会社を辞めたらとんでもないことになる」ということはほとんどなさそうだ。

そもそも、新卒で就職した会社に定年まで勤める人たちの方が少数派である。大方の人たちは何度か転職したり、フリーランス・自営として働いたりしている。そしてそれらの人たちは何とかやっていけているのだ。

 

会社という共同体を自由に、気軽に移動できる社会の方が居心地が良い、と僕は思っている。ひとつの共同体に縛り付けられ、その価値観に骨の髄まで浸り、その組織の論理に絡み取られてしまったら、生ける屍のようになってしまう。

良い意味での「個人主義」的な価値観を持ちつつ(「個」の確立とも言える)、共同体の論理に埋没することなく、自分が好ましいと思える共同体を探し求め続け、ひょいひょいと軽やかに渡り歩く生き方が楽しそうで面白そうだと僕は思っている。

 

 

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