希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

人は皆「死亡率100%」。でもそのことを忘れてしまいがちだという件

人は生まれながらに不平等である。

これは厳然たる事実である。

才能に恵まれた人(特に「稼げる」才能)もいればそうでない人もいる。裕福な家に生まれた人もいれば貧しい家に生まれた人もいる。人生が思うとおりにとんとん拍子に進む人もいれば挫折ばかりを繰り返す人もいる。

自分の努力や意欲だけではどうにもならないことが沢山ある。

しかし、ひとつだけ完全に平等なことがある。

それは人は皆確実に死に至るということである。

 

どんなに名声を得ても富を蓄えても死から逃れることはできない。

秦の始皇帝は現世のあらゆるものを手にした後不老不死を求めたという。

生への執着、死の恐怖、これらは人が持つ根源的な感情である。

 

人は誰でも死亡率100%なのである。遅いか早いかだけの違いがあるだけで、この世に生まれたからには確実に死を迎えるのである。

メメント・モリ(死を思え)」という古の警句がある。このような言葉をわざわざ伝えなければならないほどに人は死から目を背けようともがくのである。

 

凡庸な人間である僕もずっと死を恐れ続けてきた。正直な話、今でも死ぬのは怖い。とりたててやり残したことがあるわけでもなく、この世に未練が強くあるわけでもないけれども、自分というものがこの世から消えてなくなることに何となく恐怖を感じるのだ。

 

ただ、死亡率100%という事実を受け入れると、ちょっとだけ気が楽になったような気もする。

どうせいつかは必ず死ぬんだ、ならば死を迎えるまでは好きなように生きてもいい、と開き直ることができるのだ。

捨て鉢になるという意味ではない。

僕のようなどこにでもいる平々凡々な人間でも、何らかの人生の意味付けができるはずだと前向きにとらえることができる。僕がこの世から消え失せたらあっという間に人々から忘れ去られてしまうけれども、この世に存在していたという証がわずかばかりでもあればいい、と思えるようになったのである。

 

人は皆死亡率100%だという事実を忘れてしまって、そのために様々な副作用が生まれているのだと思えてならない。

レールから外れた生き方を忌避しそんな人たちを排除すること、真っ当に生きなければならないという思い込みやそのことを他人に強いる同調圧力、そして他者に不寛容であること。

人は誰でも確実に死に向かっているという悲しみ(とばかりは言いきれないが)を共有する意識があれば、もっと相手に対してやさしくなれるのに、と僕は思う。

 

死を思うことは決して後ろ向きなことではない。

死を思うことでより良く生きることができる。

メメント・モリ」という言葉を心の片隅にずっと置いておこう。いつでも取り出せるように準備をしておきながら。

 

会社に寄りかかって、滅私奉公するだけでは未来がないという件

会社中心主義的な社会システムは一見変化しているようで根っこの部分は変わっていない。

相変わらず正社員という働き方がスタンダードという体で政策が決定されている。世間の人たちも正社員だけが一人前の社会人だと見る風潮が残っている。

 

経済成長が果たされているときには一つの会社に「骨を埋める」働き方にも合理性があった。ベースアップと定期昇給があり、昇進・昇格とともにさらなる待遇アップが期待されていたからだ。転職は不利であり、定年までひとつの会社に勤めるという働き方がさも当然のように思われていた。

今となっては、いや経済成長期においてもひとつの組織に従属する生き方は実はリスクの高いものであった。多くのサラリーマンにとってある会社での職歴は普遍性を持たず、他の会社では使い物にならない。よほど専門性の高い仕事をしたという経歴がなければ、良い待遇での転職は不可能である。

 

ひとつの組織に「滅私奉公」することが善とされるイデオロギーは江戸時代の武士階級に広まったものである。戦国時代までは主君を乗り換えるということはざらにあった。ある主君が無能だとか、自分を取り立てそうにないことが自明となれば、後腐れなく主君を変えたのである。豊臣秀吉明智光秀が典型例であり、他にも有名な武将で主君をコロコロ変えた人物は沢山いる。徳川幕藩体制となり、体制の維持・安定化を図るために儒教、とくに朱子学イデオロギーを幕府は取り入れ、特有のシステムを形成したのである。

江戸時代に導入された滅私奉公というイデオロギーは究極の終身雇用である。しかも世襲が原則である。この江戸時代に形作られたメンタリティは現代にも脈々と受け継がれている。

 

現実的な話をしてみよう。

世のサラリーマンは新卒で入社したときから皆が皆滅私奉公をしようと思っていたわけではない。おそらく多くの人たちは自分の職務遂行能力を高めて良い条件で転職したり、起業したり、フリーランスになることを夢見ていたと思う。すすんで社畜や会社人間と揶揄されるようなサラリーマン根性にどっぷりと浸かった働き方や生き方を選択したわけではない。

