希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人は皆「死亡率100%」。でもそのことを忘れてしまいがちだという件

人は生まれながらに不平等である。

これは厳然たる事実である。

才能に恵まれた人(特に「稼げる」才能)もいればそうでない人もいる。裕福な家に生まれた人もいれば貧しい家に生まれた人もいる。人生が思うとおりにとんとん拍子に進む人もいれば挫折ばかりを繰り返す人もいる。

自分の努力や意欲だけではどうにもならないことが沢山ある。

しかし、ひとつだけ完全に平等なことがある。

それは人は皆確実に死に至るということである。

 

どんなに名声を得ても富を蓄えても死から逃れることはできない。

秦の始皇帝は現世のあらゆるものを手にした後不老不死を求めたという。

生への執着、死の恐怖、これらは人が持つ根源的な感情である。

 

人は誰でも死亡率100%なのである。遅いか早いかだけの違いがあるだけで、この世に生まれたからには確実に死を迎えるのである。

メメント・モリ(死を思え)」という古の警句がある。このような言葉をわざわざ伝えなければならないほどに人は死から目を背けようともがくのである。

 

凡庸な人間である僕もずっと死を恐れ続けてきた。正直な話、今でも死ぬのは怖い。とりたててやり残したことがあるわけでもなく、この世に未練が強くあるわけでもないけれども、自分というものがこの世から消えてなくなることに何となく恐怖を感じるのだ。

 

ただ、死亡率100%という事実を受け入れると、ちょっとだけ気が楽になったような気もする。

どうせいつかは必ず死ぬんだ、ならば死を迎えるまでは好きなように生きてもいい、と開き直ることができるのだ。

捨て鉢になるという意味ではない。

僕のようなどこにでもいる平々凡々な人間でも、何らかの人生の意味付けができるはずだと前向きにとらえることができる。僕がこの世から消え失せたらあっという間に人々から忘れ去られてしまうけれども、この世に存在していたという証がわずかばかりでもあればいい、と思えるようになったのである。

 

人は皆死亡率100%だという事実を忘れてしまって、そのために様々な副作用が生まれているのだと思えてならない。

レールから外れた生き方を忌避しそんな人たちを排除すること、真っ当に生きなければならないという思い込みやそのことを他人に強いる同調圧力、そして他者に不寛容であること。

人は誰でも確実に死に向かっているという悲しみ(とばかりは言いきれないが)を共有する意識があれば、もっと相手に対してやさしくなれるのに、と僕は思う。

 

死を思うことは決して後ろ向きなことではない。

死を思うことでより良く生きることができる。

メメント・モリ」という言葉を心の片隅にずっと置いておこう。いつでも取り出せるように準備をしておきながら。