人間以外の生物は自分の子孫を遺すことと生き延びることを目的として生きている。生殖の相手と食料を追い求めるだけの一生だと言ってもいい。
人の場合はそうはいかない。
なかなかシンプルな生き方ができないのだ。
自分とは何か、自分はなぜ生きているのか、生きることの意味は何か、などの小難しいことを考えてしまう。人間とは厄介な生き物である。
特に若い頃は答えのない問いを悶々と続ける。そういうことをすると何だか自分が高尚な人間だと勘違いをするのである。
殊更に「自分らしさ」を追求したりしてドツボに嵌ることもある。
本来あるべき真の自分というものがあると思い込み、現実とのギャップに耐えられなくなり、現実逃避的な行動を取ることもある。
僕も30代の頃までは自分らしさや他者との差異化にこだわり続けていた。
自分にしかできない仕事があるはずだ、自分らしい生き方があるはずだと信じて日々もがいていた。
当然にこのような思いを強く持つと何事も空回りする。
無力感に苛まれるし、時には自己否定をしてしまう。
現実の世界で自分が取るに足らない存在であることを認めたくないけれども、実際はその他大勢の取るに足らない存在であることを思い知らされる。そんな悶々とした気持ちを抱いていたらちょっとだけ精神を病んでしまった。
何度もこのブログに書いたことだけれども、僕は40代を迎えたときにキレてしまって自分の人生をガラガラポンすることにした。
思い余ってそうしたというよりも、自然にそうなってしまったという方が正しい。もう意志を持って、気力を充実させて事に当たることが辛くなったのだ。この世の様々なしがらみからの逃走を図ったのである。
結果、今の僕、つまりダメ人間この上ない自分になったのだ。
ダメ人間になってしまい、世間からちょっとズレた生き方をするようになって、いつの間にか変なこだわりがなくなったことに気付いた。
「自分らしさ」というものに何の価値も見出さなくなった。
「自分らしさ」なんて幻想に過ぎないと思うようになった。
僕は今の自分の在り方は「なるようになった」ものだと思っている。
自分らしさを追い求めた結果のものではない。
自分というものを突き詰めて考えたわけではない。
嫌なことや辛いことはしないと逃げて、気が付いたら今の場所にすっぽりとはまり込んでしまったという感じである。
僕のようなやり方が正しいとは思わない。
他の人たちに当てはめていいかというと、そうも思わない。
僕の持って生まれた資質、環境等の兼ね合いでこうなったのだ。
ただ、自分らしさへのこだわりをなくし、自分というものを殊更に突き詰めなくなったおかげでちょっとだけ生きやすくなったのは確かである。
こんなダメな自分が時々愛おしくなる。
これは歪んだ自己愛なのかもしれない。