しかし、サラリーマンの大多数は、いつしか会社という組織の論理に絡み取られ、身動きができなくなってしまったのである。

あるいは働き続けているうちに会社という組織に属して働くということはどこの会社でも大差ないと諦念したのかもしれない。

サラリーマンの悲劇は、会社人間的生き方をすること、ひとつの会社に骨を埋める生き方はリスクがあるぞ、と多くのサラリーマンは気付きながらも自分の身の振り方が分からないという点にある。

 

会社に依存しない働き方や生き方については様々な言説がなされている。自己啓発系の著書も数多く出版されている。

どの会社でも通用するスキルを身につけること、フリーで生きていけるだけの専門知識や経験を蓄積することなどが一般的な意見である。

言うは易しだが、いざ実行するとなるとなかなかにハードルは高い。

僕は精神論は大嫌いだが、結局は心構えの問題なのではないかと思う。

常に会社に依存しないぞ、という思いを強く持っておいて、いざというときに備えておく。いざ、というときになって必死になればいい。人はなかなか窮地に追い込まれるまでは動かないものである。尻に火が着かないと行動を起こせないものである。

僕はそれはそれで良いと思っている。前もってリスクに備えすぎると逆に身動きが取れなくなることもある。

リストラや倒産等の困難に直面したときに、必死に考え行動して活路を開くしかない。

 

会社に依存する生き方や働き方は危ないぞ、とそう強く思い続けることが未来を切り開く第一歩となる。 

サラリーマンの給料が働きより少ないのは当たり前だという件〈再掲〉

会社の利益は労働者に「分配」されるわけではない。

労働者の給料は「労働力の再生産」に相当する費用分しか支払われないのである。労働者である限りかつかつの生活を強いられ続けるのだ。

 

初出 2017/1/24

 

世の多くのサラリーマン(労働者と呼ぶ方が正しいが)は自分の働きに比べ給料が少ないと感じている。

元々賃金の額は不満足要因であって、多少の昇給があってもほとんどの人は満足しないものである。それと人は自分に対する評価が甘くなりがちで、自分が思っているように会社や同僚は評価していないことが多い。自分はこれだけ身を粉にして働いていて会社に貢献している、と思っていても周囲はそうとは考えていないのだ。

 

しかし、自己評価と他者による評価のズレだけで給料に対する不満足感は説明できない。

サラリーマンの給料が働き具合に完全に比例しないのは資本主義社会では当然のことであってそのシステムがそのように設計されているからである。

一言で言えば労働者は搾取されているのである。そして会社は搾取ありきで存在し発展するのである。この搾取に対して道徳的な批判をするのはナンセンスである。搾取自体は悪ではない(善でもないけれども)。資本主義体制であり続ける限り、搾取は絶対になくならない。労働者は資本主義体制を是とする限り、搾取され続けなければならない。

 

会社は労働者の働きによって得られた利潤を株主に分配し、役員報酬を取り、内部留保に回し幾ばくかの配分を労働者にする。会社は労働者から搾取した資本を再投資しなければその維持すらできない。会社が労働者に支払う賃金の額は労働者が生計を維持する分と労働者の再生産に要する分に相当するものを支払えば足りると考えている。労働者の生産性が上がっても会社の取り分が増えるだけで、生産性の向上に比例して賃金が上がるわけではない。

一方、人は自分の最低限の食い扶持の相当する以上のものを生み出すという本能的なものがある。余った分は贈与して、社会や経済が成り立ってきたという側面がある。

要するに労働者は常に給料以上の商品やサービスを生み出すという本能があり、資本主義下では従前の社会では元々贈与に供する分を搾取されているのである。

 

では、搾取され放題のサラリーマンがなぜ働き続けられるのか。

自分の生活を成り立たせるためというのは当然のことである。それに加えて自分の働きで会社を成り立たせているという意識を持つことによって安い給料でも働き続けられるのである。自分が属する共同体の一員である、という強い意識を持つことができるからともいえる。

逆に言えば、自分が共同体(会社等)の一員として共同体の存続にかかわる根幹的な仕事をしていない、と感じてしまえば労働は苦役になる。

労働は喜びにもなり同時に苦痛になる、という二面性を有するのはこのためである。

労働が喜びと感じられているときには給料が働きに比して少ないと感じても働き続けることができるのである。また、労働が苦役と感じられれば、少々の多額な給料を得ていても満足はしないものである。

 

自分の働きによって生み出されたすべてを自分ひとりのものにしたいと思えばフリーランスか自営による働き方を選択するしかない。この場合、完全に独立するしないと意味はない。下請け、孫請け的な仕事を「自営」しても、それは形の変えた(会社ー労働者間という形以外の)搾取が生まれることになる。

資本主義体制下ではフリーランスという働き方は「鬼っ子」的なものである。フリーランスという働き方は一見「自由」であるが、それに伴う不安定さは資本主義システムの中で依って立つ基盤が脆弱なことによるものである。言い換えれば「階級性」が薄いのである。

 

世のサラリーマンは資本主義体制下で生き続ける限り、自分の働きよりも少ない給料で働き続けざるを得ないのである。

ある種の労働者としての「宿命」なのである。

グローバリズム新自由主義が行き過ぎると労働者の処遇の劣化が加速する可能性がある。そもそもが資本主義システム自体に内在する危険性である。

労働者として譲れないことは自身の働きにリンクしない給料が「生存を脅かされない」レベルよりずっと上に維持されることであり、間違っても貧困に陥らないことである。まともに働いていれば生活に困らない程度の処遇を得続けることである。

ただ、漫然と働き、自分の給料を嘆いているだけではいつの日かなし崩し的に労働者としての矜持、権利、守るべき生活の質を奪われるかもしれない。

 

会社や学校をサボることは楽しいという件

学校生活においても社会に出て働いていても、サボることはいけないことだという意識を刷り込まれる。

時にはサボることは人としてなっていないと人格攻撃にさらされることもある。

労働至上主義的あるいは勤勉至上主義的イデオロギーが蔓延している社会でサボることは罪なのである。

 

学校や会社をサボることは本当に悪いことなのか。

ある人曰く、決められたこと(登校や出勤)を守れないような人間は信用されない。

ある人曰く、サボることで他人に迷惑をかけてはいけない。

またある人曰く、サボり癖の付いた人は何をやってもダメだと。

どれもこれも尤もらしい物言いではある。

でも、なんとなく「強者」の論理が勝っているような気がする。

サボるという行為は予め決められた物事に対して抵抗すること、あるいはそんなに大層なものではなくても変わり映えのしないつまらない日常をちょっとだけ壊してみたいという欲望の表れである。

サボることは悪いことではない。

サボることを放っておいたら不都合な一部の人たちが「サボること=悪」という「常識」らしきものを世に広めて、自分たちの既得権を手放したくないだけなのである。

 

僕は自慢じゃないけれどもサボり癖が身に染み込んでいる。

それが顕在化したのは高校生の時である。

僕が通っていた高校は当時「生活指導」といった類のものが全くなかった。生徒の自主性を重んじるという建前の放任主義だったのだ。

だから授業はサボり放題だった。

だから僕を含めた一部の生徒たちは嫌な授業やつまらない授業をサボって校外に出る、といった「悪さ」をしていた。

僕が通っていた高校はお城の真横にあるというロケーションだった。その城にあるお堀にあった遊歩道は絶好のサボり場だった。僕は一人なら文庫本をベンチに座って読み耽り、友人・知人と一緒になったりすればたわいもない話をして時を過ごした。サボる生徒を監視するために見回りをするなんて先生は一人もいなかった。

この時の経験が後のダメ人間であり、サボり癖のついた僕という人間を形作ったのである。

 

僕は働きだしてからもちょくちょく仕事をサボった。

僕はつくづく思った。年次有給休暇という制度は本当にいいものだと。有給を取りさえすれば、大手を振って仕事をサボることができる。こんな素晴らしい制度を勝ち取った先人たちに感謝し尊敬の念を抱いた(当時はそんなことまで思わなかったけど、後になってそう思うようになった)。

この国の労働者の有給休暇の消化率が低いことはよく知られている。なかなか仕事をサボれない状況は良いことではないな、と僕は思う。

 

会社や学校をサボることには背徳感がつきまとう。

みんなが勉強をし、仕事をしているときに自分だけがそれらから逃れて楽しんでいる、ということにある種の疚しさがある。その疚しさに耐えられない人はサボることができず、勤勉な学生・労働者となる。学校当局や会社の経営層はその疚しさを増幅させるために「サボること=悪」というイデオロギーを刷り込もうとするのである。

 

学校や会社をサボることの背徳感は同時に快感を僕たちにもたらすことになる。

仕事や勉強をサボるのは実に楽しいことなのである。

この快楽を僕たちから奪って、進学実績や就職実績、会社の業績等を上げようと学校や会社はあれやこれやの手を打ってくる。

サボる人には内申書や人事考課の評価点を下げる、といって脅しをかけてくる。多くの人たちはその脅しに屈してサボることをやめて勤勉な学生や労働者となる。

僕は何もサボっても人事考課の点を減じるな、と言いたいわけではない。どんどん減点すればよい。勤勉だけが取り柄の均質化された社員を大量生産すればいい。その結果、その会社がどうなるかは預かり存ぜぬことである。

 

僕の全くな個人的な考えなのだけれども、サボることの快楽を知りその大切さを知っている人こそが何か新しいものを生み出せると思っている。

サボり癖が染み付いたダメ人間である僕の戯言だと思われても、である。

 

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「働くことの喜び」なんて本当にあるのか、という件

僕はこのブログでずっと雇われて働くことはとても苦痛だと言い続けてきた。僕が特別な価値観を持っているからではなく、労働の持つ本質的なものである、とも言ってきた。

労働が全くの苦役であるならば話は簡単である。

しかし、働くことによって得られる充実感があり、満足感があるところから話は少々ややこしくなる。

 

「労働の喜び」というものは資本主義体制を維持するためには必要不可欠なイデオロギーである。労働が全くの苦役に過ぎないのであれば、いつかは資本主義的イデオロギーに齟齬が生じ、体制は崩壊する。

働くこと喜びがあるはずだ、働くことに喜びを感じよ、と「上から」一方的に押し付けることはできない。勤勉は美徳だとの価値観を広げることはできるけれども、個人の信条や価値観を塗り替えることなんてできはしない。

この資本主義体制が続いていること、労働者がなんだかんだ言っても働き続けているのは、「労働の喜び」的な何かが労働に内在しているのである。

 

労働は「賃労働」とその他の労働に分けて考える必要がある。

農作物を作る労働、自分で育てた農作物はすべて自分のものとなり、それらを売ったり自家消費する自由がある労働は会社に勤めて賃金を得る労働とは全く違うものである。余人に代えがたい商品を作る職人もそうだし、芸術家・作家・アスリート等もそうである。

賃労働という形を採らない「仕事」をする人たちには労働の喜びがあることは理解できる。

アスリートや芸術家、職人等の「仕事」と雇われ人の「賃労働」をごちゃまぜにして、「働くことの喜び」云々を捉えるのは明らかに間違いである。

 

雇われて働く労働者は会社の命ずる職場・職種に就いて、建前上は対等の立場で締結した労働契約による労働条件のもとで労働力を会社に提供して賃金を得ることになる。労働者は会社によって搾取される。搾取無き賃労働はありえない。

どこで働くか、どんな仕事をするかは労働者は自由に選択できず、賃金は会社の業績が良くても抑制されてそんなには上がらない。元々賃金は会社の利益を分配されるものではない。労働者の衣食住の確保をして次の一か月も働ける状態にするための、労働者の再生産(家族を維持する)のための、技術革新に対応する教育費の投資のための、それらに相当する額が支払われる、生産関係で決まるものである。

つまり、労働者である限り、いくら働いても常にカツカツの生活を余儀なくされるということだ。

 

サラリーマン(労働者)が職場を変えたいと思う理由として人間関係があがってくる。人間関係が良ければ、その職場に留まり続けることができる、と多くの人はそう考えている。

仕事をしていて喜びを感じるのはチーム・部署である目標を達成したときの達成感であることが多い。

いずれも「労働」の本質的なものではなく「外部」の要因に基づくものである。仕事そのものの面白さというよりも、良質な人間関係やチームワークという労働の「外部」にあるものに対する喜びである。

つまり、仕事自体に面白みはなくても、それ以外の代替物によって喜びを得て、明日以降の労働意欲に結び付けているのである。

 

僕の全くの個人的な考えになるのだけれでも、やはり「働くことの喜び」みたいなものはあるかもしれないけど、それは労働自体に内在するものではないということだ。労働自体はつまらなくて苦痛を伴うものである。

仕事によって自己実現をする、仕事にやりがいを持つことなんて本来はありえないことになる。労働はあくまで労働であって、そこに成長とか自己実現とかやりがいなんて介在する余地はない。

 

仕事に人生を捧げるなんて生き方は幾つかの例外(芸術家・アスリート等)を除いて、労働という形で何かに隷属し続ける一生だということだ。

とはいえ、大半の人たちは何らかの形で働き続けて、生活を成り立たせなければならない。

芸術家やアスリート、独立した熟練の職人、専門的なフリーランス等の形を採って働くことができれば「労働の喜び」を感じることができるかもしれない。

サラリーマン、労働者は自身が搾取される存在であることを意識し、そのうえで自律的に働くことで疑似的な「労働の喜び」を得ることができるかもしれない。労働の持つ残酷な本質から少しでも逃れることができれば、それで十分だと諦念することだともいえる。

「労働」、特に「賃労働」を根源的に突き詰めていくと救いがないように思えてくる。しかし、「労働」の外部で、人と人とのつながりを求めることによって、本質的な解決ではないかもしれないけれども、一筋の光明、救いが見えてくる気がしてならない。

 

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